ep.44 Aさんが喜ぶから絶対に内緒にしておこうって

Aが「株式会社光と闇のはざまの少しのぬくもりと叫び」に入社して8ヶ月が経ち、売上は倍増し、チームの雰囲気も改善されていた。中村の出来事を機に、高山の素行も変わり、佐竹も自分の役割を見つけた。Aはチームの成長に満足し、会社は「人」で成り立っていると実感する。ある日、Aは社長のショコラに報告に行くと、ショコラはテレパシーで感謝を伝えた。ショコラはAに「BとCのいた過去に戻れるが、現在には戻れない」タイムリープが可能だと告げる。Aはその決断を迫られる。

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BとCのいた過去に戻れる。でも、もうこの時間軸には戻ってこれない。




ショコラの言葉は、冷たい刃のようにAの心に突き刺さった。




どうすべきか。元の時間に戻るということは、今の生活を捨てることを意味する。たった8ヶ月の出来事だったが、Aにとってそれは数年分の重みがあった。面接を通過し、意味不明な研修を耐え抜き、メチャクチャなチームに配属され、それでも売上向上を目指して必死に走ってきたのだ。今では経営体質も風通しも改善され、ブラック企業の汚名を返上するまであと一歩というところまで来ている。この努力をすべて無に帰すのか。ここで得たものを、自ら放棄してしまうのか。




しかし、BとCのことが心残りだ。彼らと過ごした日々は、Aの中でずっと引っかかっていた。今まで頑張れたのは、彼らに対してやり残したことを反省し、それを埋めるために達成してきたことばかりだ。BとCにしてやりたかったことは山ほどある。言いたかった言葉、伝えたかった気持ち。すべてが頭の中で浮かび、Aは息が詰まるような感覚に囚われた。




まるで、水の中に閉じ込められたかのようだ。四方からじわじわと水圧がかかり、窒息しそうだ。




「どうされますか?」




ショコラは切れ長の目でAをじっと見つめ、口を動かさずに言った。彼女の声がAの脳内で反響し、不鮮明な不協和音のように思考を乱していく。




「社長……ちょっと待ってください。さすがに、この決断は重すぎて……」




Aは言葉を詰まらせた。




「なら、もう一度考えますか。私はいつでもいいですよ。ただ――」




ショコラは一瞬考える素振りを見せてから、諭すような口調で続けた。




「――3日以内にお返事ください。戻りたい日々が遠くなればなるほど、成功率は下がっていきます。それに、あなた自身も決断が難しくなるでしょう。」




その言葉はまるで、時間が少しずつAを追い詰めているように聞こえた。




**




「Aさん、マネージャー昇進おめでとうございます!」




「乾杯!」




その日、急に呼び出されたAを待っていたのは、オフィスのすぐそばのもつ鍋屋だった。昇進を祝うサプライズ飲み会だという。Aは飲み会どころか、昇進の話すらまったく知らなかった。個室には鍋を囲んでチームのメンバーが勢揃いしている。佐竹、新崎、桃山、そして高山。ショコラは体調が悪く外出できないということで、備え付けの大型ディスプレイを通してオンライン参加だ。




高山が笑顔でAに事例の紙を手渡してくる。そこには、Aを営業部マネージャーに任命する旨が記されていた。まさかの昇進の知らせに、Aは急に笑顔がこみ上げてきたが、その笑顔はぎこちないものだった。




「も〜、なんて顔してんすか〜」




新崎が腕のアクセサリーをジャラジャラさせながら、Aの肩を軽く叩いてきた。彼女の笑顔に引き込まれるようにAも笑顔を返すと、佐竹が鍋の中から味噌スープをお椀によそってくれた。優しい香りがほんのりと鼻をくすぐる。




「本当、Aさん、いつも頑張ってますよね」




佐竹が優しく言うと、新崎や桃山も同意して微笑んだ。




「それは満場一致だな」




高山も軽く頷きながら、Aに向けてグラスを掲げた。全員がAのことを認め、祝ってくれている。ここには温かい空気が流れ、Aを包み込んでいるようだった。




だが、Aはふと思う。自分の選択でこの日常がなくなってもいいのか。




ディスプレイ越しにショコラの姿を見る。彼女は一瞬少し申し訳なさそうな表情を浮かべていたかと思うと、Aにテレパシーを送ってきた。




「お昼のときに言えなくてごめんなさい。でも、昇進の件はチームのメンバーからすでに打診を受けていて、みんなAさんが喜ぶから絶対に内緒にしておこうって言っていたんです。」




テレパシーでありながら、ショコラの声は柔らかく、優しかった。彼女の心からの思いが伝わってくる。もはやAにとって、この会社は単なる仕事場ではなかった。




「正直、私も残ってほしいんです。お母さんの会社を守ってくれたAさんに、これからも一緒に頑張ってほしい」




ショコラは少し俯きがちにそう言った。その顔は、ほんのりと赤みを帯びていた。




飲み会は深夜まで続いた。Aはみんなに囲まれ、最高の気分だった。




しかし、大好きなはずのもつは、いくら噛んでも味がしなかった。

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