ショートストーリーズ

篠宮空穂

知らない街の小さなカフェで

(知らない街だ)

どこかで聞いたようなセリフを心の中で小さく呟く。

沢木綾、24歳。社会人2年生。

まだしばらくは実家の世話になるつもりだったのに、突然の転勤の辞令。当然逆らえるはずもなく、あれよあれよという間に新天地での生活となってしまった。

(知らない街)

もう一度心の中で呟いて、耳たぶに触れる。ピアスの硬い感触が少しだけ安心感をくれた。

知らない場所は苦手だった。そもそも方向感覚に乏しく、道に迷いやすい性質。慣れない土地では少し気を抜くとすぐに自分がどこにいるかがわからなくなってしまう。──ちょうど、今の綾のように。

(やっちゃったなぁ)

そう思いつつ辺りを見回す。本当に、自分がどこにいるのか見当もつかない。

とりあえず思った方向に歩き始めてみる。秋の冷たい風が一筋、綾の首筋を撫でて通り過ぎていく。

ふと覗き込んだ路地裏に小さな看板が見えた。ともすれば見落としてしまいそうな小さな木の看板。

看板には「本と珈琲」と書かれている。喫茶店のようだった。

歩き通しで疲れていた綾は、まるで誘われるようにその店の扉を開いた。


カランコロンと軽やかなドアベルの音が店内に響く。

店は落ち着いた雰囲気で、店名にふさわしく壁一面に巡らされた書架と、カウンターにはサイフォンが数台並んでいる。

店に、他の客はいなかった。

「いらっしゃいませ。お好きなお席をどうぞ」

カウンターの奥からそう声をかけられ綾はきょろきょろと店内を見回す。よく見ると、どの席にもテーブルに本が一冊置かれている。メニューだろうか。テーブルごとに本の色は違っていた。しばらく悩み、結局窓際のテーブル、白い本が置かれた席に着く。

ブレンドを注文してしばらく窓の外を眺める。改めて見ても知らない風景で、綾の心を波立たせる。

気を取りなおすように、綾はテーブルに置かれた本に目を向けた。白い表紙の本にはただ一言「あなたへ」とだけ書かれており、どんな内容なのかはわからない。

本の表紙をめくる。1ページ目には表紙と同じく「あなたへ」と書かれていた。

次のページをめくると、「毎日お疲れさま」と書かれていた。

ポエム本の類だろうか?と思いつつさらにページをめくる。

次のページには言葉ではなくイラストが描かれていた。

母親の腕に抱かれた赤ん坊のイラスト。母親は子供が愛おしくてたまらないという表情で我が子を見つめ、赤ん坊は腕の中で安心して眠っている。

似たような写真が実家のアルバムにあるのを綾は思い出していた。

次のページでは子供が少し成長し、椅子に座ってニコニコと笑っている。

ページを捲るたび、本の中の子供は大きく成長していった。1ページ進むごとに、綾は子供の頃からの記憶を追体験するように思い出す。

幼稚園で流行っていた遊び、小学生の運動会で転んで膝を擦りむいたこと、中学生の初恋、高校で部活動に打ち込んだこと、必死になって勉強して志望校に合格した日の喜び。

本の中の子供も成長して大人になっていた。ページをめくる。

宝箱に詰め込まれた宝物のイラスト。

綾は、幼い頃の夢を思い出していた。長らく忘れていた、自分の夢。

(ああ、そうだった)

夢のために今の職に就いたのだ。叶えるためだったのに、すっかり忘れてしまっていた。

白い本は

「思い出した?」

と語りかけてくる。

続けて

「大人になったね」

「頑張ったね」

一ページ進むごとに言葉が増えていく。

最後のページには

「疲れたら、ちゃんと休んでね」

「ずっと、応援してる」

と綾を労る言葉で締められていた。

ぱたりと、本を閉じる。

裏表紙の隅に「わたしへ」

と書かれているのを見つけて小さく笑ってしまった。


本をテーブルに置きしげしげと眺めているところで珈琲が運ばれてきた。

綾は礼を言って珈琲を受け取ると、白い本を指して「面白い趣向ですね」と伝えて微笑む。

その言葉に、店員は「好評なんですよ。毎回内容が変わるんで、私は内容がわからないんですけどね」と不思議なことを言ってカウンターの奥へと戻っていった。

珈琲を一口飲み、白い本に視線を戻す。不思議なことに、表紙にも裏表紙にも──そして中のページからも、先ほどまであった言葉や絵は全て消えて、そこには真っ白の本が一冊あるだけになっている。

(不思議なこともあるものね)

珈琲を飲み終え、店を出る。日は翳り始めているが、綾の心は不思議と清々しく晴れている。

ひゅう、と秋の風が通り抜ける。冷たい風は、綾のピアスを通り抜けて爽やかな音を綾に残していった。

「さて、お家にはどう向かえばいいのかな」

言いつつも、また思う方向に足を向ける。多分、今なら迷子も楽しめるような気がして、綾は知らない景色を歩き始めた。

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