ソネット18
宝力黎
第1話 依頼
豪華なリビングというものは何度も見たが、その家ほどのものは初めてだった。
ドアが開き、初老の紳士が一人で入ってきた。先刻、「少々お待ちくださいね」と言って茶を出してくれた女は伴っていない。
「待たせて申し訳ない」
立ち上がろうとするのを手で制し、向かいに腰を下ろした。所作は慇懃丁寧で、どこか尊大だ。
「戸倉探偵社さん――だね?」
「そうです。戸倉虹司といいます」
戸倉は頭を下げた。自分に用のある顧客は概ね似た人種が多いと戸倉は思っている。いわば目の前の紳士も見慣れた人種だ。
「河西清吾だ」
「お名前はかねがね――」
県の医師会会長を務め、黎明大学創始者の曾孫である高名な医師は戸倉のその言葉も手で制した。
「世辞はいい。それよりも本題だ」
河西は手に持っていたものを戸倉に向け、テーブルに置いた。それは小さな写真立てだった。
「息子の倫太郎――享年二十九歳だった」
戸倉は写真を見た。今風の髪がホッソリとして涼しげな眼差しに似合っている。どこか寂しげにも見える笑顔だ。
「私の後を継ぐつもりで医師になった。勤務先は知人が経営するKAGA総合病院だ」
県内では河西の病院と双璧をなす超の付く有名病院だ。
「自殺だった」
声に感情を感じず、戸倉は思わず顔を上げた。声同様、河西の顔にはおよそ表情と呼べるものが無かった。
「ホームで電車に――ね」
「そう……ですか。それはお悔やみ申し上げます」
河西は続けた。
「勤務先で投身自殺などしなかったのはせめてもだ。鉄道からは損害の賠償を求められているが、そんなものは大した話では無い」
「私を呼ばれた理由は何ですか?」
河西は小さな吐息を零して言った。
「探してもらいたい者がいる」
「どなたを?」
河西は封筒を取り出し、中から一枚の便せんを抜いて広げた。
「遺書と言えば言えるのか。こんな物が残されていた」
覗き込むと、ほんの数行の文章があった。
「拝見しても?」
河西は頷いた。戸倉は便せんを手に取った。それは手書きで、男のものとは思えない柔らかで優しげな文字だった。戸倉は声に出して読んだ。
《君は僕の飛びたい空にある太陽だ。僕は時々、まぶしすぎて目をそらしてしまうけれど、それでも君の傍にいたいと思うんだ。僕が持ちたかったものすべてを持ち、僕が恐れるものすべてに戦いを挑める君は、本当に僕の――》
それだけだった。
「恋文――というのか、私には女々しいものにしか見えんが。何せそれだけが最後に残されたものだったのは事実だ」
戸倉は便せんを開けたままテーブルに置き、河西に尋ねた。
「この相手を探せと?」
「そうだ。せめて息子が誰を想っていたのか。どんな相手だったのか、それを知りたい」
河西は開いた両脚の膝を握った。
「こう言っては何だがね、あの子に不自由などさせた記憶は無いんだ。医師の道も強制などで無く、あの子自身が選んだものだ。留学もさせ、最高の経験をさせてきたという自負がある。それが――」
戸倉は一文に視線を落とした。
《僕が持ちたかったものすべてを持ち》
「そんな懸想一つで自ら命を絶ったとは――しかも医師がだ!」
戸倉は便せんを封に戻した。
「文章にある《君》が誰であるかは、息子さんの行動パターンを見ていけば高確率で絞り込めるかと思います。ですが河西さん、一つ確認させてください」
顔をゆがめている河西が戸倉を睨んだ。
「もし相手が誰か判ったとして、それでどうされるおつもりですか?」
河西はわずかに俯くと呟いた。
「特にどうもする気は無い。恨みがあるわけでも何でも無いしな。ただ知りたい――それだけだ」
戸倉はしばらく考えてから言った。
「わかりました。お引き受けします。通常の人捜しとは異なり、隠れようとする人を追うのとは違います。数名にまで絞り込むこと自体は、そう難しいことと思えません。ですので、報酬に関しては――」
戸倉は概算をメモにして出した。
「事後にお支払いいただければ結構です」
「判った。そう約束しよう」
戸倉は倫太郎の日常を最もよく知る人物は誰かと尋ねた。河西は、それならば家内だろう――と答えた。呼ばれてやって来たのは茶を出した女だ。若かったので、まさか河西の妻とは想わなかった戸倉は面食らった。
「戸倉さんの質問にお答えしなさい」
言われて女は河西の横に腰を下ろした。戸倉は、ボイスレコーダーをオンにして質問を始めた。
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