騰り月ーあがりづきー

褥木 縁

騰り月ーあがりづきー




 

 山上にあるその村には一年に一度、十五夜に昇る朱い月の怪異伝承があった。一人の猿回しを遠因えんいんとし、集落から、いや。もっと詳しく言ってしまえば、村民から端を発したその怪異は後々のちのちに。そして、今の今までにあたる所の現在ですら人間を自然にかえすきっかけとしてさわりを与えている。


 戸をめよ。

 窓をざせ。

 目隠しをしろ。

 そして。

 村を歩くな。

 

 昔からの伝承で、村民は知っている。その日。障りに触れぬ、十五夜の過ごし方を。



 



 ◯

 弟が家の玄関をくぐらなくなって、もう半年が過ぎようとしていた。大学の天文サークルに入って熱狂的に、そして熱心に活動していた弟は半年前にサークルメンバーと一緒に山登りへ行ったきり行方不明になってしまった。ニュースにこそならなかったものの、両親は捜索願を出し、大学に電話をして問い詰めたりもしていた。


 道迷い・転倒・滑落。

 

 警察も山岳遭難事故として大規模とまではいかなくても結構な人員を裂いて捜索をしてくれてたみたいだが、すぐに打ち切りとなった。

 その期間は三日。

 父は絶句し、母は落胆した。それもそうだろう。普通、山の捜索は人員も、時間も多分に掛かる為、1週間程続くようだが弟が行方不明になった山にはある曰くと言うか障りがあった。


 ー騰り月ー。


 旧暦きゅうれきで見る十五夜の前中後せんちゅうごの一ヶ月。

 初秋しょしゅう朔月さくげつ。8月。

 中秋の名月。9月。

 晩秋ばんしゅう残月ざんげつ。10月。


 その山ではこの三ヶ月に集中して、周辺の山々に比べて軍を抜いて行方不明者・遭難者が多くなっていたからだ。


 その山の周辺地域では。


 「神隠しに遭ったんじゃないか。」

「あぁ、またこの月が来たか。アガリビトじゃ。アガリツキじゃ。」

 なんて噂が都市伝説の様にまことしやかにささやかれていた。警察も表立ってその噂を信じているわけではなかったが、暗黙の了解なのだろう。その山に関する捜索願いを受けはするも早々に切り上げるのが常となっていた様だった。


 山登りに行ったのは3名。他二名の両親も同じ様に、色々と動いていた為たまに会って、集まった情報を交換していたがどれも決定打になるような情報にはなり得なかった。

 サークルと言う名目上、顧問なんてものは居なかったらしく責任の矛先を見失い、母は精神的にまいってOD。いわゆる薬物過剰摂取に走ることも多くなっていった。

 そのたびに一時的な躁と鬱を行き来し、往来おうらいし、心の在り方と拠り所を探し苦しむ母の背中を父が擦りさすり落ち着ける。


 そんな日々がもうかれこれ4ヶ月程続いていた。父も疲弊し、目の下のクマが日を追うごとに濃ゆくなっていったのは言うまでもないことなのだけれど。


 実に身勝手で父には悪いとは思ったけれど、そんな崩壊間際の家庭から逃げるように私も家を開けることが多くなった。誤解なきように先に言ってしまうと、別に家出って訳では無い。


 ただ単に、ただ単純に、外出が増えた。

 行く所は大体決まっていた。休日の昼間ならネットカフェか図書館。平日なら、とある変わった喫茶店だった。


 その喫茶店は、ガイドブックとかに載っているようなお洒落な喫茶ではない。地域住民の中でも知る人だけが知るこじんまりとした小さな喫茶店だ。


 

 言ってしまえば、この町自体観光業が盛んなわけでも無ければ、観光色が強いわけでも無いからガイドブックなんてものがそもそもそんなに多く刷られている訳でもないんだけれど。


 その喫茶店は、店主の事情なのか、趣向なのかはわからないが夕方から夜にかけてしか開けない一風変わったお店だった。


 名前は。

 ー夕凪ー。

 という。


 内装も変わっていて、店主とキッチンを中心にして囲むようにカウンターが設置されている。見た目は一昔前の回転寿司のそれだが喫茶というお店の特性上、凄くお洒落にまとまっていた。


 サイフォン・細長い硝子から豆が覗くキャニスター。

 仄明ほのあかるく吊り下がる間接照明。


 お洒落。


 確かに一概に、一言にお洒落だと言っても扱う道具やインテリアが時代と逆行していて、その雰囲気は流行りカフェと言うより朝ドラなんかに出てくるような純喫茶の様な空間が広がっている。

 チリン、チリンと上の鈴が綺麗な音を鳴らしながら扉が開く。まぁ、開けたのは私なんだけれど。


「あら。いらっしゃい、葉月はづき。」

 

 物腰柔らかに出迎えてくれたのは此処を1人で切り盛りしているマスター。よわい五十を過ぎようかと言う歳の割には見た目がえらく若い。初老と言われても通るだろう。皺はあるがシミはない。同年代のご婦人、貴婦人きふじん達に比べれば恐ろしく整っている部類だろう。



 今ですら、1回り離れた客に声をかけられる程だ。若い頃は尚の事、引く手数多あまただったのだろう。そう思いながら、軽く挨拶を返して1番奥のいつもの場所に腰を下ろす。

 

「ええ、ママ。夕方になるとこの場所が頭に浮かぶから。すると自然と足が向くようになっちゃった。」

 

 弟が失踪後。

 母が、実母じつぼが、鬱を発症してからと言うもの家庭に居場所を見出せていなかった私は此処ここ。夕凪に新しい居場所を見るようになった。それから相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いてもらったりと何かとお世話になる事が多くあって、今となってはもう1人の母親とも言える存在になっていた。

 

「毎度毎回、来るたびに嬉しい事を言ってくれるじゃない。私も実の娘を持ったようで嬉しい。」

 

 そう言って口角を少しあげながら、いつものイタリアンローストの細挽きでいいわね。と問いかけながら豆を挽く。

 深煎りの濃ゆい珈琲を淹れるママが聞いてくる。

 

「最近はどうなの?弟君の神隠し事件の進展はあった?」

 

 神隠し事件。それはママがこの不可解な行方不明事件に対して付けた呼び名だ。基本的に現実主義だが、所々、考え方の節々に信心深い所が何処かある。

 

「ううん、警察からも、周辺からも、そんな大して手助けになるような情報は無いかな。なんならもう、ママも言うように神隠しなんじゃ無いかって疑いの声の方が多く聞こえてくるもん。怪異とかが要因ならもう打つ手も、出す手も無いよ。本格的に八方塞がりって感じ。」

 黒く深い珈琲を私の前に出しながらママが静かに、微笑みながら言う。

 

「そんな事も無いわよ。もし、少しでも怪異とか神隠しが頭によぎるなら、1つ思い当たるお店があるわ。」

 随分と昔からある古書店なのだけれどね。

 とそう言って続ける。


 「古い妖怪伝承ようかいでんしょう怪異文献かいいぶんけんを取り扱う文殿ぶんでん。そこの書物は総じて"本物"だというわ。もっとも、呼ばれなければ行き着けないとも言われているようだけれど。」

 まぁ、極力。呼ばれなければ、繋がらなければ、自ら関わる事を避けた方が良いお店ではあるわ。

 そう言って、角砂糖とミルクの入った銀容器を手前に出した。


 一言。素直に言ってしまえば。素直に言ってしまうと。あやしい。凄くあやしい。

 「へぇ、纏屋書店…か。なんか江戸時代の火消しみたいな名前だね。」

 「纏うものが違うのかもしれないけれどね。でも、今の葉月ちゃんなら多分行き当たるかもしれないからもし、見つけたら。」

 

 入ってみなさいね。そう口にするママの表情は少しばかり妖艶ようえんに見えた。


 珈琲一杯で、1時間も長話をしてしまった。それでも、文句どころか嫌な顔1つ出さないママには本当に頭が上がらない。


「うん、帰ろ。」

 外を見れば、薄暗い。黄昏というより、この薄暗さは宵の口って感じだ。

 

 夜の入口。宵の口よいのくち


 今の町の雰囲気はまさにそんな感じだった。家路につこうと歩いていると、やたら暗い路地が目についた。細い路地。とは言わないが日が落ち、影が多くなっているのか凄く狭く窮屈な印象があった。自然と足が向く。好奇心、なんてものはない。どちらかと言うとしっかり怖いし、ちゃんと行きたくない。

 けど、私の体は違ったようで、どんどんその路地を入っていく。


 進む道の端。暗闇が一層濃ゆい所を誰かが横切った気がして視線を投げる。

「あれ、今。人が、通った気がしたけど。」


 歩く音が聞こえたわけじゃない。なんとなく、視界の端で動く黒いもやを見た気がしたのだ。気にしてはいなかった。気にしてはいけなかった。

 けれど、気にせざる負えなくなっていた。奥へ奥へと進むたびに、進むほどにその視界の端に移り、動く。いや、うごめく黒い靄の数は増して形も、大きさも、もう人間のそれでは無くなっていた。


 私より遥か上かられて、左右に揺れる髪は濡れ、強い潮の臭いが鼻を突く。怖くなり反対に目をやれば、殆ど骸骨のように縦に細長い人の顔。目の辺りから長い腕が生えて、魚の尾のようにビチビチと有り得ない方向に曲がっている。まるでこちらに「おいで、おいで」と手招きをする折れた腕が揺れる。


 声を出しては行けない。振り向いてはいけない。怖くて足がすくむ。けれど、立ち止まったところで救いも無い事は直感的にわかった。来なければよかった。帰りたい。そんな感情だけが、そんな感情のみが心を支配していく。


 そんな袖引く恐怖に耐えつつも歩いていた先。見えてきたのは淡く怪しい赤い光。両開きの磨り硝子ガラスの戸。その前に掛かる、1つの行燈あんどんの光だった。行燈の下には偉く達筆たっぴつな書体で"纏屋書店"と書かれてある立て看板。眼の前まで来てはなんだが、とても入る気にはなれなかった。此処ここは、今も周囲に潜みこちらをうかがい見ている"ナニか"よりもよっぽど恐ろしいモノがこの硝子越しに待ち構えているような気がしたからだ。


 少しの間、中も見えない磨り硝子戸と睨み合い、向かい合って、ただただ立ちすくむ葉月だったが、背中を押したのは硝子戸の斜め上に垂れる掛け軸の文言だった。


 【騰り月ーあがりづきー】。


 勇気を振り絞り、ガラスの戸を引き開ける。硝子越しには塗り固められた闇、押し込められた夜のような黒が広がっていたが、開けるとそこには中央に続く廊下を挟んで、2つの大きな本棚がある。


 その中ににごった色をした、いやどちらかと言うと持ちうる、持ち味だったのであろう"色"を取られ。もしくは封じ込められて、色褪せいろあせかろううじて陰影がついた鈍色にびいろの様々な巻物が積まれていた。続く最奥に広がる9畳程の帳場。四ツ端と、中央に座している帳台から蝋燭の火がゆらりゆらりとアタリを薄暗く照らしている。


 その帳台に、一人の人物が片膝を曲げて腰を据えている。


「やぁ、いらっしゃい。」


「本当にあるんですね。」

 周囲を見渡しながら漏らした葉月のその言葉は、ほぼ、殆ど無意識に出てしまっていた。それを聞いた店主らしき中性的な人物は少し楽しそうに口角を上げる。


「ほう、噂が立つほどに名が知られていたとはね。此処にはそんなに居座った覚えは無いんだが。人伝に聞いていて来たのかな?知り得たところで此処の扉を引ける者もそうはいないのだけれど。」

 「ええ、知人から名前を聞いて。それもついさっき。」

 

 そうか、と店主が口にした時。蝋燭の火を遮り畳に写った影が異形に歪んだ気がした。

 

「此処はね、【物語】を紡ぐお店だ。売ったり、貸し借りをさせてやれるわけじゃない、ただ紡がれるのを待っている【物語】たちの住まう場所なんだ。ほう、それは珍しい事もあるものだ。余程強く、君を呼んだ物語があったようだね。ゆっくり見ていくと良い。すぐに見つかるだろうさ。」


 そう優しく話し返す声は、蠱惑的と言っていい程不気味な妖艶さがあった。

 見た目も恐ろしく整っている。美人は意外に声を掛けられにくい。なんて言われたりもするが此処まで整っていると、いや整いすぎていると相対した相手は萎縮してしまうだろう。


 オーバーな白いワイシャツと上から羽織る黒鳳蝶が彫られたロングのカーディガン。毛先が銀に光る狼のような髪から覗くのは片耳に付けられた棒銀のピアス。


 そして、極めつけは甘い紫煙を作り吐く銀煙管。しかも羅宇の部分は濃ゆい青が誂えてあり、それが渦のように動いている。まるで深海の一部を切り取って閉じ込めたような…。不思議な視え方をしたが凄く心が惹かれる。余程高価な宝珠なのだろうきっと。

 一服し、顎を上げて煙を吐くその身姿は、大体の人間を惚れさせるだろう。纏う雰囲気さえ無ければ。

 雰囲気だけの話をするなら、不気味の一言。もっと言ってしまうと不穏・不吉・不浄。

 

 夕凪のママが言っていた『極力関わらないほうがいいお店。』の意図が。言いたいことが。わかった気がした葉月だったが、巻物に投げる視線を切ることが出来なかった。上から順に見ていく。


 中段の端。淡く光を放つ巻物が葉月の目についた。

「初めて見た。へぇ、巻物が光るなんて…。」

 見れば見るほど、見つめるほど自分自身の目が錯覚を起こしたのかと疑いが巡る。狼狽うろたえる心とは裏腹に手を伸ばしてその巻物を取って縛られている紐に手を掛ける。


「灰色?色こそ無いけど、光っていて綺麗。怖いけれど。」

 

 いいや、そういう色なのさ、その子はね。と店主が薄く笑う。

 

「その色の名は淡墨あわずみという。淡墨衣うすずみごろも、いわゆる喪服に使われたり、かつては身罷りみかまりの文に使われたりした不遇ふぐうな色でね。」

 

 怪訝そうに巻物を睨む葉月に薄い笑みを浮かべた店主が語る。

 そう、嫌な顔をするものではないよ。その物語は君を呼ぶべくして呼んだみたいだ。と優しい声で諭すさとす

 

「それにね、濁色だくしょくではあるにせよ、この色には別の意味もある。淡墨桜うすずみざくら。この日の本に根を張る三本の千年桜の1つに名があてわれる程には位が高い色彩だ。せっかくだ、ゆっくり読んでやってくれ。」

「で、でも外はもう、暗いですし時間が。」

 

 そう言って店主の方に視線をむけて、手が引っかかったのだろう。固く縛られていた巻物はスルスルと解け、焦る葉月に構うこともなく物語が始まった。

 ふと文字を、最初の一文を読み始めた葉月は目を逸らそうともせず、その不気味な薄墨で書かれた物語の中に"憑き"をみた。






 

 ◯


 

 

「みにいこう。」


 突発的に、そして突然言い出したのは同じ天文学サークルで活動している俺の友人の1人、月久つきひさだった。

 ニコニコしながら俺と、隣で天体の表をいじくり回しているもう1人の友人、どちらかと言うと変人と言われる勇斗ゆうとに、とある話をしてくれた。


「ねぇ、前に言ってた朱い月が昇る山頂の村。行ってみようよ。空に近い分きっと月が綺麗に見えるって!あ、折角ならその朱い月が昇る時期を狙ってもいいと思う。あわよくば朱くなった月が見えるかも。」

 

「でも、その噂。あくまでも都市伝説みたいなもんだろ?まぁ、ここの地域は栄えてないから都市は付かないんだけどな。」

 そう言った俺に乗っかる勇斗。

「確かに。俺らの住んでるこんな過疎地域に流れる噂とかってなんで言うんだろうな。ただの伝説?その方がなんかかっこいい。」


 ここにきて、天体以外の知識、いや、常識がまるで外れている馬鹿で可愛い我が友人2人である。月久は楽しそうに返す。

「どうなんだろう、捻りひねりもなく言ってしまえば伝承とか?逸話?とかって言うのかな。まぁ、そんな事より、調べてきたんだよ。騰り月伝承。」


 そう言って取り出したのは、古い巻物だった。開いてテーブルに広げると、そこには墨で描かれたであろう大きい月が描かれていて、その横にえらく達筆な字で騰り月と書かれてある。そして、更に横に伸ばして行くと、一人の人間と首紐で繋がれた猿が飛んで踊っているような絵が見えてきた。


「首紐に繋がれた猿と手綱を握る人間。猿回しだ。でも、考える程わかんないよな。月って色んな動物との話があるけど猿って聞いたこと無いよ。うさぎとかすっぽんとかなら耳にすることも多いけれど。それと、たまに猫。」


 そう言う勇斗を茶化すように月久が言う。


「月と猫ってなんかお洒落だよね。へへ、他の伝承と差別化したいが為に猿ってことにしたのかもね。」

 と返し、笑う月久のこの笑顔に俺等はつくづく弱い。


 月久と勇斗。そしてこの俺、友成ともなりは幼稚園からの付き合いで、世間で言えば幼馴染って奴だ。昔から月久は人一倍笑う奴だった。楽観的というか、辛い何かから逃れるために、忘れるために笑っているような奴で、俺と勇斗はなんやかんやで此奴の事が嫌いになれずに今の関係に至る。もう此処まで来ると腐れ縁だ。


 そんな会話をしながらも、巻物を更に広げていくと次に出てきた絵は少し不気味さを纏ってまとっていた。墨のみで描かれた白黒の月に淡い赤色が着いてその下に複数の猿の死体が描かれていた。少し空けて、その横には一匹の牙を剥いた大猿を取り囲む様に大勢の人間が描かれている。

 

 背を向け逃げる者。

 相対して縄を掛けようとする者。

 自分の髪を毟りむしり山へ入っていく者。


「なんだよ。これ。いよいよ怖い話っぽくなってきたな。」


 勇斗の口から漏れた言葉を聞いて、月久の口角が上り巻物の続きを見ようと広げていく。けれど、その先にあったのは空白だった。

 「あれ、もしかしてこれで終わりかな。」

 先程まで浮かべていた好奇心混じりの笑みが少しずつ消えていく。


「まぁ、伝承なんてどれも曖昧なものだろ。てか、この巻物随分と古いようだけれど、何処から見つけてきたんだよ。」

 疑問に思った俺が聞くと、月久は巻物を巻きながら、にへっへと笑って言った。


「古書店から貰ってきた。持っていくと良いって店主の人がくれたんだ。」

 聞くにその古書店には月久が持ってきたこの巻物と同様の物が多くあったらしい。なんなら、巻物しか扱ってないんじゃ無いかと思う程だったんだと。明かりは蝋燭の火のみ。この時期、ただでさえ茹だるゆだるような暑さなのに光源が火なんて熱中症所の話じゃない。


「でも、不思議と暑いって感じはしなかったよ。むしろろちょっと肌寒いまであった。凄い古い建物みたいでエアコンらしきものも見当たらなかった。」

「買ったんじゃないのかよ。貰ったって、どういう事だよ。」

 

 怪訝な顔を浮かべて聞いてくる勇斗に、月久も首を傾げていぶかしく答える。

「いや、僕もふと立ち寄っただけだったし買うつもりも全く持って無かったんだよ。1回は断った。持ち合わせもなかったし、多分どの巻物も古い文献って感じでさ。この手の書物って、大体すごく高いって言うのが相場だろ?だから言ったんだ。買えないので入りませんって。」

 

 でも、その店主が笑って言うんだよ。

『その子がついて行きたがっている様だから、見つけても受け入れてやってくれ。』って。

 

 綺麗な笑顔だった。そう、思い返す月久の顔はニヤついている。

 

「だって、それから何も手にせず帰ってきた次第だったんだけど、バックを開けてみたら入ってたんだよ。んで返さなくちゃいけないと思って、お店があった所を探し回ったんだけど。」

 ここからも不思議なんだよ。と首を傾げて笑顔が消える。眉を吊り上げて悩む表情は、月久がマジで困っている時にする表情だ。

 

「どこを探しても、何回探しても見つかんないんだよなぁ。道間違ったのかと思って路地っぽい路地を何回も通ったんだけど散々探しても見つからなかったから諦めてここに持ってきたんだ。」

 

 同じ時間帯にいかなかったのかよ。と勇人が聞く。

「その時間帯、夕方からしか開けないって店なのかも知らないぜ?店主のこだわりとかもあるんだろうし。隣町にある喫茶店も確かそういう趣旨でやってたろ。【夕凪】って店。その趣向が物珍しくって繁盛しているみたいだぜ?」


 勇斗が話しているその喫茶店は俺も知っていた。家族で何回か行ったことがある。本当にレトロで小洒落た店って感じ。マスターのおばさんが昔美人だったんだろうって面影が残りすぎていて、俗な言い方をすると美魔女って奴だ。


 すると月久の顔が不穏ににごる。

 

「行き逢ったあの場所、あの路地裏に夕方は行きたくないんだ。うまく言葉には出来ないけど不気味っていうのかな。人の目じゃないナニかにじっと見られている気がして嫌なんだよ。路地端ろじはじの影とか、薄暗い窓から歩く人を見定める様な目線が飛んでくる様な気がするから夕方には行ってない。それに、あの路地の影に入った自分の影がやたら蠢くように見えるんだよ。」

 

 自分の影じゃないみたい。と右手で左腕を抱えてうつむいた。


「それに、さびれた家屋と店先に垂れる白布と行燈。雰囲気在り過ぎてこの街の中に在っても場違い過ぎる程の存在感を違和感は隠せない。だから、すぐに見つかるって思ってたんだけど、建物自体も無いんだよね。」



 まぁ、そのお店の人が持ってって良いって言ってたから多分大丈夫だと思う!

 溌剌はつらつと言い放った月久の顔にはもう笑顔が戻っていた。やっぱり俺は、俺等は此奴こいつが好きだ。


「まぁ、そんな事より山頂の村に行くための計画と準備進めようぜ。月久はその騰り月の伝承の時期とか調べておいてくれよ。勇斗と俺で日取りとか、準備とか色々済ませておくから。お前そういうの苦手だろ?」


「うん!苦手!よろしく!」


 おう、任せとけって。と勇斗が仕方なさそうに浮かべる笑顔は保護者のそれに近い。

 そう言って大学の端に追いやられた様に佇む、9号館の一室を出る3人の、伸びる影を作り出す夕日は終わる。

 次に控えるのは闇を纏う夜。

 混ざる異常と手を引く異形。

 ソレらが目を覚ます時間帯。


 その時、知らずの路地で行燈に火が灯る。



 ◯

 真宵山まよいやま。あらゆる怪異がひしめき、乱れ、混ざり合う。そして新たな怪異を産み落とすと言われる、数ある霊山の中でも異質で異色を放つ異界ではあるが、それゆえいつの時代も、この現代に至っても人を魅了し惹きつけ続ける霊界の類である。


 その山の9号目辺りを通るドライブウェイの近く設けられた駐車場に影を落とす3人の男。そう、能天気天体サークルの3名だ。アウトドア用のリュックは3人共パンパン。なんてことはなかった。

 一泊する筈、ましてや野宿する可能性すらもある山頂での一夜、それをかんがみて考えると偉く物が少ない。拘りこだわりが色濃く出たのは強いて言えばアウトドアに特化したブランドの靴とウェアぐらいだろう。あと、気になるのは一日分のドライブウェイの料金ぐらいだ…。


「まじで、運が良かった。月久の親戚のおじさんがあの村の出身だったなんて。」

「そうだよな。でも話が出来すぎてる感は否めないと思うぜ、友成。物語ではよく聞く設定だ。まるで小説の一片みたいだぜ。」

 相も変わらず、少しひねてる勇斗である。


「でも、叔父さんはもう住んでないし空き家はたまに"繋がる"古書店の人が来るからって維持はしてるけど、普段は使わないから使って構わない言ってたから。」


 でも、叔父さんはもう、村の話をするのも嫌そうだった。そう、悲しそうに俯き胸に掛かった黒い石がはめられたペンダントを片手で握る。そんな月久の肩を軽く叩いて、気持ちを切り替えた3人は山の山頂まで歩き出した。



 ◯

 九十九折つづらおりが多くあるのもこの山の特徴の1つで、それを目的としてバイク乗りから偉く人気ではあるけど、その九十九折の近くに山へ入る人様と休憩も兼ねての駐車場が麓と5合目、そして山頂近くの9合目の3箇所にある。

 

 実際入ってみてわかったけれど、この真宵山。噂通りに、いや噂以上に太陽を通さない様で真昼とは思えない程に薄暗かった。いくら陽を遮ると言っても昼。夕方、それも宵の口と呼ばれる時刻ほどに暗いってわけではないが、かろうじて懐中電灯が必要になるぐらいには闇が混ざる。

 

 だけれど、俺ら三人の足をすくませたのはそれだけじゃない。

 

 周囲の薄闇に紛れてこちらをうかがい見る様な視線が上下左右そして前後から飛んでくる。受ける視線とはまた別に、俺たちの視界の端に崖を駆け抜ける白い猿みたいな奴が、見えた気がして気が気じゃない。ガサガサと木々が揺れて葉が落ちる。その見えないナニかが崖を蹴り飛ばす音と弾け飛んだ小石が大石に当たって崖からガラガラと崩れ落ちていく滑落音。

 


 歩き始めて数分。眼の前から赤い光が近づいてくる。カランカランと音が聞こえその音と光は段々と近づいてくる。ある程度近くなってそれが人だということに俺等は気づいた。

 江戸の薬屋を思わせる大きい箱を締縄で背負い、片手で仄かに照らす提灯を持ってゆっくりと歩いてくる腰が曲がった坊主頭の老人。時代錯誤もはなはだしいその格好は俺等に違和感とじんわりとした恐怖を持たせるのには十分だった。


 なるべく関わらない方が良いと思ったのは俺だけでは無いようで、3人で目線を合わせて頷く。下を向いて、道の端に寄り、押し黙ってすれ違う。


 その時、その老人が声をかけてきた。


「おい、お前さん等や。何処に行くんだい?この先、すたれて捻れた村しかねぇ訳だがそこに行くってんじゃねぇよな?」

 

 勇斗が反射的に切り返す。此奴の性格だ、言われ方にムッとして思わず反応したんだろう。

「なんだよ、爺さん。知ってんの?山頂の村。朱い月が昇るって奴。てか本当にあるのかよそもそもの話。」

 

「まぁ、在ったり無かったりって所だろうよ。今しがた行ってきた身だ。ちょいと昔作った古道具の具合を見るついでにな。まだ在るだろうから行きたきゃいきゃ良い。ただ、今夜は外に出ないことだ。お前さんたちのような怖いものを知らぬ若衆はすぐにさらわれっちまうからな。てめぇで染まって、てめぇで泣くんだ。笑わせてくれる。」


 「偉く知っているような言い方だな爺さん。あの村の出身なのか?薬箱に草鞋わらじ。そして提灯ちょうちんなんて今のご時世見たこともねぇ。その格好が村では普通なの?」


 物を知らねぇとは不憫ふびんなもんだな、と嘲笑ちょうしょうを浮かべる老人の顔に深い皺が走る。

「いいや、儂はただ古い知り合いに呼ばれただけだ。くれてやった硝子細工がらすざいくのペンを見てやってくれってな。地に足付けず、転々とする奴ではあるがこんな辺鄙へんぴな村へ呼出される事になるとは思いも寄らなかった。」

 

 にしてもだ、とこちらを見る老人。

 

 「使っている道具に馴染みが無いようだ。お前さん等、山登りは慣れてみてぇだが大丈夫なのかい?山に限ったことじゃねぇけどな、慣れない所や環境に行くときは1つぐらい思い入れがあったり使い慣れている道具を身に着けておくことだ。足元をすくわれそうな時に手を取ってくれるかもしれねぇからな。そこの坊主の黒天眼くろてんがんの首飾りみたいにな。」


 その、暝殘めいざんと名乗った古道具屋は月久に向かって温和な笑みを返して言う。

 

「おい、坊主。お前さんのその首飾り、受け継ぎ物だろう。大事にすることだ。何があっても手放すことはしちゃいけねぇぞ。」

 首振り人形のように何度も頷き、泣きそうになる月久。なにか俺等にはわからない思い入れがあるのだろうと思ったが、詮索はしない。野暮だ。

 

 まぁ、しがない古道具屋の助言としておぼえておいても損はないだろうよ。そう言って、背を向け歩く姿は不気味そのものだったが、多分根から悪い人ではないのだろう。そう、3人で話しながらまだ在るという村に向かって歩き出した。



「お、見えてきたぜ。畑だ。小せぇけど。」

 

 勇斗が少し呆れた様に指さして此方こちらを向く。段々とこの深い森の高い木々が退いて空の領地が広がっていく。見渡すと周囲に田んぼや畑があり、その中に家屋が並んでいる。電柱が無いことに気づいてスマホを見るも案の定圏外だった。ホラー小説ならフラグは立ちまくりだ。

 ほぼほぼ、外界とは関わる機会の無い事が関係あるのか、江戸時代の村町むらまちといった様子だ。


 当然村人は1人も居ない。今夜朱い月が昇るというのだからどちらかというと外に出ていないと言った様子だった。

 

 村の奥。たぶん最奥なのだろう反対側に位置しているであろうここからでも見えるほどに大きく高い黒い鳥居が聳えそびえ立っている。

 黒鳥居だけ。そう、言葉通りに、言葉そのままに黒い鳥居だけが大きく構えていた。

 

 周りの家屋が小さい事も相まってやたら高く見えるし、実際に高い。周囲を囲む森の木々と同じかそれ以上の大きさだ。


「なんだあれ。黒いし、凄いデケェ。平安神宮の大鳥居よりデケェんじゃねぇか。あれ。」

 それが通常の赤色なら湧き上がる思いは敬神けいしんだったのだろうが黒色だと溢れ出るのは恐怖だ。


 周囲もそろそろ日が傾き、黄昏の太陽が染め上げる夕刻は酷く赤い。




 その時囲む森の中、後ろからボーボーと喉を潰された人の叫びにも似た鳴き声が聞こえてきて俺等は振り返る。それと同時。ガサガサと周囲の雑木林が揺れる。それは凄い勢いで黒鳥居の方向に木々を折り潰しながら駆け抜けていった。


 登っていた時、視界の端に捉えた白い長身の猿の群れが奇声を上げて林を走り抜ける姿が鮮明に浮かんで身震いをする。赤いよだれを垂らし、毛のないブヨブヨとした肌。そして、闇夜から覗く見開いた黄色く光った目。


 木々の揺れが収まり、奇声が聞こえなくなった後も暫く3人で白い異形が通ったであろう周囲の雑木林を睨んで動けずにいた。

「そろそろ、日もくれそうだから叔父さんのお家に入ってしまおうよ。」

 と指を指す月久の声で俺等二人は正気に戻った。


 月久が指さしたのは家屋が並ぶ中心から田んぼを挟んで離れた所にぽつんとあった倉庫にも見える小屋。窓はあるが雨戸で塞がれて中は見えない。いや、どちらかというと外を見せないようにって感じの塞ぎ方をしていて悪寒が走る。


 登山の疲れと慣れない環境から来る気疲れが応えたのか、俺等はついてすぐにカバンを下ろし、扉を開けっ放しにして、靡くなびく風を受けながら玄関で横になってすぐに寝てしまった…。


 


 

 ◯

「え、マジじゃん。マジで朱い。ブラッドムーンとか調べた事あるけど比較にならないぐらい明るいな。しかもここまで村全体も朱く見えるって実際に見ると結構すげぇな。」


 驚く勇人の声が聞こえて目が覚める。

 玄関にさす朱い月明かり。家の中が暗いからか、やたら鮮やかな赤色を放っていた。


 まだ体を起こせずにいた俺の肩を月久がゆする。

「起きなよ。凄いよ、昔の写真で使う暗室あんしつみたい。」


 普段だんまりを決め込んで、あまり笑わない勇人は真上に昇る朱い月を見て笑みを浮かべている。月久の顔に張り付いた笑顔には少し違和感があった。いつもの顔じゃ無い。何が違うのかと言われると説明は出来ないけれど、その2人は確かに不気味だった。


 「なぁ、友成。俺等朱い月、じかに見てるけど、全然気が狂ったりとか力が湧いてくるとか全く無いぜ。」

 メい死ん迷信だろ?

 そう言って向いた勇斗の顔は異様に歪んでいた。張り付いたような笑顔。口角は耳元まで釣り上がり目は三日月の形に皺を寄せる。


 「お、おい。お前少し変だぞ。勇斗、どうしたんだよお前の顔…。ハッ、ハハハ…口ってそんなに上がらないだろ。こ、怖いぞ。お前。」


 口が動かない。声が上擦るうわずる。喉が上って大きい声が出せないどころか息も絶え絶えだ。

 

 隣で肩を叩いていた月久がクックックと笑う。

 静かに、肩を揺らしてゆっくり笑う。

 

 それは段々と大きくなりクッケ、クッケ、クッケとしゃっくりのような引きった声も混ざり腰を抜かしそうになる。暗闇で顔こそ見えないけど、そこにいる月久はきっと勇斗と同じ顔をしているのだろうと頭で勝手な想像をしてしまい背筋が冷たくなるのを感じた。


 月久は等々、ケッケッケと笑い最後にはケタケタケタケタと口から涎らしき体液を地に滴らせ、お腹は異常な程早く膨らんでは凹んでを繰り返す。揺れる肩は激しさを増し、今にも外れんばかりに上下し笑い声を上げる。


 嫌な笑いに、包まれた事に違和感を覚えもしやと思い勇斗に視線を投げる。勇斗も笑っていた。ケタケタケタケタと嫌な笑いをして嫌な笑顔を浮かべてこっちをまだ見ていた。二人の笑顔と笑い声が作り出す恐怖は、俺の身体をすくませるには十分すぎるほどだった。


 その笑い声が耳を劈きつんざき、頭が揺れて呼吸があがる。上手く呼吸が出来なくなって意識が暗転しかけた瞬間。二人の笑い声がピタリと止んだ。いきなりの無音と無言。そしていっそ深さを増す暗闇。俺の息遣いと早鐘を打つ心臓の鼓動だけが玄関に響き渡っていた。


「お、終わったのか…。なんだってんだよ…。もう、来るんじゃなかった。帰りてぇ。帰りてぇよ…。」

 

 俺は恐怖に心を折られていた。本当に怖かったのだ。だがまだ終わりではなかった。続く無音に慣れてきた頃、二人が一斉にブツブツと呪文でも読むように声を出し始めた。


「朱い月じゃ、紅い月じゃ。」


 2人の体がガクガクと震え始め、頭を前後に振り回す。首が折れんばかりに振り回す。声も徐々に大きくなりそれは最早叫び声というより断末魔と言って良かった。


 「赫い月じゃ、上り憑きじゃ。アガリ月じゃ。アガリ憑きじゃ。アガレアガレアガレ。」

 

 俺は、しゃがんで耳を塞ぎ、目をつむって絶え絶えの息が作り出す己の喘鳴ぜんめいを内側から感じながら怯える事しかできなかった。過呼吸が起こって意識が闇に落ちればどれ程楽だろう。そう思えど意識は嫌なほどはっきりとしている。肌をう、粘りのある汗が細い視界に入り赤い景色がかすむ。


 膨張した筋肉が皮膚を破り、所々裂けて血が滲んでいる勇斗。元々体格の良い方だったがその身体は2倍にも膨れ上がっていてもう、人間の形をしていなかった。その肥大した筋肉が一斉に隆起りゅうきする。ミチミチミチと骨がきしむ、嫌な音が耳に入ってくる。次の瞬間バチンと勇斗の身体の中から硬いものをへし折った音が周囲に鳴り響く。そう、勇斗は自身の筋肉に自身の骨を折られ、あらぬ方向に身体が曲がり、血が吹き出した。


 悪夢はこれでは終わらなかった。横に居た月久は前後に振っていた頭が激しさを増して、耐えられなくなった首の骨がグビリと折れて多方向にぐわんぐわんと頭部が回る。

 折れた骨が喉仏を貫きゴポゴポと血が喉に溜まる。コヒューコヒューと血を押し出し通ろうとする空気の音が聞こえてきた。

 

 ぼやける視界で捉えた二人は血に塗れながら苦しそうに藻掻もがきながら笑っていた。

 

 身に余るほどの恐怖を眼の前にして俺は初めて知った。受け止められない程の恐懼きょうくは人の涙を枯らせて、息を吸うことをやめさせ、身体の力を無くす。ガクリと地面に伏せた時、鼻を突く吐き気をもよおす刺激臭が漂ってきた。あまりの恐ろしさに当てられ気づかなかったがその原因は自らの下半身からでた糞尿の臭い。その臭いは更に俺を追い詰める。


 嘔吐して、喉に詰まった吐瀉物で息ができなくなりやっと、俺の意識は暗転した…。



 ◯

 俺の意識を叩き起こしたのは、村の住民や鳥のさえずり、周囲の物音じゃない。鼻を付いた、自分の吐瀉物と糞尿の混ざった異臭。最悪の目覚めと言って良かった。腰から下はまとわり滑る異物。口から喉を伝って胸の辺りまで吐瀉物がついて所々乾いて張り付いている。

 目が覚めると身綺麗になって知らない天井で眠っている…。そして隣には美女。なんて都合のいい展開と状況は物語の中だけの話だ。


 だけれど、少しの救いはあったらしい。

 玄関から漏れる光が人影を映す。


「村の中からもアガリビトの叫び声が聞こえてきたからもしやと思って探し回ったら此処か。兄ちゃん…その身なり。昨日の夜、月明かりへ出ただろう…。よほど怖い目にあったみたいだ。」


 取り敢えず、外にあったホースで体を洗い、簡素に作ったドラム缶の風呂に入れてもらった。体を拭いて変えの服を着ても薄らと異臭が臭ってくる。あぁ、本当に嫌だ。ただ臭いが落ちないだけならまだ目を瞑ろうと諦めもつくというものだけれど、この臭いは昨日の出来事を思い出させる。ぶり返すし蒸し返す。


「まともな身なりにはなったな。臭いまでは取り切れ無かったか…。まだ少し臭うから距離は取らせてもらうぞ兄ちゃん。」


 そう言って小屋の中から引っ張り出してきたであろう古いウッドチェアを広げて腰を下ろすその男は、村民と言うには多分に違和感があった。村独特のなまりや方言がある訳でもないし、風貌も、風体も古びている感じではない。どちらかと言うと都会で充実した日々を過ごしていました、そして息抜きで里帰りしてきましたって感じの三十路過ぎに見える男だった。


「はい。臭いますから多分。昨日の夜、思い返したくも、思い出したくもありませんが、狂って死んでしまった二人の親友と向き合わない訳にもいかないので。」


 やはり、思い出すと身体が震えだす。心の奥底から、湧き出る恐怖からなのだろう。自力ではこの震えは止められない。


 「兄ちゃん。勝手に殺しちゃいけないぞ。大事な友人たちだったんだらしいし、遺体も見ていないんだろう?」

 「い、いや。確かにそうではあるんですけど、あの状況と状態で生き延びているならもう人間ではないですよ!一人は首が折れて、一人は全身の骨が砕けていたんですから…。」


 そうだ、人間では無くなったんだよ。その友人二人は。


 と深い溜め息を吐いた男の顔は同情と共感が混ざる、悲しげな表情が張り付いていた。かつて同じ経験をしたかのような…。少なくとも俺にはそう見えた。


「なぁ、兄ちゃん。お前さんの友人達はな、もう"アガリビト"へ成っちまった。元に戻ることも無いし、元に戻すことも出来ない。ウチの嫁もそうだった。あんまり伝承とか噂とかって奴を信じる人間ではなくてね、あの朱い月の下を歩いて光を見た。数分ジーッと月を見つめてただけだったが、いきなり笑いだして、四肢を色んな方向に曲げながら村の中を走り回ってた。奇声をあげながらな。月が落ちて陽が昇る頃、囲む林に入っていったきり帰ってこなかった。生きてはいると思う。兄ちゃんこの村に入る時、多分、周囲から変な叫び声が聞こえていただろう。あれだ。あれが月に魅せられて自然に還ったアガリビト達の奇声だよ。」


 もしかしたらそうなんじゃないかという思いがぎらなかった訳ではなかった。だからこそ、受け止めて、受け入れる事は出来た。残酷で冷酷だとは思うが。

 でも、無意識に暗い表情を浮かべた俺に三十路の男は言う。落ち込んでいる兄ちゃんを更に落ち込ませることになるけど聞いてほしい。と怖い前置きをして話を続ける。


 「兄ちゃんにとってはこれこそが最も怖いことなんだろうが、落ち着いて聞いてくれ。兄ちゃんはもうこの村から帰ることは出来ないよ。」


 ん?今なんといった?帰れない?

「え、どういうことですか。意味がわからない。確かに山頂にある村だから帰りにくいって言うならわかりますが、帰れないっていうのは。閉じ込められているわけでもないのに。」

 頭を抱えて男性は教えてくれた。

「別に俺等が悪意を持って帰さないとか怖い話や伝承の様な村民性ではないんだ。帰せるなら帰してやりたい。そして帰れるなら帰りたい。」

「帰りたい?貴方は此処の生まれでは無いんですか?確かに見た感じ住んでいる風には見えないんですが、故郷でも無いなら腑に落ちない。」


 いいや、違うよ。と首を振る。さも認めたくないように。現実を見つめたくないように。


 「この村には、この村出身の人間なんて一人も居やしない。全員噂の3ヶ月の期間に、この山に入り、山から下りられなくなった人たちなんだよ。捕まったと言ってもいい。いやどちらかと言えば囲まれたと言ったほうが近しいな。」

 「も、もしや。もしかしてですけれど、朱い月を見たら現実から異界に飛ばされて…的な奴ですか?この真宵山自体、異界だなんて噂されることも多いようだし。」

 目にかかるほどの前髪を掻き上げて男性は言う。違う、違う。そんな不思議な、そう摩訶不思議な御伽噺おとぎばなしなんかじゃないさ。と乾いた笑いで軽く鼻を打つ。

「不思議じゃないけれどな、不気味ではあるんだよ。村を出て、街に下ろうとすると空が淀んで曇天に変わり終いには夜のような暗雲が立ち込める。そして、出るのさ。アガリビトがね。それも今まで何処に身を潜めてたのか分からない程の数で取り囲む。まるで村から出さないための守衛のようにね。」

 

 思わず後ずさりをする。

 嫌な想像をしてしまう。

 下手な妄想をしてしまう。


 ふとあの正気を失いアガリビトになった友人、勇斗と月久に襲われ殺される映像が頭を巡り身体を強張らせた。膝が震えて心臓が早鐘を打つのを止めようと無理に両手を胸に当てたのを見られていたのだろう。男が諭すように、慰めるように教えてくれた。


「気休め程度にしかならないと思うが安心してほしい。襲ってきたり、殺そうとしてきたりするわけでは無いんだ。只々此方を見てくるだけなんだよ。じーっとな。本当に、本当に見てくるだけ。あの、大きい黒目とカエルのお腹のような白く伸びのある肌に覆われて、髪も、生気も無いあの姿で…。」


 男の話がやたら具体的で上手いのか、その異様な姿が容易に想像できた。嫌な容姿だ。


 「近づきたくないですね。何もしてこないんだとしても、何かをしてきそうな予感がある…。」

 「そう、それなんだよ。なにかしてきそうな予感。なにかされそうな不安。この感情に強く支配されてどんなに決意を固めて行ったとしても、気づけばこの村に帰ってきている。」

 「なら、村の人全員で一斉に出たら良かったじゃないですか。屈強な人も多いし、農具や武器になるものもある。」


 汗が額を伝い口がやたら乾くのは、俺が焦っていたからだ。出る方法を模索するというより、出られないという事実から逃げるために考えを巡らせているといった方が近かった。けれど、その考えや方法を聞いても男性は首を縦には振らない。


 そして言うんだ。

 全て試した…。


 と。膝から力が抜け、がくんと地に落ちる身体。

 「此処は、騰り月が出てきた時からもう陸の孤島になっていたんだ。僕も、帰れない。此処の住人として生きてくしか無いのか。」

 動機が上がって、瞳孔が揺れる。酷い目眩だ。むごい話だ。

 大学の友人、地元の知人そして家族の顔が頭を過ぎる度に、過ぎる程に徐々に身体から力が抜けていく。

 

 あぁ、クソ。来なければよかった。こんな所。そう思っても後の祭り。家には、父、きょうだい、それに精神的に弱い母もいる。心配しているだろうな。男は異界とは言っていなかった。でも、それを確認する手立てが無い。だって、持ってきたスマホは圏外にこそなれど、1日立っても充電が村に入った時の15%から一向に減らない。いや、この事象こそが、この事態こそが異界である証拠そのものなのかも知れない。

 

 現実では何日、いやもしかしたら何ヶ月も経っているのかもしれない。

 色んな考え事や心配事が頭を駆け巡り、頭を抱えていると男が、気遣ったのかこんな話をしてくれた。


 「焦っている所に慰もるなぐさもる訳じゃないが、この村に一人だけ容易に出入りしてくる者がいる。何処から入ってくるのかはわからない、新しい村人が増えるとき。そう、騰り月の被害が出た年の暮れに突如として村の一角に店を出す。古い怪異や妖怪の文献や書物を取り扱う古書店なんだと。行き着いた者達、いや。そいつ等が言うには"呼ばれた"って言ってたな。その書店にある、物語に呼ばれたらたどり着けるんだと。」

 「も、もしかしたら。その人の後を着いていけば街に戻れるかもしれないって事ですよね。名前はなんていうんです?何処に店をかまえているんですか?」

 

 食いつくように両手で男性の肩を揺らして詳しく聞く。希望があるとすれば、見出すとすればそこだ。その書店だ。

「焦るなよ。わかってることなら教えてやるから落ち着くことだ。」

 困り顔で頭を撫でながら男は言う。

「それと、やっぱりお前。臭うぞ。」


 わかってる。ほっといてほしい。口に出して言わなくたっていいじゃないか…。とは思う。

 

 「纏屋書店って言う名前だ。偉く整った容姿の蠱惑的な美人が切り盛りをしているみたいでな。黒鳳蝶のカーディガンと銀の高価そうな煙管を咥えていたらそれが店主らしい。渋いよな。確かに、お前さんのように考えて出会おうとした輩も何人かいたんだよ。けどな、その中に無事帰ってきたやつとその書店が消えたと同時期に居なくなった人間が居たんだ。」


「元の世界に戻れたってことなんですか?なら、希望はあるんですよね…。」


 「都合良く考えるならそう捉える事もできる。けど、帰ってきた奴らが言うには『君の物語を聞かせておくれ。』なんて言われたそうだ。で、それぞれ思い思いの出来事を話したんだが、帰ってきた奴らは皆口を揃えて言うんだよ。"至らなかった"ってな。」


 あと、2ヶ月もすれば年の暮れが訪れる。もし出会えたとして、"払う"物語は間違えない事だ。そう言って男性は振り返り、帰路に着とうと脚の進みを早めていった。

 銷魂しょうこんしていた俺にその男性は帰る前にいい忘れていたが、と優しい声音で伝える。

「昨日は気の毒だったな。この先1年はもう起こらないさ。それに、今朝まで寝泊まりしていたあの部屋。色々思い出すだろうが、当分はそこを好きに使ってくれて構わない。飯も村へ食べに来たらいいし、慣れるまではゆっくりしていると良い。」


 だいぶ長いこと話し込んでいたようで、陽は傾き、薄暗く。迫る宵に潜む影が歪に蠢いた気がした。


 

 早く戻らないと。慣れるまで大変そうだ。

 

 ◯

 やはりあの三十路過ぎの男が言ったように、村の人達は限界集落ならではの閉鎖的差別のような人は一人も居なく、良くしてくれた。そのおかげか馴染むのに時間はかからなかったが、生活はそうもいかなかった。携帯も使えず、街にも居りれない為、周囲の状況も外界の情報もまるでないので情報不足から来る不安に襲われた。


 先も言ったが、本当に陸の孤島。

 いつか来るであろう纏屋書店の店主を探すことで心の安定を保っていた。辛うじて、そう本当に辛うじてだ。


 探し続けること1ヶ月と半月。

 それもほぼ毎日だ。半月過ぎる頃にはもう日課になってしまっていた。

 

 田んぼ広がる畦道と、村の入口から黒鳥居までとその中。そのルートをひたすらに周回する…。そんな事を続けていれば嫌でも建物や立地、そして村の人達の名前は頭に入る。


 あの男の人は、我妻わがつまさんと言った。名前とは打って変わって我が妻は離れていった…。なんの皮肉だろうなと笑っていたがその表情には辛さが混ざっていた。

 そして、年の暮れ。寒さに打ちひしがれながら色を無くした黒鳥居を潜った広場の最奥に見慣れない古民家が目についた。


 「あれ?此処に古民家なんてあったか?小屋すらも無かったはずなのに。」

 時間は夕刻だが、周囲はもう薄暗い。暗さ的には宵の口って奴だ。そして年の暮れ。もしやと思い、早足で向かうと赤い光が、淡く辺りを照らしていた。

 行燈。久々に見た。街では祭りの時に見た以来だし、この村にはそもそも行燈なんてものはない。そんな赤く怪しい光に照らされ、風も無いのにも関わらず靡く白い布に書いてある書体を俺の目が捉える。


 「下の布。纏屋書店。やっと、見つけた。此処だ。」


 両開きの戸は磨り硝子で中が見えず、やっているかもわからなかったがこのチャンスを逃すともう戻れないかもしれない。

 その一心で、扉を開けて、中に入る。薄暗い廊下と、奥座敷に灯を揺らめかせる蝋燭の火。


 「すいません。此処を探して来たんですが、やっていませんか?」

 

 逸る気持ちを抑え、震える声で問いかける。その震えは寒さ故か、別のなにかか。

 すると、奥座敷の端。両に縦列ぶ本棚で見切れた所から低い女性の声が聞こえてくる。中性的で蠱惑的な声音だが、話す男性口調が頗るすこぶる合っている。

「こんな宵の口にどちらさんかな。魑魅すだまの類ではないようだ。あぁ、人の子か。珍しい。いや、この村では生き髑髏の方が多いのだった。」


 どうしたのかな。

 そう語りかけて微笑む身姿は三十路の男性・我妻さんが言ったとおりだった。

 黒鳳蝶の袖広のカーディガン。片手に携える銀煙管。そして、闇夜を見通し、真宵を見透かす白銀の眼。


 「此処のご店主さんですよね。」

 「あぁ、そうとも。朱い月が攫ったようだからひらいた次第だ。此処はね、"本来"物語を紡ぐお店だ。君は違うようだけれど。」


 内心を見透かされたような気がした。あの白く光る綺麗な目。素直に行って恐ろしい。


 「ええ、僕の物語を"払います"。なので、元の世界に帰してほしいんです。」

 払う。

 この書店では、眼の前の店主に対しては、この表現が適切だと思い、自然と何も考えずそう伝えた。


「あぁ、そうか。君は月が魅せた子の残人のこりびとか。」


 そう呟いて、気づけば帳場に片膝を曲げて腰を据えていた。

「すまないが、君を帰すことは私には出来かねる。君は、君が行き逢った朱い月の元の起こりを知り得てはいないからね。アレの起源は集り月(たかりづき)。」

 一人の猿回しから端を発した怪異伝承だ。そう言って、店主はゆっくり話をしてくれた。

「かつてね、この村には一人の猿回しを生業としていた大道芸人がいた。その男は屋敷持たずでね一年中旅をして猿と暮らしていた。けれど、1年に一度。村へ戻り、過ごす日があった。それは十五夜の夜。中秋の名月と呼ばれる時期だ。」

 

「俺等が此処へ遊びに入った時期。」


 あぁ、そうのようだね。と薄い笑みを零して話を続ける。



 

 【皎皎たる白い馬騰る時こうこうたるしろいうまがのぼるとき、夜闇で猿が踊り笑う】。


 

 「この村では、十五夜に上がった満月の月明かりの下で、猿回しをするという一風変わった神事があってね。そのために猿回しの男を呼んでさせていたのさ。けれど、次の年から男は村に帰ってこなくなった。その理由は猿が、闇夜だと偉く暴れたり気を荒げることが多くあったからだ。それは暗い事が原因なのか、村の、山のナニカが原因なのかわからない男は村に戻るのをやめたんだね。村は静かに歪んでいった。村の人たちは、猿回しの男の家系を訪ね、代わりに猿回しをしてもらおうと、周囲の山林にいる猿を捕まえてきて芸を教え込もうとした。」


 「そ、それは流石に無理なんじゃ…。」


「そう、君が思うとおりだ。なまじ技術もない素人がやろうとすると上手くは行かない。はたから見ると虐待のようなやり方だったようでね、無駄に猿の死体を増やしていく一方だったようだ。それからだ、昇る月に異変が起き始めたのはね。猿の死体が増えるたび、十五夜に浮かぶ月が徐々に赤みを帯びていった。」


 「酷い話ですね…。」


「そうだね。けれど酷いのは、尚の事酷くなるのは此処からだ。そして、数年後の十五夜。村の中から、赤い月明かりに当てられた者の中から狂って、奇声をあげ、理性を失い茫然自失となる村民が現れるようになる。頻度と人数も徐々に多くなり、憑かれた者は猿の様に暴れ周囲の山林に入っていく人間が毎年出てくる様になった。」


 髪の毛を毟り山に走っていく人々の絵が頭に浮かぶ。

 

 その人間の理性は、戻ることはなく村に帰ってくることは無かった。それを村の人たちはアガリビトと呼んで避ける様になった。

 そこからこの村には十五夜になると朱い月と、山の中からアガリビトの奇声が聞こえてくる様になったのだと…。


「今いるアガリビト達も、元は猿の憑依からだ。大体の動物は得てして群れるがその中で猿はその意識が段を抜けて強い。その、仲間意識が月に憑いて人を攫うのだろうさ。君の連れのようにね。」


 連れの話はしていない。だけれど、この人はきっとすべてを知っているのだろう。視えているのだろうとなんとなく思った。思い知らされたと言ったほうが近いか。何にと問われると答えられないが。

 


「なら。村を出なかったら、いずれ僕も攫われるんですよね。次のアガリツキの、いや。集り月の晩に。」

 

 すると店主は煙管を吸って紫煙を吐く。もたれるような甘い花の匂いが体に纏ってくる。

 

「そのままではね。でも、君は運が良い。いや、時期が良かったと言ったほうが近しいだろう。君は、帰れる。まだ完全に此方側にきょを構えているわけでは無いからね。繋げてあげよう。」


 

 だが。



 と一言付け加えた店主。その声色には楽しそうな笑みが混ざっていた。

「もう、人里以外に目を、意識を向けぬことだ。一度、深く繋がってしまったようだから近づけばまた袖を引かれるどころか、下手すれば首を掴まれることにもなりかねない。」


 その一言は、怪異や妖怪、不気味な話や怖い噂を疑い、人ではどうにもならない神が降りた地や異形が跋扈する。いわゆる異界を認知しようと軽い気持ちで足を踏み入れた俺を、いや人間を、人類をいつでも殺してしまえると言わんばかりのさげすみを孕んでいた。


 それに呼応したのか、偶然かは知り得ないがこの村を取り囲む森の中から大きい叫び声が数人、いや、数十人のアガリビトの悲鳴が山彦やまびこのように反響しながらあらゆる所からあがる。

 

 先も言ったが、気にしないことだ。

 そう言うと、刺繍されていたものと同じ黒鳳蝶が数匹、僕の周りに飛び回っていた。それは黒い鱗粉を撒きながら徐々にその数を増やして行く。これは先程の甘い煙の影響なのかとも勘ぐったが、途中で思考が止まる。身体が沼に沈む様な没落感が襲うと同時、意識が暗転し文字通り地に落ちた。




 

 

 

  ◯

 彷徨い走るは闇が広がる森の中。ただでさえ届きにくいツキアカリさえも薄らと赤い。過去に出会った嫌いだった人間との思い出だけが頭を巡る。いじめ、いびり、ネグレクトに体罰。クラスメイトのあの蔑んだ目と、精神的に余裕のない時に浮かべる母の煩わしそうな表情。嫌だ嫌だ、嫌いだ。

 

「やメテおくレよ。」

 

 人間不信になってしまう。どうやっても、その記憶しか頭を巡らない。まるで、幸せな記憶をナニカに吸い取られたように思い出せない。髪の毛は苛立ちから引き抜き、森の異常な湿気で肌はやたら柔くなっている。朱い月の光から逃げる為、履いてた靴は森に入ってすぐに無くしてしまった。裸足で森の中を休み無く駆けていた脚と手は、両の爪が全て剥がれて血が滲む。当たる枝先が服を裂いて剥ぎ取っていく。森に入ってもうどれ程経っただろう。鏡は無いが、身姿はもう人間のそれでは無いだろう事は自覚できた。なにせ、もう言葉も思い出せない。


 僕が家の玄関を潜らなくなって、どれ程の月日が過ぎたのだろう。


 唯一悪夢の中で思い出すのは、気にかけてくれた姉の姿。その月久、とかつて呼ばれていた男の首には黒天眼の首飾りが掛かるのみである。徐々に忘れる日ノ本の言葉の中、姉の名前は忘れまいとひたすら繰り返す。




 

 


「葉月姉、葉月ねえ、はづきねえ、ハヅキネエ。会いたいなぁ…。」

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騰り月ーあがりづきー 褥木 縁 @yosugatari

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