夜汽車

大城時雨

第1話

 それは、まだ夏が爽やかな暑さで満たされていた、ある夜のことだった。


 穏やかな街には不釣り合いなほど大きな汽笛が響く。それを聞いて、黒い背広に身を包んだ大柄の男は、近くにあった対面式座敷に座る。


 夜行列車だから空いていると予想していたのだが、想定以上に乗客が多い。何か特別な行事でもあるのだろうか。ただ、そのようなことは男にとって大きな心配事ではなかった。


 男は一息ついてから、膝に乗っけていた鞄に手を入れた。仕事に必要な用具の確認のためだ。逐一見ておかないと、気が気でない。それだけ大切なもの――仕事道具。男にとってこれだけが、自分を自分たらしめるものである。男は自身が何者であるかさえ、自信を持って言うことが出来ない。だからこそ、これを失ってはならない。


「あのー、すいません。前、失礼してもいいですか?」


 突然、頭上で声がした。慌てて鞄を閉じ、その方向へ視線を向ける。


 声の主は男と同年代くらいの、麗しい短髪とはつらつな笑顔を持った、親しみやすい雰囲気の女性だった。


 別の席は空いてなかったのだろうか。それとも何か他の理由で? 男は心の中で首をかしげたが、断るのもしのびなく、彼女の笑顔にはこれといった作為を感じなかったため、ひとまず了承することにした。


「ええ、どうぞ」


「ありがとうございます! 結構混んじゃってて……」


「そうですよね。夜行列車にしては乗客が多すぎます。私も少し驚きました」


「やはりお盆ですからかねー」


 お盆。そう言えばそんな文化もあったな。俗世に対する知識の無さを嘆いた。


「では、あなたもご実家に帰省を?」


「はい! 実家は『タモダ』にあるんですよ。首都圏からだと遠いんで、夜行で」


「本当ですか。私も実家、タモダなんです」


 男は職業柄、嘘をつくことが多い。しかし、このことに関しては真実だった。同胞に会えたことが嬉しかったのだ。語気は至って冷静に見えるが、心の底には確かな高揚感があった。だから親近感も沸いたし、すんなりと受け入れることが出来たのだろう。男はそう自分で納得した。


「え、すごい偶然! あ、そうだ。タモダ出身ならこれ知ってますよね!」


 そう言って彼女は、袋から何かを慌ただしく取り出した。


「これは……」


「タモダ名物『メンチカツ』! 駅でフェアをやってたのを見つけちゃって、嬉しくて買ってきたんですよ!」


 きつね色の衣に、霧のように立つ湯気。そして、香ばしい香り。その他全ての視覚・嗅覚的情報が、男の懐古心を増長させた。


 だが、男の自制心がそれを口にするのを拒んだ。いくらこの方が社交的で、善に溢れていようとも、見ず知らずの他人から食べ物を貰うなど、考えられなかったからだ。


「いえ、私は――」


「そんな事言わないで! 同胞なんですから。えいっ!」


 あたふたとする男の口に、女は無理やりそれをねじ込んだ。


「むぐっ!」


 瞬間、身体いっぱいに広がる旨み。肉揚げ物特有の、筆舌に尽くし難い塩気と甘みが波となって男を襲った。


「う、うまい」


「でしょ? 私ね、思ったんです。あなたも昔の味が恋しいんじゃないかって!」


 図星だった。故郷の料理なんて何年ぶりに食べただろうか。ずっと食べれない状況に置かれていた男にとって、それは劇薬だった。


「ふぅ、ご馳走様でした。いいものですね、地元というのは」


「へへ。私なんか、地元好きが仕事にまで影響を及ぼしてますもん」


「ほう」


「私、出版社で働いてるんです。そこに、地方の観光名所を紹介する雑誌を発行してる部署があるんですよ! いつか偉くなったら、タモダの雑誌を書く――それが私の夢なんです」


「素晴らしい夢ですね」


 男はそう平坦に語った。ただ、心の中でそう軽く思う傍らで――劇薬を食らってしまったからだろうか。それとも、親近感を覚えたからであろうか――もう1つ、女に対する突飛な推測が生まれていた。


 どこかで会ったことがあるんじゃないか、と。


 男の古い――掠れて読めなくなるような記憶の片隅に、彼女のような女の子が確かにいたはずなのだ。その子は今の彼女のように活発では無いものの、人当たりが良く、本が好きな子だった。そして、何の因果があるかは知らないが、きっと自分にとって『とても大切な人』であった。


 自分の記憶の脆さと、そんな大切な事さえ忘却の彼方へと追いやってしまった過去を恨む。もしかしたら、彼女は自分の存在を思い出してもらうため、私に対して、何かの信号を出しているではないか。そんなことさえ思ってしまう。


 ただ、もし仮にそうじゃなかった場合。悲惨な結果となるだろう。この長い列車の旅、同行者の期限を損ねたら最悪だ。それまでは行かないにしろ、せっかくいい感じの雰囲気で話せているのに、自分の気持ち悪い想像でそれをぶち壊してしまったら――そう思うと、男はただ心にうごめく虫を抱えながら、会話を続けるしか無かった。


「そういうあなたは?」


 女がその大きな目で男を見ながら、華やかに口を開いた。

 

「私はただの会社員です。あなたみたいに夢を追いかけられる職業ならよかったのですが……羨ましいですね」


 男は冷静になると、何故あんなことを思ってしまったのかと自分を責めた。明確な記憶すらないのに、どうしてあんな不可解なことを考えてしまったのか。検討すらつかないが、とにかく自分を責めた。


「そんなこともないですよ。正直、今の情勢だとそういう娯楽雑誌よりも、ゴシップであったり、社会的な雑誌の方が売れ行きが良くてですね。結局、私がやりたい仕事は未だ出来てません」


「社会情勢ですか」


「はい。最近で言うと――『国内改革会』問題、とか」


 国内改革会。その言葉を聞いた時、男の耳がピクリと動き、こめかみを伝って落ちてきた水滴を弾いた。


「と言うと、自らの望む日本実現のために、軍事的・破壊的な活動を行っている過激派組織のあれですか」


「よくご存知で! 知的な雰囲気あるなぁ、って思ってたんですよ」


「はは……新聞で読んだことがあったからですよ。やはりひどいですか、彼らの行動は」


 男は謙遜しながら、それでいて穏やからしく言葉を紡いだ。その穏やかさはどこか不自然なほどだった。


「ええ、そりゃあもう! 爆弾、銃、車……ありとあらゆるものを使って悪いことをしてきますからね」


 女はそう、頬を膨らませながら言った。男の顔は歪まない。


「いちばん酷いのは誘拐ですよ、誘拐!」


「っっ」


 彼女の言葉に対し、男は自分にすら聞こえるか分からないほど小さな音で唾を飲んだ。せめてもの気配りであった。


「誘拐……ですか。それは……その……ひどいですね」


 キュッと眉が曲がり、苦虫を噛み潰したような視線を真下に向ける。それと同じように、粒が再び顔を伝い、鞄を濡らした。


「本当にそうですよ。しかも、狙うのはほぼ小学生程度の小さな子。まったく、子供の人生を何だと思ってるんでしょうね!」


「さぁ。ただ、利用するのでしょうね」


「利用?」


「子供を洗脳するのですよ。いわゆる『二世』では人員の確保に限界があります。ですから無垢な子供を誘拐し、一から教育する、と」


 男は自分でも理解出来ないほど、流暢に言葉を紡いだ。それも、このような社会問題――国内改革会に対して。普段の彼ではありえない事だった。


「ええ……彼らは夢を叶える機会、いえ、夢を創造する機会さえ奪われるのです。そして、自己が何者かすら分からないまま、人を殺す」


「そんなこと、許されていいのでしょうか」


 男は静かなままだった。それが数刻続いた。


「あ、いえいえ。すいません。こんな暗い話しちゃって」


 男は焦りながら苦笑を作る。会話を途切れさせてしまったことを悔やみながら。


「全然大丈夫です。むしろ、覚悟が持てました」


「覚悟?」


「ええ。情報を扱う者としての覚悟です」


 女はその眼光を望み高く輝かせて――誰にも劣らぬような好奇心を込めて――男に宣言した。


 男は既視感を覚えた。その瞳の美しさに。いくら成長しようが、生まれ持った光というものは変わらない。


 列車は進む。それと同時に、男は変わり始めていた。


――


 そこからは他愛の無い話の連続であった。仕事、地元、人間関係……その内容は多岐にわたったが、男はどれも女に尋ねるばかりで、自分から積極的に情報を開示しようとはしなかった。


 そうこうしている間にも、夜が更けていく。窓から見える線香花火のような灯りは、時の流れと共に消えていく。女の顔にも、徐々に眠気が現れてくる。


「はぁー、こんなに喋ったのも久しぶりです」


 トンネルの中、暗闇と車内を分ける硝子に顔を付け、女は呟いた。


「私もです。まさか、ここまでになるとは」


「へへ、そうですよね」


 女はふふっ、と鼻を鳴らして、再び外を見る。このトンネルはやけに長い。


「懐かしいな。あーくん」


「はい?」


 女がおぼろげに呟いた言葉に、男は思わず反応してしまった。聞き覚えのある言葉であったから。


「あ、それは――完全に私事になっちゃうんですけど」


「全然構いませんよ。何せ、ずっとそんな会話を続けてきましたから」


「へへ、そうですよね」


 女は虚ろな表情のまま笑顔を向けた。


「私がまだ小学生の頃に、仲が良かった男の子がいたんですよ。かっこよくて、勇気があって。優しい友達が。でも、その子ったら誰にも何も言わずどこかに転校しちゃって。先生に聞いても何も教えてくれないし、住んでた家はもぬけの殻。何かただならぬことを予想しながらも、結局不完全燃焼のまま、今に至るんです」


 女の顔は変わらない。男の心と対照的に。


「なるほど……あー、くん……」


「はい。あきらくん。でもね、私思うんです。もしかしたら、こうして出版業を進めているうちに、あーくんに会えるんじゃないかって。もしあったなら、絶対にわかると思うんです。彼、頭よかったから」


 遠い地を眺めるかのように女は語った。


「そう、ですか。きっと、会えますよ」


「本当ですか。ふふ、優しい。こんなこと話すると、いっつも馬鹿にされるんですけど」


「馬鹿になんてする訳ないでしょう。本当に、素晴らしいと思いますし、いつか、必ず、会えると思います」


 女は黙ったままだった。男は自分に似合わない小っ恥ずかしい台詞を吐いてしまったことに少し顔を赤くしながら、俯いた。


 男は無意識に、自身の変化を明確に理解していた。茜色の夕日にも似た高揚が、長いトンネルのような黒く冷徹な彼の心を食らっていく。そうして、推測が確信へと変わる。


 夜汽車。故郷。そして、確信。これら全てのロマンチシズムな光が、彼のツギハギの記憶を繋ぎ合わせ、職業、身分、彼を拘束するもの全てを捨て去り、まだ1人の少年だった頃へと男を回帰させた。


 少年とは恐ろしいものだ。行動力の塊なのだから。自分を失い、大切な人さえも忘れ、全てを過去にし、ただ業務を行う。そんなつまらない人間でさえも、少年の時の行動力は目を見張るものがある。全てを投げ出してさえ、自身の願いや思いに向かう行動力が。


 男こそ、まさにそれだった。


 俯いたまま、口を開く。


「あのさ、あ、いやー、うん」


 止まるな。後のことは考えるな。


「なぁ、ゆきちゃん」


 捨て去れ。あの頃から背負ってきた業を。せめて、今だけは。本当のことを言おう。


「俺、さ。本当は――」


 そこまで言ったところで、男は気づいてしまった。彼女がすでに、眠りの森へ到着したことに。


 それと同時に、男を支配していた熱狂が、刹那のごとく消えていった。そこに残ったのは、少年でも、会社員の男でもなく、ただただ冷静な仕事人であった。


「はぁ」


 男は、今度は皆に聞こえるほどの大きなため息をついて外を見渡した。トンネルを抜け、広がっているのは、見知らぬ街のみ。僅かな灯りすら見えないその暗黒が、彼の空虚さを表しているようだった。


 なんであんなこと思ってしまったのだろう。なんであんな感傷に浸ってしまったのだろう。夜汽車なんて言葉使って。男の心にはもう、あの時のような温かさは残っていなかった。


 だけど、それでも、男の心に残ったことは沢山ある。彼女に出会わなければ得られなかった、素晴らしいことの数々が。そして、彼女と出会い、話したという事実が。


 それを抱えて生きるというのは、なかなかに辛いかもしれない。でも、それでよかった。自身が何者かすら分からなかった男が、たった1度だけでも少年に戻り、彼女を認識したのだから。


 自分の弱さを再認識した瞬間だった。もし自分が映画や小説の主人公であるなら、彼女に真実を告げ、これから待つ様々な困難に立ち向かうことを覚悟しつつ、故郷に帰って逢瀬を謳歌するのだろう。


 だけど、これはあくまで現実だ。明るく快活に生きる彼女を、自分のような血なまぐさい環境に巻き込んでたまるか。奴らは離反者を許さない。


 小学生6年のあの日、自分としての自分は死んだ。だから、いい。もう、やめよう。彼女に会えた。それで充分じゃないか。それより悲しいのは、映画の例えで浮かんできたのが、それこそ数十年前のものだったということだ。


 必死に自分に言い聞かせる。今になってもなお、夕日は完全に沈んでいない。それだけ、彼女は自分にとって大きな存在だった。


 そんな太陽に対するお礼として、男は鞄から1枚の便箋と万年筆を取り出すと、何かをスラスラと書いた後、それを彼女の膝の上にポンと置いた。華奢でいて張りのあるそこは、生命の息吹に溢れていた。


「それじゃあ、さよなら」


 別に誰に言った訳でもない。ただ、呟きたくなったんだ。


 男は胸いっぱいに詰め込んだ宝物を大切に抱えながら1人でに席を立ち、夜汽車の先の暗黒へと姿を消した。そこに残されたのは静寂と、『おもい』手紙だけだった。




 翌日、夜行列車爆破事件が新聞の見出しを飾った。

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