第9話 姉②

「そういえば俺が自分の意思であなたのアパートに行かないの怒ってたよね? 行っていい?」


「だーめ。明日以降なら毎日でも来ていいですから」


 最後の希望がついえた。


 とある同級生のせいでもう疲れているので、これから余計に疲れることがわかっている自宅に帰りたくない。


 だけどいたずらっ子のように舌を出した珠唯すいさんにそんなことを言われたら何も言えない。


「というかもう着いてるんですから諦めてくださいよ」


 珠唯さんの言う通り既に俺の家には着いている。


 だけど家の中に人の気配を感じるので玄関の前で立ち止まってしまった。


「一緒に逃げよう」


「と、逃避行のお誘い……。だ、駄目です。そんな甘美なお誘いされても、私は……惑わされませ……んー」


 珠唯さんが頭を抱えて苦悩しだした。


 なんか可愛い。


「あなたと居るとほんとに疲れが吹っ飛ぶよ」


「結婚します?」


「できたらどれだけ嬉しいことか」


悠夜ゆうやさんのばか」


 珠唯さんが頬を赤くしてそっぽを向く。


 やっぱり珠唯さんを見てると心が落ち着く。


「入ろうか。先に俺が入って危険生物が居ないか確認するから」


「危険生物って、わんちゃんとか飼ってるんですか?」


「俺動物苦手だから。それよりもやばいのが出迎えてる可能性の話」


 さりげなく危険生物をわんちゃんと言う珠唯さんにほっこりしつつも、そんな可愛い(俺は子犬でも駄目)ものではない。


 とりあえず珠唯さんの身の安全を一番に考えて行動しなければいけない。


 下手をしたらいきなり珠唯さんに噛み付いてくるかもしれないから。


「俺よりも前に出るなよ?」


「それかっこいいです!」


「マジで。約束できる?」


「んー、指切りが必要かもです」


 珠唯さんはそう言って笑顔で右手の小指を俺に向ける。


「ゆーびきりげんまん、悠夜さんが私のこと守れなかったら一生やーしなう、指切った」


「あ、俺が約束守る方の指切りなのね。別にいいけど」


 結果的に珠唯さんが無事ならどっちでもいい。


 俺が物理的な肉壁になればなんとかなるだろうし。


「頑張ってください」


「うわ、あなたの応援ってやる気しか出ない」


 理由はわからないけど、無性に「やらなくてはならない」と思わせる力がある応援だ。


 やるしかないけど、その守る相手が俺の背中をポカポカと叩いてくるのはなんなのか。


 可愛い珠唯さんはほっといて、俺は渋々玄関の扉を開ける。


「おかえり、私にする? うちにする? それとも、せ・い──」


 危なかった。


 あと少しで珠唯さんの前だと言うのに人には聞かせられない罵倒を言うところだった。


「悠夜さん?」


「頭痛が痛くなりそう」


「大丈夫ですか? お薬持ってないので撫でたりすればいいですか?」


 珠唯さんはそう言って背伸びをしながら俺の頭に手を伸ばす。


 半分ぐらいは本気で心配してそうだから罪悪感が湧く。


 湧くけどとりあえず珠唯さんの小さな可愛い手からは逃げる。


「なんで逃げるんですか!」


「いや、あなたに頭撫でられるとか恥ずかしいでしょ」


「理由が可愛かったので許します」


「それはどうも。それよりも、一つだけ確認したいことがある」


 ニコニコしてなぜか嬉しそうな珠唯さんと向き合う。


「えっと、さすがに外で下着を見せるわけには……」


「ちなみに無視されるのと説教されるのってどっちが嫌?」


「え? そうですね、悠夜さんのお説教は私の為を思ってのことですから、無視の方が嫌です」


「わかった。じゃあ確認なんだけど──」


「あ、無視ってスルーってことか。あえて私の嫌な方を選ぶのは反応に困るからですか?」


 わかってるならやめて欲しい。


 俺が珠唯さんの下着をここで見せられて、どう反応すればいいのか。


 多分気まずくなって終わる。


「次やったら鍵返すから」


「絶妙に嫌なことを。わかりました、悠夜さんをからかうことはやめませんけど、そういう反応に困ることは多分しないと約束します」


「『多分』を抜けや」


 珠唯さんがニコッと笑う。


 この子はまたやる。


 しかも明日ぐらいにはやってくるから反省してもない。


「それで確認ってなんですか?」


「あぁ、えっと、もしも俺がこれから罵詈雑言の数々を口走ったらどう思う?」


「ギャップに惚れ直します」


「真面目な話」


「真面目ですけど?」


 どうしよう、珠唯さんが本気で言ってるようにしか見えない。


 普通、汚い言葉を使った人のことは嫌うのではないだろうか。


 確かに珠唯さんが罵詈雑言を言い放ったとしたら、俺もギャップに萌える可能性が無きにしも非ずだけど。


「もしかして、私に嫌われたくないから我慢してました?」


「うん」


「おう、素直。別に気にしないで大丈夫ですよ? 私って、多分悠夜さんの全てを愛せると思うので、むしろ知らない悠夜さんを見れたら嬉しいです」


 珠唯さんが笑顔で言う。


 ここまで言わせておいて付き合わない俺はやっぱり最低なのだろうか。


 だけど今は無理だ。


 せめて俺がもう少しまともな人間になってからではないと、珠唯さんが傷つくことになる。


「それに悠夜さんが辛口なのは紅葉もみじさんとの会話で知ってますし」


「なんか怒ってる?」


「いえ別に。ただ私には見せてくれない悠夜さんだから嫉妬してるだけです」


「確かにあの人と同じ対応をあなたにはできないけど」


 正直なところ、俺は山中やまなか 紅葉にどう思われようとどうでもいい。


 嫌われるよりかは今のようにほどよい関係性がいいけど、それ以下にならなければ特に気にならない。


 だけど珠唯さんは違う。


「前にも言ったかもだけど、俺ってあなたに嫌われるの嫌だと思うんだよね」


「ふん、そう言いながら結婚を前提に同棲してくれない悠夜さんの言葉なんて信じません」


「なんか変わってない?」


 確か付き合う付き合わないの話だったと思うけど、いつの間にか同棲になっている。


 まあ結婚を前提にするなら同じようなものだけど。


「ちなみに悠夜さんは家事得意ですか?」


「俺ほとんど一人暮らしみたいなものだから」


「そうなんですね。ということは、悠夜さんが専業主夫になって、私が稼げば悠夜さんが私の付き合えない理由は無くなりますね?」


「いやね、結構そうだからその発想されると困るんだよね」


 珠唯さんの言う通りで、要は俺がフリーターで、将来珠唯さんを養っていけないから結婚を前提にしたお付き合いができないという話だを


 つまりは、逆に珠唯さんが俺を養ってくれるのなら全てが解決してしまう。


「困るって言うのは、やっぱり私と付き合うのは嫌って──」


「それはない。あなたが本気で俺を養ってまで一緒に居たいって思ってくれたならそんな嬉しいことはないよ。だけどさ、俺がちゃんとした職に就かないのが理由で養わせるのは嫌だ。それなら俺があなたを養いたい」


 結局のところは、俺がフリーターではなくちゃんとした仕事に就けば全部解決なんだ。


 だけどそれができれば苦労はない。


「私としては割と真面目に悠夜さんが専業主夫でもいいと思ったんですよね」


「なして?」


「私にも色々とありまして。それはまた今度お話しましょう。今はそれよりも……」


 珠唯さんの話も気になるけど、珠唯さんはそれ以上にとある不審者が気になってしまうようだ。


 絡むと絶対にめんどくさいから無視していたけど、玄関の扉を少し開けて俺達を覗き見している不審者がいる。


「ちょっとしっかりと話がしたいからやっぱりあなたのアパート行かない?」


「普段もそんな感じで来てくださいよ。さっきも言いましたけど、家に帰りたくないからって理由で私の部屋に来るのは駄目です。あ、私に会いたいから家に帰りたくないとかなら全然いいですよ?」


「俺はあなたと話がしたくて、あなたと一緒に居たいから行きたいです」


「それを明日も言えたら来ていいですよ」


 どうやら今日は絶対に行かせてもらえないようだ。


 そうなると今のやり取りを全部見ていた不審者と話すことは確定。


「憂鬱になってきた……」


「明日は私の部屋でお話しましょ」


「それを活力に頑張れと?」


「あはは、頑張れませんよね、すいません……」


 珠唯さんが恥ずかしそうに、そして寂しそうに謝る。


「やる気しか出ない」


「……だから悠夜さんが好きです」


 珠唯さんの表情がパッと明るく笑顔になる。


 この笑顔を見る為ならなんでもできそうだ。


 それこそ、不審者の相手でも。


 そうして俺は、いつの間にか消えていた不審者の相手をする為に家の中に入って行った。

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