上空三八万キロメーター
その日は朝になっても月が出ていた。
カラスマはベッドから飛び起き、寝室の二階から急いで駆け下りる。
一階で朝食を用意していた母親は、「朝ご飯は、どうするのよ」と問いかけるが、息子はウンウンと頷いてばかりで、さっぱりわからぬまま家を出ていった。しかし母親はどうせ半刻ほどで戻ってくると知っていたので、自分の朝食を食べ始めた。
カラスマは走りながら月を見上げた。舗装が適当な道だったので何度も転びそうになるが、一向に下を向かずに、月に向かって走った。
あの月には、都がある。都は見たこともないほどきれいな景色で、それで城にはお姫様がいる。
カラスマは初めてその話を聞いたとき、言葉では言い表せないほどの高揚を感じた。
それからというもの、少年の心には常に月があり、それは何よりも優先された。
「おい、おい、坊主。そんな走り方したら危ねえだろが」
カラスマはぎょっとして、その声が聞こえる方を見る。こんなことをしているカラスマだから、もはや近所の人がこの少年を見ても誰も声をかけることはなかった。かけるとすれば、せいぜい、近所に住んでいる同級生のマリアくらいであったが、しかししゃがれた声だ。
その声の持ち主は、真っ白の髪と髭を生やし、深く刻まれたシワに力を込めている中年の男だった。
「お前、何見てんだ」
男は声を掛ける。カラスマはすこしたどたどしく話す。
「えっと、月に向かって走ってたんだ」
少し的はずれな回答に、しかし男は話を進める。
「月? 月とは、あの月か」
男は空に浮かぶ白い円を指さしていう。
カラスマが頷くと、男は笑い転げた。
「あれはな、どんなに頑張って走っても絶対にたどり着けんぞ。学校で教わらなかったか」
「そんな事は知ってるよ」
カラスマは目頭がかあっと熱くなって答える。実際、頭が飛び抜けて良い方ではないが、学校の中では真ん中位の方であった彼は、何も知らない男にバカにされたのだと思い憤った。
「お前は月に行きたいのか?」
「そうだよ」
男は涙を手で拭い、ポケットを弄り始める。
「そうか、そうか。それなら坊主にはこれをただであげよう」
そうして手に握られていたのは、鉄でできた板だった。いや、これはプレートと言おうか。なにやら模様なのかコードなのかが掘られていて、しかしそれは見覚えがあった。
それは二度目か三度目の世界大戦が終わったあと、S国が開発した機体の鍵だ。今では禁止された、「空を飛ぶこと」がまだ許されていた時代のものだ。
カラスマの父親の祖父はパイロットだった。そして、月に行った。父親は月に行こうとして、異端者として審問会が連れて行ったきり、帰ってこなかった。
ミィ・ロンヴァと綴られた文字が書いてあり、それは恐らくこの鍵の所有者の名前である。この鍵は多分うんと昔のものだ。少年は家にあった空に関する全てのものを頭に叩き込んでいた。
男は少年がその鍵を知っているとわかったのか、はじめから知っていたのか、勝手に話を進めた。
「あそこに山があるだろう、その何処かに、空を飛べる機械が隠されているらしい。坊主が空に行きたいって話すから、特別だぞ」
そう言って男は去っていった。
三十八万キロメートル彼方にあるあの月にいけるのかと、カラスマは驚いた。
月の色は、薄くなっていた。
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