吸血鬼のひまつぶし

暁貴々

瓦斯灯と魔晄の世界

 ■第零話



 世は大商時代。

 華の都、東響とうきょうには鉄道が開通し様々なモノが流通しておりました。

 瓦斯灯ガスとう魔晄まこうの光に照らされた街並みを、人々は「まるで夢のようだ」と称えます。

 夜の闇を恐れていた時代はもう過去のもの。


 かつて勇者と魔王が死闘を繰り広げた世界は、今や見る影もありません。

 広大な草原は平らの続く道路となり、お城の代わりに高層建築物が並び立ちます。


 馬車よりも速く走る鉄の箱が人々の暮らしを支えているのですから、長寿のヱルフが目を丸くするのも無理はないでしょう。


 道端で繰り広げられる物売りの声は、夜通し途絶えることがなく。

 空を見上げれば星よりも輝く、巨大な飛行船が飛び交うようになりました。


 夜空に輝く星たちは寂しそうです。

 しかし、それも仕方のないことでしょう。


 産業革命以降、星々の運行は乱れに乱れましたが、それ故に、文明の発展もまた著しくなったのですから。


 これはそんな時代に降り立った、一人の吸血鬼の物語。




 ■第壱話 ラーメン屋の岡目八目



(退屈でありんすなぁ)


 大商四十一年。

 帝都、東響とうきょう。そこから西に数万キロ離れた最果ての孤島にて、一人の吸血鬼が暇をもてあましておりました。


 綿氷のように透きとおった白い肌、血よりも紅い瞳に、きらびやかなシャンパンゴールドの髪。

 往来を歩けば誰もが振り返る美貌の持ち主でありながらも、その正体は、のべ七つの文明を滅したことのある恐ろしい怪物であります。


 名を、ロゼ・スパークリング・ブラッドワイン。


 かつて、闇の魔王と呼ばれる存在に仕え、ひかりの勇者と戦っていた一族の生き残りにございます。

 吸血鬼の始祖たるロゼは、魔王亡きあと、ただの一人として眷属を作ることなく過ごしておりました。

 

 墓石の上にも三百年。

 固い石の上で胡坐をかきながら、ロゼは墓守のような日々を送っているのです。


 王への忠誠心が強すぎた故に、他の生き方を選べなかったロゼには、それ以外に出来ることがありませんでした。


 大蒜にんにくも、十字架も、お天道様さえも、彼女にとっては弱点になりません。それ故に、お慕いした主君と共に死ぬこともできず、ただただ退屈な日々を送るしかなかった、悲しき吸血鬼。


 それがロゼという、女なのでございます。




 古びた墓地を護り続けて幾星霜いくせいそう――――、そんな、ある日の、昼下がりの午後のことでございました。


 何がきっかけだったのでしょう、


(ノスリは自由じゃなぁ。わらわもたまには気分転換をしたいもんじゃ。よし、決めたぞい)


 ロゼは悠々と羽ばたく鷹を眺めながら、ふと思い立ちました。

 久方ぶりに人里に降りてみようかと。

 幸いにして吸血鬼の力は健在ですし、空を飛び、夜闇に乗じてどこかの街へ侵入することも容易でしょう。


(どうせなら栄えてる街がよいのう。変身するのもちと面倒じゃし、暇つぶしは真夜中に限りんすぇ)


 そんなことをせずとも……

 金毛の髪を風に揺らしながら、気ままに散歩でもすればいいじゃないかと思うかもしれませんね?


 しかし、ロゼは生まれつき、人目を引くことこの上ない外見をしております。いわゆる、魔貌というものです。もしも昼間に外を出歩いてしまえば、あっという間に噂が広がり、多くの人間に囲まれてしまうことでしょう。

 

 秘すれば花とも言いますし、お忍びで暇つぶしをしたいロゼとしては、それは避けたいところでした。


 無論、声をかけてきた相手と御宿に赴き、数百年ぶりの情交に身を焦がすのも悪くはありません。

 吸血鬼の色香は男女に有効ですから。気分次第で相手を選べるロゼにとって、その選択はとても楽しいものになるはずでした。


 しかしながら、今宵の彼女には、他にやりたいことがあったのです。


(とびっきりうまいもんを食べたいの)


 こうして思い返してみれば、自分は随分と長い間、何も口にしていない気がします。

 当然、空腹などという人の身では耐え難い苦しみは吸血鬼には存在いたしません。


 が、やはり食事というのは心おどるものですね。


 ほどよく焼けた血のしたたる串肉を頬張りながら、グラスを傾けワインを呷る。

 

 想像するだけで胸が高まります。


(そうと決まれば早速出発じゃ)

 

 よっ、と墓石から飛び降ります。

 巨人よりも頭一つぶん大きな魔王さまの墓です、常人であれば着地の衝撃に耐えられず足を折っていたことでしょう。


 けれどそこは吸血鬼。難なく地面に降り立ったロゼは、んっと伸びをすると、紺碧の空を見上げました。


 三百年ぶりの地べたは幹のように固く。

 二本足で立つのも久方ぶりで。

 一仕事終えたような気分でございました。


「少しの間自由に生きてみようと思う。お許しをクシャナ様。しばし留守にいたしんす」


 長きにわたって、一人寂しく主の墓を守り続けてきたのです。


 ロゼに忠義がないと誰が物申せるでしょうか。これからは自由気ままにやりたいことをやる資格があるはず。そうでございますよね?


 吸血鬼の寿命は永遠です。

 悠久の時の中で、何をしようか考える時間はいくらでもありました。


 かくして。

 宵を待った美しき吸血鬼は、日が落ちるとともに深紅のドレスを翻し、夜の帳に包まれた闇の中へと消えて行ったのであります。






 …………とは言うものの。


 久方ぶりに訪れた人里は、彼女の知るそれではありませんでした。

 街のそこかしこに光る看板。いと妖しい輝きを放つ電飾。道行く人は皆、最新式の衣服に身を包み、車や魔晄列車といった鉄の塊に乗っております。また建物にも、見慣れぬ技術が用いられていました。


 ロゼにとっては、まるで別世界のように思えたことでしょう。


(300年。様変わりするには十分な時間でありんしたか、あっぱれじゃ人族よ)


 ロゼは感慨深く辺りを見回しました。

 あの頃はまだ馬車が主流だったように記憶しています。舗装路といっても石畳に均等性はなく、凸凹の地面を馬が駆けていたものです。


 それが今や――

 平らな路面になっており、整然と敷き詰められた赤煉瓦の道の上を、自動車が走っております。


(華やかにも窮屈にも見える。不思議な光景じゃ)


 大日輪だいにちりん帝国。

 この時代において、唯一、帝国を名乗ることを許された大国にございます。


 どうやらこの国は、首都である帝都東響を中心に栄えているもよう。街のあちこちにそびえ立つ塔の並びを見渡しながら、ロゼはそう判断しました。


 もっとも、情報の仕入れ先は人にございます。字は読めずとも、人の心を覗く能力は健在なのです。


 まさに吸血鬼の本領発揮というところでございましょう。


 あれらは電気と呼ばれるものを発生させる装置。

 針尾無線塔という自立式魔晄塔で、魔力を放出することで、帝都周辺の電波を送受信しているのだとか。


(それにしても賑わっておるのう。暇つぶしには丁度よい)

 

 夜になっても、街は明るいままでございました。

 文明の進歩とは素晴らしいものです。


(食事も期待できそうじゃ。どれほど進歩しておるのか、楽しみで仕方がないわい。かかっ)


 ロゼは口の端を吊り上げました。

 闇が深くなれば深くなるほど、吸血鬼の感覚は研ぎ澄まされます。

 それはつまり、味覚も研ぎ澄まされるということ。


 夜空に浮かぶ月は、もうじき満ちようとしていたのでございます。


 人混みの中を歩くのも数百年ぶり。


 すれ違う人々の顔ぶれも変わっています。中には、初めて見るような種族もちらほらと見受けられました。ヱルフやドワーフといったお馴染みの亜人に始まり、半身を機械化させた少年や、背中からを生やす少女などもおります。


 ロゼは興味深げにあたりを見回しつつ、ゆっくりと歩みを進めました。


 やがて辿り着いたのは、東響最大の繁華街である白銀座しろがねざ

 そこには数多くの店が並んでいましたが、ロゼの目に留まったのは、一軒のラーメン屋でございました。


 ◆


(むっ。なんとも良い匂いじゃな。こりゃたまらんぞい)


 鼻腔をくすぐる香ばしくも芳しい香り。

 その正体は、店の奥にある厨房から漂ってきているようでございます。


 夜風に晒され冷え切った身体には、暖かな食べ物がぴったりでございましょう。無論、寒さに耐性のある吸血鬼が寒い思いをするとは限りませんが、こればかりは気分の問題であります。


 瓦斯灯ガスとうの下で煌々と照らされた店内に入ると、そこは小綺麗な造りになっておりました。


「いらっしゃい」

 

「店主よ、この店はどういう料理を出すお店なんじゃ?」

 

 カウンター席につきつつ尋ねると、中年の男性が麺を茹で始めます。


「嬢ちゃん見りゃあわかるだろ。うちははなそばのお店だよ。おれはあかざの来々園で修行を積んできたんだぜ」


 そう嘯いて、店主は得意げに胸を張っておりました。


 今や誰もが口を揃えてラーメンと総称する麺料理は、この大商時代において、華そばと呼ばれていたのです。

 とはいえ、ロゼがそんなことを知っているはずもなく――


「知りんせんなぁ」


「あんた華族のご令嬢かい? 随分と豪華なドレスだな。悪いことは言わん、こんな庶民の店で食事なんてやめときな」


 どうやら、この店の主人はロゼの正体に気づいていないようです。


 深紅のドレスを身にまとうロゼの外見は、どう見ても高貴な生まれの貴婦人。そのような女性が、このような場末の店を訪れるとは夢にも思わないでしょう。


 白銀座しろがねざといってもピンキリ。

 ここは、一等地というよりは下町に近い区画ですしね。


「わらわは華そばラーメンを食べたいんじゃ。しかしのう主人、あいにくとわらわは金を持ってなくてのう。ツケにはしてくれんか?」


「無銭飲食かよ……勘弁してくれ。店によっちゃ、その発言だけで邏卒らそつに突き出されちまうぜ」


 主人はさも迷惑そうな顔をしております。

 現代でいう警察のような機関を、この時代の人々は総じて邏卒と呼んでいました。

 邏卒たちは市民の安全を守るとともに、時には犯罪者を捕らえる役割も担っていたのです。


 そんな事情もあってか、華そば屋の主人は一向に席を立とうとしないロゼにますます渋面を浮かべました。


「邏卒とは衛兵のことでありんすか? 早々に突き出せばいいものを、お前さんは心優しき御仁じゃの」


 妖艶に微笑んでみせるロゼに、主人はドギマギとした様子です。


 その反応が面白いのでついつい揶揄からかいたくなるのは、これはもう吸血鬼の性というものでございますね。


 しかし、魔貌に頼ってはいけません。それは卑怯者のすること。

 吸血鬼は誇り高く、そして聡明でなければなりません。そんな彼女にとって魅了による交渉は恥ずべき行為の一つでした。


「わらわは厄介な客じゃろ? 自覚はある。そこでの店主、賭けをせぬか」


「賭けって……あのなぁ。嬢ちゃんが何を差し出せるってんだよ……? おれが欲しいのは金だけだぞ」


 さすがは商売人のかがみというべきか。


 主人は機転を利かせて、ロゼをやり過ごそうとします。

 当然ロゼはこの時代の通貨も、それに値する金目の物も持ち合わせてはおりません。今身に付けているものといえばドレスと扇子のみ。


 ですが、これはロゼのお気に入りでありまして――


「金はないでありんす。じゃが、賭けをしてくれるなら衛兵に突き出すことへの罪悪感を拭ってやることはできる。わらわが賭けに負けた暁には邏卒とやらに突き出すがよい。わらわはお前さんのことを恨みはせんし、誰にも喋らぬ。喚き散らして店の名を汚すこともせん。約束するぞ」


 ロゼがそう言うと、主人はしばらく考え込み、やがて小さくため息をつきました。

 それから観念したように口を開きます。


 ――わかったよ、と。


「で、嬢ちゃんが勝ったら華そばを食わせろと? 一体、どんな罰ゲームなんだこりゃ……」


「ふふ、まったく。同情するぞえ」


 呆れたような表情を浮かべる主人に、ロゼはニヤリと笑いかけました。


「のう店主よ、お前さんは数字に自信があるかの?」


「そりゃ銭勘定ができんと、華そば屋なんか務まらんからな」


 主人は怪しげなものを見るような目をロゼに向けています。


 当然の反応ですね。

 ロゼが要求したのは、至極簡単なことでした。

 

「ならば2から9の数字を一つ思い浮かべてみよ。わらわがそれを的中させてみせよう」


「数字を当てるゲームか? 確率は、八分の一ってところだな……」


「さよう。但し、ここにルールを一つ追加させてもらう。ただ当てるだけでは面白味に欠けるからの」


 ロゼは人差し指を立て、得意げな笑みを浮かべました。

 その仕草に主人は首を傾げています。


「ルール?」


「なあに簡単じゃよ。お前さんが思い浮かべた数字とわらわが指定した数字を。たったそれだけのことじゃ」


「ふーむ。……だがよ嬢ちゃん、それじゃ一桁にならない可能性もあるだろ。ゲームが成立しないぜ」


 主人がもっともな疑問を口にします。

 ですが、ロゼは不敵に笑ってこう答えました。


「お前さんは聡明じゃの。その通り、互いの数字をかけて二桁、あるいは三桁になった際はその数字を足して一桁にする。例えば店主が4を思い浮かべ、わらわが33を指定したとしよう。答えは132。この内の1と3と2を足して6になるというわけじゃな」


「待て待て。計算できないようなでけえ数字を指定して、不戦勝にする腹積もりじゃあるめえな?」


 主人は疑いの目でロゼを見つめました。

 その視線に臆することなく、ロゼは口角を上げます。

 その顔はまさしく魔性の笑みでありました。

 妖艶でいて、どこか人を喰ったかのような表情。


「用心深い男じゃの。ならばわらわが指定する数字も2から9の一桁のみ。それでよかろう?」


「あ、ああ……それなら」


「決まりでありんす。さすれば店主よ、早速数字を思い浮かべるがよい」


 歯切れの悪い返事をする主人を急かし、ロゼは詰将棋の如き要領で勝負を運ぼうとしていました。


 ロゼが思いついた賭けの内容をまとめると、こうでございます。

 主人が思い浮かべる数字を当てればロゼの勝ち。外れればロゼの負け。


 店主が思い浮かべる数字は2から9のどれかであり、その数とロゼが指定した数をかけて、二桁になった際はその数字を足して一桁にするというものでございます。


「――おし、決まったぞ」


 まずは【八】を思い浮かべながら、店主はカウンター越しにロゼと向き合いました。


「わらわも決まったぞい」


「指定する数字は?」


「9じゃ」


 ――八に九をかけると七十二か……七と二を足して九、おれの数字は【九】だ。


 店主はルール通りに、頭の中で計算を済ませます。


「もろもろ済んだかの?」


「おうよ」


「で、ありんすか」


 ロゼはカッと扇子を閉じると、深紅の瞳を細めて妖艶に微笑みました。


「お前さんの思い浮かべた数字は9じゃな。どうじゃ、当たっとるか?」


 主人はハッと目を見開き、驚いた様子です。


「あっ……ああ、当たってる」


「いよし! 賭けはわらわの勝ちじゃ。店主よ、うんとうまい華そばを馳走してくれ」


 ロゼは拳を握りしめて喜びの声をあげました。

 すると、主人は少しばかり悔しそうな顔をしておりました。


「はぁ……仕方ねえなあ。まあでも今日は閑古鳥が鳴いて暇してたとことだ。嬢ちゃんのおかげで良い暇つぶしができたよ、とびっきり美味いの作ってやるからちょっと待ってな」


 そうして、主人は厨房へと向かいました。

 程なくして出てきたのは、黄金色に透き通ったスープの中に、たっぷりの具が入った華そばラーメンです。

 見た目にも美しく、食欲をそそる素晴らしい逸品でした。


「ほう」


 箸を割り、いざ実食。

 ズゾッ、ズゾゾゾ……麺を勢いよく吸い込む音だけが響き渡ります。その様は、さながら滝が逆流しているかのようでした。


「う、んまい。で、ありんすなぁ……」


 数百年ぶりに口にした食事。

 ロゼは感涙に咽んでおりました。

 涙が止まらないとは、まさにこのこと。


「な、なにも泣くことはあるめえよ……」


「かかっ。久方ぶりの食事故、許せ」


 ロゼは袖でグイッと涙を拭うと、再び食事を楽しみ始めました。

 主人はそんなロゼの様子を、微笑ましいものを見るかのように眺めておりました。



 

 閉店後のことでございます。

 ビールケースを裏返しただけの簡易椅子に腰掛けながら、主人は常連の客と酒をみ交わしておりました。


 先刻体験した不思議な出来事について語り合っていたのです。


「――そしたらよ、なんとその嬢ちゃん、おれが思い浮かべた数字をぴたりと当てやがったんだ。まじで驚いたぜ」


「マサさん。あんた、岡目八目って言葉を知ってっかい?」


「おう、それがどうした。当事者よりも第三者の方が物事の本質がわかるって意味だろ」


 主人は客から差し出された杯を、ぐいっと飲み干しました。

 その顔はほんのりと赤く染まっています。アルコールの影響か、あるいは高揚した気分のせいか、主人は饒舌に語っておりました。


「マサさんが思い浮かべたのは八だったんだろ。おいらは六を思い浮かべてみた。六に九をかけたら五十四。五と四を足せば九だ」


「九……? おれんときと同じじゃねえか」


 主人が怪しげな表情を浮かべます。


「二かける九は十八。足せば九。三も四も五もおんなじだ。二から九までの数字に九をかけて答えを足せば、必ず九になるようにできてんのさ」


「あ……ぁぁぁぁあ! そういうことだったのか!!」


 主人は思わず声をあげて、その場に立ち上がりました。

 そして、その拍子にビールケースをひっくり返してしまいます。


「まんまと一杯喰わされたな、マサさんよぉ」


「確かにこいつは岡目八目だぜ。あの嬢ちゃん、とんだ女狐じゃねえかよ……」


 すっかり酔いの醒めた店主は、夜空に浮かぶ満月に向かって悪態をつきました。

 その表情にはどこか清々しさが滲んでいるようにも見えた――のちにラーメン屋の常連客はそう語ったのでございます。




 ■第弐話 ハイカラのパイオニア



 華そば屋を後にしたロゼは、夜の繁華街をあてもなく彷徨いました。


 白銀座から続く大通りに沿って歩けば、やがて小さな広場に行き着きます。そこは待ち合わせの場所として使われることが多いらしく、老若男女様々な人々が行き交っているように見受けられました。


 ロゼは広場の端にあるベンチに座り込み、ぼんやりと往来を眺めます。

 軒を連ねる店屋は、いずれも看板に明かりを灯しています。煌々と輝く街灯は、まるで地上に星を降らせたかのよう。


 遠くの方からは人々の笑い合う声が聞こえてきます。

 その賑やかな喧騒は、ロゼの心を落ち着かせてくれました。


「波の音ばかり聴いておったからの。たまには雑踏に耳を傾けるのも悪くはない」


 ロゼはそう呟いて、目を閉じました。

 それからどれくらいの時間が経ったでしょうか。

 

 ロゼは誰かに肩を揺すられ、意識を覚醒させます。

 ゆっくりと瞼を開けると、そこには見知らぬ男が立っていました。


「――ゼ様、で、ございますか……?」


 男は震える声で何かを言っております。


「生きて……生きて、おられたのですね」


 ロゼは状況が理解できず、少々困惑しました。

 一体この男は誰なのか、どうして自分の名を知っているのか、と。


「誰じゃお前さん?」


「魔王軍第六師団、師団長を勤めていたローアンにございます」


「ローアン? 狼男ライカンスロープのあのローアンか。ずいぶんとまあ、立派になったのう」

 

 ダブルタキシードに身を包み、左目を眼帯で覆ったその男は、かつてロゼに仕えていた部下の一人でありました。


 つばの広いホンブルグ帽を被り、右手にステッキを携えています。顔立ちは整っていて、いかにも紳士といった風貌。感極まったように細められた隻眼は、潤みを帯び、今にも泣き出してしまいそうなほど。


「お前さんも長寿の種族じゃったな。すまんの、長らく連絡を怠っていた」


 ロゼは申し訳なさげに謝ると、おもむろに立ち上がってローアンの頭を撫でました。


「四天王のお一人が……こうしてご健在であったこと、嬉しく思います……」


 ロゼの手の温もりを感じ、堪えきれなくなったのでしょう。

 ローアンの右目から、大粒の涙が零れ落ちたのでございます。


「大儀である、ローアン。よく生きておった」


「今はヨシノを名乗っております。魔王軍が滅んで以降、私は魔族領を離れました。そして人間社会の中で生きてきたのです」


「人キライのヌシにとっては、苦渋の選択じゃったろうな。して、ローアンよ。名を変えたことにいかほどの意味が?」


「人に紛れ、人として生きねば、自由を訴える資格などありません。私は人も魔族も関係なく手を取り合い、共存できる世界を作りたいのです」


 それはとても素晴らしい考えだと思います。

 ですが、実現するのは並大抵のことではありますまい。


 現に、人魔大戦によって多くの同胞を失った魔族は、権威を失墜し、今では奴隷として扱われている者も少なくはないようです。


 そのような現実を目の当たりにしておきながら、果たして理想を口にすることができるものなのでしょうや。


 ロゼはふむと腕を組み、少しだけ思案します。


「相も変わらず人族を治めるのは天帝かのう?」


「いえ、天帝はもはやお飾りにすぎません。いまやその飾りを笠に着て英閥政治を敷く勇者の一族が実権を握っています」


「なにゆえそのような。勇者は王にあらず、民に寄り添うべしと謳っておったではないか」


 ロゼはかつて耳にした言葉を反駁いたしました。

 しかし、ローアンは力無く首を横に振ります。


 どうやらその教えすら守られていない様子。


 人の世はいつの時代であっても変わりゆくものですが、こうまで大きく変貌を遂げているとは驚きでした。


 もはや魔王軍の力を借りること叶わず。

 であればこそ、ローアンは己の力で変えようと決意したのかもしれませぬ。

 ならば、この老骨が協力せぬ道理はないでしょう。

 かつての主従関係は解消されましたが、それでもローアンは大切な部下であることに変わりはありませぬ。


「ヌシ一人では限界じゃろうて。争いのない時代において、もっとも必要とされるのは武力ではなく知恵。剣も槍も鉄砲も魔法も必要ない。必要なものは思想と対話、それに共感する多くの声でありんす」


「……多くの声、でございますか」


「さよう。その第一歩として、わらわはしばしこの帝都に留まることにした。これから忙しゅうなるぞ」

 

 ロゼはそう言って不敵に笑いました。

 ローアンは一瞬呆気にとられていましたが、やがて口元を綻ばせ、深々と頭を下げたのを覚えております。

 こうしてロゼは、人族の文化と歴史を学ぶため、しばらく帝都で暮らすことになりました。


 ロゼにとって僥倖であったことは、人族の中にも自由主義を掲げる一派があったことです。

 彼らは英閥政治に対し、異議を唱える者たちで、民主主義を掲げ、平等と平和を希求しておりました。

 また、魔族に対して差別意識を持っておらず、むしろ友好的な関係を築こうとする姿勢が見受けられました。

 そうした人々を中心に集まり、組織したのが革命軍と呼ばれる団体にございます。


 長い物には巻かれろ、という諺があるように、人は権力に抗うことが難しい生き物。


 その流れに身を委ねていれば、少なくとも不幸になることはございません。

 しかしながら、その先にあるのは緩やかな衰退のみ。


 人族と魔族が共倒れをしては元も子もありません。故にロゼは、影ながら革命軍に力を貸すことにいたしました。

 

 無論、関係者とは一言も言葉は交わしておりません。


 ロゼはあくまでも傍観者でありました。吸血鬼の始祖たるロゼが表立って行動すれば、たちまち血生臭い結末を迎えることになるでしょう。

 

 故にロゼは、ただ見守るだけです。

 ひまつぶしも、兼ねて。



 ◆



 ある日の昼下がり、ロゼが和傘を片手に白銀座の大通りを歩いていると、二人の少女とすれ違いました。

 片方は洋、片方は和、いずれも別々の国の衣装に身を包んでおります。ドレス姿で和傘を差すロゼも、異なる文化を併せた格好をしていると言えるでしょう。


(ふむ。着物もドレスもええのう。どちらを着るかいつも迷うでありんす。いっそ両方合わさった服でも仕立ててもらうか)


 仕立てといえば、小人族かドワーフ族に相談してみるのも悪くはないかと存じます。

 彼らは手先が器用な種族で、衣服を作る技術に長けておりました。


「おう、妙案を閃いたぞい」


 ロゼはぽんと手を叩くと、くるりと踵を返し、来た道を引き返しました。

 向かう先は、和装専門店です。

 店内に入ると、様々な柄の生地が目に飛び込んで参りました。

 ロゼはそれらを見て回り、気に入ったものがあれば、試着をして店員と相談しながら決めていくのです。

 そんなこんなで、ひとまず一通りの買い物を終えた頃には、すっかり日が暮れかけておりました。


「リボンや髪留めにこだわれば、新しい自分になれる気がするでありんす」


 ロゼは上機嫌でそう呟きました。

 のちにハイカラさんと呼ばれ、時代の先端を行く女が、まさか吸血鬼であったとは――この時はまだ、誰も知る由もありませんでした。



 ◆



 帝都の繁華街に、一人の男が住んでいました。


 彼は小説家志望の青年であり、今日も朝から小説の執筆に励んでいたのです。

 ですが、なかなか筆が進みません。

 

 青年は困り果て、気分転換に散歩をしようと思い立ちました。

 そこで彼は、通りを行き交う人々を眺めながら歩いていきます。すると、不意に青年の視線はある人物を捉えました。


 それは、和と洋を見事に併せた不思議な服装をした女性だったのです。

 腰まで伸びた艶やかな金髪をなびかせながら歩く姿は、まるで西洋人形のように愛らしい。


 青年はその姿に見惚れてしまいます。

 そして女性は青年の存在に気づくと、立ち止まり、にっこり微笑みました。


「わらわはつけられるのを好かん。何か言いたいことがあるなら申すがよい」


 いきなり話しかけられたことで、青年は少々戸惑いましたが、すぐに気を取り直し、勇気を振り絞って口を開きます。


「あなたの出で立ちに目を惹かれてしまって……つい追いかけてしまったんです。不快に思われたらすみません」


 青年はそう言って、深く頭を下げました。

 すると、女性がくすっと笑ったように聞こえます。

 もしかすると怒らせてしまったのかと、恐る恐る顔を上げてみると、そこには満面の笑顔がありました。


「おぬし、なかなか見識の深い男じゃの。名はなんと申す。わらわはロゼじゃ」


「石川三郎といいます。ロゼさんは、どうしてそのような恰好を?」


 ロゼは顎に手を当て、少し思案します。

 それから、ふふんと得意げに鼻を鳴らしました。


 これは、自分がいかに優れた存在かをアピールしたい時に見せる癖なのでございます。


「文化は違えど、人の心は同じ。なれば、異なる文化の衣を纏えば、より広い視野で物事を見極めることができるのではないかと考えたのじゃ」


 なるほど、と三郎は納得いたしました。

 そして、ロゼが口にした考え方は、とても素晴らしいものだと感じました。


「ロゼさんの言うとおりですね。僕もロゼさんのような格好をすれば、もっと自由に表現できるかもしれない」


 そうして二人は意気投合し、互いの意見を交換し合いました。


 ロゼは服飾について、三郎は文学について。


 いつしか二人の間には友情が芽生えていたのでございます。


 茶屋でお茶を飲みながら談義を交わすこともありました。

 喫茶店で珈琲を嗜みながら語り合うこともありました。

 三郎が屋敷に招待して茶会を開くこともございました。


 時には意見の違いで喧嘩になることもあったのですが、その度に仲直りをし、また議論を重ねるのが楽しくて仕方がなかったのです。


 それは、人魔大戦の後には得られなかった、確かな繋がりをロゼに感じさせてくれました。


「その高襟は見事なものじゃの。シンプルさの中に洒落を感じるぞえ」


 ある日のこと。

 いつもの茶屋で、ロゼは興奮気味に、三郎の着ているワイシャツを褒め称えました。


「ロゼさんの着物も素敵ですよ。ロゼさんの雰囲気によく似合っています」


 三郎はロゼの羽織っている桜色の振袖を指差し、にこやかに笑います。

 ロゼは嬉しさを隠しきれず、頬を緩ませてにまにましていました。


「おぬしは褒め上手じゃの。して、小説の方はどうなっておる?」


 ロゼはふと、思い出したかのように訊ねます。


 その問いを受け、三郎はばつが悪そうに苦笑いを浮かべました。

 というのも、ここ数日はロゼと過ごす時間の方が長く、あまり執筆活動は捗っていなかったからです。


「わらわにかまけておらず、おぬしは本業を疎かにしてはならぬ。作家を志す者が筆を執らねば、誰が物語を書くのじゃ。おぬしの書いた文章を読みたいと願う者は必ずいるはずじゃぞ」


「はい、わかってはいるのですが……」


「ならば、何を迷うことがある」


「ロゼさんと出会い、オシャレは十人十色だと知りました。だからこそ、僕は主人公の個性を生かす表現をしたいと思ったんです。けれども、それをどうやって伝えればいいのか、わからないのです」


 三郎はぽつりと弱音を吐露しました。

 そんな彼を見かねたロゼは、大きくため息をつくと、おもむろに立ち上がってこう言ったのです。


「下を俯いてばかりではせっかくの高襟ハイカラーが台無しじゃぞ。背筋を伸ばして前を向け。己が信じる道を突き進め。おぬしにはそれができるだけの文才があるではないか」


 ロゼの言葉は不思議と力強さを帯びておりました。


「……あの、ロゼさん。いまなんと?」


 聞き慣れない言葉に、三郎は首を傾げます。

 ロゼはきょとんと目を丸くしました。


「む? どのあたりから聞いていなかったのじゃ。まったくわらわの美貌にかまけるとは、おぬしも罪な男よのう」


「ハイカラーと聞こえたような気がしたのですが、あれは一体どういう意味なのでしょうか」


 ハイカラー。

 ロゼの口から出た単語は、おそらく異国の言語でしょう。

 いったいどのような意味があるのだろうと、三郎は興味津々といった様子で尋ねました。


「高襟という意味じゃよ。おぬしの着ているその高襟は、まさにその言葉が相応しい。おぬしの高潔な魂が宿った、立派な一張羅ということじゃ」


 ロゼは自信たっぷりに胸を張って答えました。

 三郎は、ぱちりと瞬きを繰り返します。


「あ、あのロゼさん。僕、帰って執筆に取り掛かります!」


 ロゼの言葉を噛み締めるように、何度も深呼吸を繰り返すと、三郎は勢いよく立ち上がりました。

 そして、早足で店を出ると、そのまま自宅へと向かっていきました。


「ういのう。やはり若者の目はキラキラとしておらんとつまらぬわい。これで、少しは小説も進むことであろう」


 一人になったところで、ロゼはそう呟きました。

 そして、満足そうな表情を浮かべながら、ゆっくりと席を立ち、店をあとにしたのです。


 ◆


 数ヶ月後。

 ひとりの新人作家が誕生したことは、瞬く間に帝都に広まりました。

 それは、彼が初めて書き上げた長編小説によるものです。


 タイトルは、ハイカラさんが行く。

 

 ハイカラー。

 当初、その言葉が示すものは『高襟』で御座いましたが、やがてそれは転じてオシャレやファッションを指す新たな流行語となりました。


 なにせ彼の小説では、和装と洋装を合わせた服装をハイカラと呼んでいたからです。


 それは、自由の象徴であり、新たな時代の幕開けを告げるものでした。


 そして、ひとりの小説家と、ひとりの吸血鬼の友情が――この世に誕生した瞬間でもあったので御座います。

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吸血鬼のひまつぶし 暁貴々 @kiki-ki

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