【ひと休み編】〜黒猫と魔女と別れ〜
夜の闇もずいぶん深くなった頃、自分を包み込むようにして眠るジャドールと名乗る騎士を眺め、彼女はその男の頬にそっと手を伸ばす。その視線は切ない。
「楽しそうなのは大いに結構だが、婚前交渉はさすがに見過ごせないな、フローラ」
「……違うわよ」
低い声で近づいてくる黒猫の存在に気づき、フローラと呼ばれる魔女はムスッとして顔を上げる。
「おまえがそんなにも距離を許すなんて、珍しいな。一緒に寝室を共にするまではやりすぎだがな」
「だ、だから、違うったら」
黒猫はくくっと笑う。
この猫はフローラが森に住むようになって少ししたころに突然現れたことをきっかけに今に至る。
満月の夜にどこからともなく現れて、いろんな話を聞かせてくれた。
人の声を操る猫が何者なのかは分からなかったが、フローラにとっては大切な家族のようなものだった。
「自衛のための護身術だって、しっかりと教えたはずだろう。変態騎士の思惑通りになるのはやめなさい」
図星なのか、フローラは言い返せない様子を見せ、黒猫はさらに大きな声で笑った。
「まんまとこの男の呪いにかかっているな、フローラ」
「え?」
「愛らしい顔で魔女様魔女様と、口を開けば甘い言葉ばかり並べて、すっかりおまえも虜に見える」
「そ、そんなことは……」
言いかけてフローラは真っ赤になる。
「いっ、意地悪言わないでっ!」
「フローラ」
そこで黒猫は声を落とす。
「しばらくお別れだ」
「え?」
「わたしがこないからと言って、本能のままに乱れた生活に溺れでもしてみろ。王家からすぐにでも使いが来るぞ」
「ちょ、ちょっと、飛躍して考えるのはやめて。というか、どういうこと? お別れって、何を言っているの?」
「言葉のとおりだ。わたしはこの地を去らないといけない」
「ど、どうして……」
みんなが離れていく。
「わ、わたしが嫌になって?」
他の人達のように。
「そんなわけがない。おまえはわたしにとっても大切な存在だ。だが、ここは見張りの騎士以外は立ち入り禁止のババアの力で管理をされた場所だ。満月の日だけはこちらの力も強くなるからババアの目を盗んで来れていたが、事情が変わり始めた」
「い、いやだ……」
フローラの大きな瞳が揺れる。
「ひとりにしないで……」
「なりたくても、もうなれないだろう」
黒猫は面白そうに前足でジャドールを指差す。
「気持ちの悪い男ではあるが、その男ならおまえを任せられると思うんだ」
顔だけはいい、と黒猫はたのしそうだ。
「で、でもこの人は……」
「それならば、おまえもともにわたしとここから抜けるか?」
「えっ……」
「わたしのあとについてババアの力が及ばないところまで行けば、一気に逃げ切れる」
「………」
「選べ、フローラ。わたしとともに逃げるか、変わらずずっとここに留まるか」
フローラの視線が揺らぎ、視線を落とした先で眠るジャドールを切なそうに眺める。
「ジャドール……?」
ジャドールは寝息ひとつ立てずに静かに眠っている。
まるで、魂が抜けたように。
「ジャドール!?」
「その男は息をしていない」
「えっ?」
「三日後には目を覚ますだろう。だが、その男に異変があったらすぐに王家のやつらが押し寄せてくるだろう。タイムリミットは明日の夕方、といったところだろうか。それまでにこの男を目覚めさせるか、もしくは……」
「ど、どうして……こんなことを……」
「おまえに選ばせてやろうと思ってな」
冷たくなったジャドールの指先を握りしめ、黒猫を見つめる。
逆光でその顔はどんな表情をしているのかわからない。
「もう十五歳だ。自分の未来を自分で選ぶんだ」
「……い、今のわたしの魔力では、何もしてあげられないわ」
指先に触れると心なしかひんやりした。
「ここに残ることを選ぶというのか」
「この人と戦いたくない」
もう一度視線を落とし、次に顔を上げた時には今までにない意志の強い瞳になっていた。
「そういや言っていたな。逃げだら意地でも追いかけてお前を自分のところに閉じ込めると」
「………」
「それはそれであまりにも気持ちの悪い発想すぎて反吐が出るが……」
「この人の呪いが解けたら、そんなことも言わなくなるわよ」
「解くか解かないかはお前次第だ。解かなければそのままだ。そうだろう」
なんでもお見通しのようだ。
「フローラ」
黒猫は言葉を失うフローラの様子に嬉しそうに続けた。
「わたしもおまえに、呪いをかけてもいいか。餞別のようなものだ」
「え……いいけど……どういった……」
「フローラ。また次おまえに会えるのは、おまえが心から幸せだと思えたときだ」
「え……」
「幸せになれ、フローラ。もっと、自分を信じて、自分のしたいように生きるんだ」
「………」
「大丈夫。おまえならできるから」
「で、でもわたし……幸せになる資格は……」
「幸せになる資格のないものなどいない」
「でも……」
「自分でできない理由を見つけようとするのはおまえの悪い癖だ。さぁさぁ、早く起こしてやれ。そいつが目覚めたら寂しさなど一瞬で吹っ飛ぶだろうからな」
「起こし方がわからないわ」
「おまえもそのくらいはわかっているはずだろう。痛みの熱も、それで解決できたのに」
「……で、できないわ」
「それなら薬草なりなんなり試して自力で起こすことだ。もちろん、明日の夕方までにできるのならな」
「ま、魔女の接吻はとても効果的だけど、合意もなくできるわけがないわ。仮にもこの人は……」
「その男が起きていたら大喜びしそうなものだ」
「……婚前交渉はやめろって言っていたくせに」
「応急処置だ。すべてのことを卑猥な考えに結びつけるな」
「……無茶苦茶だわ」
「あとは任せた」
黒猫は笑う。
「大人になったお前に会えるのを楽しみにしている」
身軽に飛び上がり、窓を超える。
「まっ、待って……」
黒猫は振り返らない。
「あ、ありがとう……」
ずっとそばにいてくれて。
「ありがとう……」
その声は夜空に吸い込まれていく。
その影は途中で人のもののように見えたが、気づいたときには姿を消していた。
『幸せになれ』
絶対に敵わない呪いを残して黒猫は消えた。
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その後、少しの間どうしようどうしようと唸り続けていた魔女が騎士の唇に自身のそれを近づけることとなる。
何度も何度も躊躇を繰り返しながら唇を近づけた先で、互いのそれが軽く触れそうになったとき、突然目を開いた騎士に魔女が絶叫したのは少し後のお話だ。
騎士は大喜びで、ぜひとも続きをお願いしたいと申し出て再び目を閉じたが、魔女は恥ずかしさのあまり真っ赤になって喚くように逃げ回った。
その様子をどこからともなく眺めていた黒い影が、くくっと笑って再び姿を消したことを誰も知らない。
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