転んで石を蹴っただけ

ただ転んで石を蹴っただけのはず

 アトゥサリ王国の山の集落では酪農が盛んである。

 六歳の少女タマラ・シェンケルも、酪農を営む家の娘として生まれた。

 肩くらいまでの栗毛色の髪にクリソベリルのような緑の目の少女である。

「タマラ、川で水を汲んで来てちょうだい」

「はーい!」

 母からそう頼まれ、タマラは元気良く返事をした。


 風はまだ少し冷たいが、雪はすっかり溶けて地面からは可愛らしい花が咲き始めている。寒く厳しい冬が終わり、至る所に春の知らせが来ていた。


 タマラは春を感じながら、ワクワクと表情を輝かせていた。水汲み用の木製バケツを勢い良く振りながら、山道を軽い足取りで川まで走る。

「あ! リスさん達だ!」

 山道を外れた険しい斜面を二匹のリスが颯爽と走っていた。

 リスを見るタマラは足を止め、クリソベリルの目をキラキラと輝かせている。

 そしてタマラが再び駆け出した瞬間、石につまずいて転んでしまう。

「うわっ!」

 持っていたバケツはコロコロと山道の少し先まで転がって止まった。

「もう、何でこんな所に石があるのよ!」

 タマラは転んだ痛みにより涙目になりながら、つまずく原因になった石を勢い良く蹴った。

 すると石は山道を外れて険しい斜面を勢い良く転がる。更に、その石は大人の身長の半分程ある大きな岩にぶつかった。石が斜面の力により加速していたのか、その勢いで大きな岩まで転がり始めた。

「わあ! 凄い! 大きな岩が下まで転がってる!」

 タマラは勢い良く転がる岩を見て、楽しそうにケラケラと笑っていた。

 転んだ痛みなど忘れたようである。

「あ、いっけない。川でお水を汲まないと。お母さんから頼まれてるんだった」

 タマラはハッと思い出し、急いで木製バケツを手に取り川に向かうのであった。






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「お父さん、お母さん、それでね、今日川にお水を汲みに行く時石につまずいて転んじゃったの。それで悔しかったから私、その石を蹴ったの。そしたらね、その石が大きな岩にぶつかって、大きな岩が転がり始めたの!」

 その日の夕食時、タマラは両親に今日あったことを懸命に話していた。

「そうだったのか。タマラ、怪我はなかったかい?」

 父親はスープを飲み、少し心配そうな表情になった。

「全然! 痛かったけど、石を蹴り飛ばしたらスッキリしたの!」

 したり顔のタマラ。そのまま彼女はパンを頬張る。

「こら、タマラ、お行儀悪いわよ。一口ずつ食べなさい」

「ふぁーい」

 母親に注意されたが、タマラはパンを頬張りながらそう返事をした。

「全く、貴女って子は」

 母親はやや呆れていたが、タマラを見るその目は優しかった。

 夜はまだ寒さが厳しいが、シェンケル家のログハウスには大きな暖炉があったので、家の中は暖かかった。それだけでなく、両親の優しさにより、タマラは心も温まっていたのだ。


 しかし三日後。

 両親の態度が一変する。

「タマラ、三日前にお前が転んで石を蹴ったことは僕達以外の誰かに言ったかい?」

 父親の表情は今まで見たことないくらいに険しく、何かを恐れているかのようだった。

「え……? お父さんとお母さん以外には言ってないよ」

 タマラはそんな父親の態度に不安を隠せずにいた。

「それなら良いわ。タマラ、三日前川に水を汲みに行った時に、転んで石を蹴ったことは絶対に誰にも言っては駄目よ。絶対によ」

 母親の表情も、今まで見たことがない程の険しさだった。

「……はい」

 タマラはただ頷くことしか出来なかった。

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