第3話 妻とコロッケとアイスクリームと

 優作はカオリと初めて言い争ったあの日のことを思い出していた。

「カオリのやつ、カレーが付いたお玉を絨毯に投げつけやがって。あの後、絨毯にこびりついたカレーを拭き取るのにどれだけ苦労したことか! しかもあの絨毯は、カオリに買ってぇ〜と強請られて買ったペルシャ絨毯だったんだ!」

 優作は憎々しげにカオリの顔を思い浮かべたが、今頃日本でどうしているのかと思わず考えてしまった。

 カオリはあの後、言葉通り都内の2LDKのマンションに引っ越していた。夫が単身赴任中ということもあり、男を連れ込んでいるに違いない。いや、もうほぼ確実だろう。結婚前には見えなかったカオリの本性は、結婚してから少しずつ、まるで古い屋敷の埃が舞い上がるかのように現れてきた。

「ああ、くそっ!」

 優作は頭をかきむしった。だが途中で、これ以上かきむしったら残り少ない髪の毛を失ってしまうと気づき、慌ててやめた。化粧台に行き、鏡を見つめると、禿げが目立っていた。

「これ、偏食とストレスのせいかな……。栄養のあるものが食べたいなぁ。カオリは今頃、日本でうまいもん食ってるんだろうなぁ。ああ、日本のコンビニ行きてぇ!」

 優作は育毛剤を手に取り、DJがレコードを回すように頭に塗り込んだ。


 アメリカへ移住して初めて気づいたのだが、日本のコンビニは実に素晴らしいものだった。アメリカにもセブンイレブンはあるが、日本のそれと比べると質は驚くほど悪い。その上、価格は不当に高い。さらに、従業員の態度も最悪だ。アメリカではそれが当たり前かもしれないが、レジの前に立っても、従業員はテレビや本に夢中で、こちらが声をかけなければ何もしようとしない。逆に、商品を選んでいるときに限って馴れ馴れしく話しかけてくる。

「お前はどこの野球ファンだ?」「フットボール選手の誰が好きなんだ?」

 などと、まるで長年の友人のようにべらべらとしゃべりかけてくる。商品をじっくり選びたいときには本当に迷惑だ。

 それに食べ物に関しては腹立たしいことこの上ない。夜中に空腹に耐えかねて、一番近くのセブンイレブンに車を走らせたところ、カウンターに置かれた暖かい食べ物コーナーに、いつからそこにあったのかわからない、しなびた老人の陰茎のようなソーセージがホットプレート上でぐるぐると回転していて吐き気をもよおした。それでいて値段は三ドル。

「やっぱり日本がいい!」

 優作は、日本から持ってきたカップヌードルを啜りながら深く頷いた。

 アメリカでは味わえない懐かしい日本の味に、心が少し癒される。日本にはブラック企業が多くて、働く環境は最悪かもしれないが、何といっても食べ物が美味しい。コンビニですら、この味だ。

 とにかく飯がうまい!

 うまい飯で、溜まりまくった毒素と社会的ストレスまで浄化されるほどだ。

「あー、せめてロスに行きたいなぁ。ロスなら日系スーパーにコロッケが売ってる。でも、今、行ったってコロッケ一個に五ドルとか、あんな贅沢はもうできないからぁ」

 優作は天井を見上げた。

 カオリがいつも晩ご飯を作るのをめんどくさがって、商店街の八十円のコロッケを買っていた時、その度に怒っていたことを思い出した。

「こんな出来合いの、お菓子みたいなおかずを一家の大黒柱に与えるなよ!」

 などと、怒鳴った。

 今思えば酷いことを言った。

 今の自分なら、あのコロッケが一流ホテルの料理くらい貴重に思える。

 人は、失って初めて気づくのだ。

 まぁ、失わなくても気づく人もいるけれど。

 優作はアメリカという国の食べ物が、どうしてこんなにまずいのか、そしてこのマズさでどうして肥満になれるのかが理解できなかったが、その理由はアイスクリームにあるんじゃないかと思った。

 バケツサイズで売られているアメリカのアイスクリームはとても安い。

 若い頃からそういったものを食べているから、体が自動的に脂肪を溜め込む体質になっているんじゃないか。  優作はアイスクリームが好きじゃないのでそのことに感謝した。

 しかし、そのぶん白米がなによりも大好きだったから、アメリカのスーパーで売られているタイ米やカリフォルニア米で満足出来ず、日本の三倍の値段で売られている輸入白米を購入していた。

 体重は増えなかったが、そのぶん金が減った。

「もし、カオリが一緒にこっちへ来ていれば、自炊しなくてもよかったのに。なんで仕事から帰って来てクタクタなのにご飯も作って、さらに毎月の生活費をカオリのために日本へ送らなきゃならないんだ? 間違ってる! こんなもの、結婚と呼べるか、クソがぁ!」

 優作は米を研ぎながら涙を流していた。

 こんな事なら慰謝料払ってでも離婚しておけば良かった。

 幸い、子供もまだいなかったし、責任を取るのはカオリだけでいい。

 優作はそう思いながら、責任という言葉の意味を考えた。

 そもそも、責任ってなんだ?

 どうして日本では結婚相手に対して責任を負わなければいけないのだろう。

 だいたい、結婚イコール相手に対して責任を取るのがおかしい。

 アメリカでは離婚に特別な理由はいらない。

 愛がなくなったからとか、他に好きな人が出来たとか、そんな理由でも離婚ができる。言い出しっぺが慰謝料を払うこともない。払うのは、婚前契約した人かハリウッド俳優くらいだ。

 よくよく考えれば当然のことだ。

 なぜなら、人の気持ちは法では裁けない。一度結婚したからといって愛情もないのに一緒に居続けるのは拷問と同じ。

 どうして日本は離婚しにくい法律をわざわざ作っている?

 離婚者が増えると困るからか?

 増えたって別にいいじゃないか。仕事も結婚も、無理に続けることに意味などない。

 昔、アメリカ人の同僚が言った。

「日本は離婚率が低くてすごいね」

 優作は思った。

「愛し合っているから離婚しないのではない。離婚にかかるデメリットが大き過ぎるせいだ! アメリカは言い出しっぺが責任を取って慰謝料を払うシステムじゃないだろ? 貯金や資産だって互いに折半する。日本もそうなれば離婚率はぐんっと跳ね上がるさ!」

 そう返したかったが、説明できる英語力がなく、あははと苦笑いで流した優作だった。

「はぁ……もう、何もかも捨てて消えてしまいたい」

 優作は重い足取りで、明日のヤードセールに向けて家具を庭に運び出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「麻生優作はアメリカで名前を呼ばれたくない」 二十三 @ichijiku_kancho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ