8 そして怪物は涙を流した

「私、れんくんが好きです」


 中学の卒業式が終わった後の、体育館裏。

 勇気を振り絞った花咲はなさき 凛子りんこに、僕が返す言葉はもう決まっていた。


「僕は、人の心が読めるんだ」


 凛子はポカンと口を開けるけど。

 僕だって冗談で言ってるわけじゃないんだ。


――え、心を読めるって何?


「言葉の通りだよ。僕は他人の心が読める。だから、この事を隠したまま、凛子と恋人にはなれない」


 僕の言葉に、凛子は首を傾げる。


――え、うそ。でも……心当たりはある。もしかして、あれもこれも全部読まれてたの?


「そう、あれもこれも全部読んでた」


――くだらないのも、えっちなのも全部?


「くだらないのも、えっちなのも全部」


――うそ、やだ。あの、違う。待って。ちょっと考えさせて。え。無理。


「やっぱり無理だよね……ありがとう。凛子と一緒に過ごす時間は、本当に楽しかったよ。さようなら」


 それだけ言って、僕は踵を返した。

 人の心を読める。それを隠したまま、彼女と恋人になることも、きっとできたんだろうけど。どうやら僕は、そう賢く生きられる人間ではないらしい。


  ◆


 幼い頃から、僕は他人の心の声が聞こえた。

 当然、母親の微笑みの下にあるものも。


――何この子、気味が悪い。心でも読めるの?


 心を読むのは普通じゃない。そう理解した時には、両親は既に離婚を決めていて、僕は叔父夫婦に引き取られることになっていた。

 人間は誰しも身勝手だ。大人の汚さも、子どもの残酷さも、それぞれが抱く欲も嫉妬も、僕はずっと身近なものとして育ってきた。


 そんな僕の人生が変わり始めたのは、小学校に入学してからだ。


猫間ねこま蓮です。よろしく」


 隣の席の女の子に話しかけると、彼女は「よろしく」とだけ言って、考えごとを始める。


――猫間くんかぁ。そういえば、猫ってどうしてそっけないんだろう。なんかそういう猫ルールみたいなのがあるのかな。


 いや、猫にそういうルールはないと思うが。

 と、思わず口を挟みそうになる。


 花咲凛子はこれまで僕が会ったことのないタイプの女の子だった。いつもぼんやりしていて、思考が妙な方向に脱線する。日常生活での失敗ドジも多い。


――先生って、鼻毛を抜いて何するんだろう。分身でも作るのかなぁ。孫悟空みたいに。


「凛子、体育だから外に行かないと」

「へ? あ……体操服ないかも」

「また忘れたのか。はい、これ僕の予備」


 そんな風に、彼女の忘れ物をフォローしたり。


――豆ってどうやって作るんだろう。一粒一粒、職人が丹精込めて丸めてるのかな。


「凛子。歩く時は前を見ないと」

「あ、ごめん。またぶつかるとこだった」

「ほら、手を繋ぐから。足元にも気をつけて」


 時には、彼女の手を引いたり。


――すっぱいは成功のもと。レモンを食べれば大丈夫。算数のテストもいけるいける。


「凛子。一緒にテスト勉強しない?」

「え……私、蓮くんの迷惑になっちゃうよ」

「人に教えるのも良い勉強になるから」


 そうして勉強を見てあげたり。

 僕らはいつも一緒にいた。だって、彼女の不可思議な思考はいつも僕を愉快な気持ちにさせてくれるから。彼女を手助けしているようで、いつだって救われているのは僕の方だった。


 中学生になると、凛子はあれこれと思春期らしい妄想をするようにもなった。


――蓮くんの匂いを嗅ぎたい。でも頼んだらドン引きだろうな。


「凛子。なんか顔が赤いけど、どうした?」

「ひゃ、痛っ。頭ぶつけた……あの、あのね。私、蓮くんがいないと、生きていけない気がするんだ」

「生活力ないもんなぁ」


 鈍感なフリで誤魔化していた。

 僕だって凛子と一緒にいたい。だけど……人の心を読む怪物が側にいれば、いつかきっと彼女を傷つけてしまうから。それだけは嫌だ、と思ったんだ。


  ◆


 卒業式から三日が過ぎても、凛子からの連絡はなかった。きっとこのまま、彼女とは疎遠になってしまうのだろう。同じ高校には通うが、もう会話をすることもないかもしれない。


 そう考えながら、人気のない公園でベンチに座っていると。


「蓮くん」


 顔を上げれば、そこにいたのは凛子だった。

 夢や幻じゃないかと、つい疑ってしまう。


「ふふ。ここにいるかなと思って。そんなに落ち込んだ顔、初めて見たよ……蓮くんは、私がどんなドジをやらかしても、いつも穏やかに笑ってくれるから」


 彼女は静かに僕の隣へ座る。

 戸惑った僕が、身動きを取れないでいると。


「あのね。私なりにちゃんと考えたんだよ。人の心が読めるなんて……蓮くんはこれまで、どんなに辛かったんだろう。苦しかったんだろうって」


 そうして、彼女は僕の手をギュッと掴む。


――これまでずっと。私のどうしようもない心がダダ漏れでも、蓮くんは私を見捨てないでいてくれた。優しくしてくれた。それなら、私が悩むことなんて何もない。そう気づいたんだよ。


「いつもドジばっかりで、迷惑かけちゃうと思うけど……私を、蓮くんの恋人にしてください」


 凛子はそう言って、目の端に大粒の涙を浮かべると、そのまま僕の胸に飛び込んできた。

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