第42話 アレテ
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その日は、どの季節よりも世界が煌めいて見える夏の朝。
『ボンジュール』
一人の女性がロン・ドルミールへ来店した。それがアレテだった。
ピアニストだと言う彼女は、ラフィネに楽譜を渡して一言こう言った。
『私も永遠になりたいの』
渡された楽譜には「イストワール」と書かれていた。
奇怪な発言をする彼女を面白がって、依頼を引き受けることにした。
すると彼女は自分のピアノを店に置かせてほしいとラフィネに依頼した。作品を手掛けるにあたり、自分という人間を知ってほしいのだと言う。それには自分の傍にピアノがなくてはならない、と。
納得したラフィネは快く了承し、彼女の屋敷からピアノを運ぶのを手伝った。彼女の自宅は森の傍にあった。彼女は人が沢山いる場所を好まなかった。音楽との対話を楽しむために静かな場所に立つ古い屋敷に住んでいたのだ。
店からそう遠くはない彼女の屋敷から、重量のあるピアノを、手を触れずに軽々と魔法で持ち上げて、人の目がない森の中を危なげなく運んで行く。
『あなた魔法使いなのね』
『作品を作るのには使っていませんけどね』
『こだわりね。私にもそういうのあるわ』
彼女は掴みどころのない女性だった。口数が少なく、毎日店にピアノを弾きにやって来ては、何曲か演奏して自分の屋敷へ帰っていく。
ラフィネはそんなアレテに依頼人としてではなく、一人の人間として興味が湧いた。
『アレテ、ここに住みませんか』
毎日欠かさず通っていたアレテは、次の日小さな鞄一つを持って店へ訪れたので思わず問いかける。
『それだけですか』
『ペンと紙とピアノさえあれば、音楽はどこでも作れるから』
そう言えばピアノを運ぶために彼女の屋敷へお邪魔した際も、二台のピアノが置かれていた部屋以外は屋敷に生活感がなかったように思える。広い屋敷なのに、彼女はピアノのある部屋だけで主に生活をしていたのかもしれない。
彼女のために店の二階にある一部屋を与えたけれど、そこにいることはほとんどなかった。『行きましょうラフィネ』と言っては、ラフィネを外へ連れ出した。
星がよく見える日には魔法で屋根の上に乗せろとせがみ、雨の日の朝には傘もささずに店前の花畑を歩き回り葉の裏で晴れを待つ蝶を愛でていた。
アレテは見るもの、感じたもの、その全てに物語性があるとでもいうように、笑ったり泣いたり言葉ではなく表情で語ることの多い人だった。
そんな彼女に、自分はお金のような目に見えてはっきりしている物が好きだと話したことがあった。
『お金は概念上の物よ。実際にはただの紙や金属…貴方は概念が好きなの?』
何も言い返せず言葉を失っていると、悪気のない彼女は『私はね』と言葉を継いだ。
『私は永遠が好き。音楽はそれに準ずるものだわ。どんなに昔の人が作曲したものでも、その音楽を愛してくれる人が覚えていてくれたら後の時代へ引き継がれていく』
『それだって途切れない保証はないでしょう?』
悪意を持ってそう返しても、彼女は意に介した様子なく笑った。
『そうね。けど自然には音楽が溢れている。昔の人が作曲した音楽が後世へ伝えられなくなってしまっても、自然が奏でる音はなくならないわ。永遠なのよ』
それさえも永遠かどうかはわからないと心の中で反論していると、実は彼女もそう考えているようで、『そうよね、それも永遠とは限らない』とラフィネの心中を見透かしたように小さく笑った。
『だから死を夢見るのかしら。死は覆らない、死ぬことはすなわち永遠になるということ…そうは思わない?』
死に対しての捉え方は少し似ているところがあった。
葬儀屋に勤めている時に、父親以外の人間も当たり前のように死んでいくことを知った。病や不慮の事故、殺人や衰えによって死んでいく人間たち。不死である魔法使いの中で母親に育てられた彼からすると、それは大変新鮮なことだった。
死んでいる人間は裏切らない。骨の感触は確固としたもので、死という事実が覆ることは決してない。
現金と同じくらい、死は信用出来る。そうラフィネは思っている。
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