第86話 許せない嘘 ~エドワルド視点~

 人が犬の姿になるなど、あり得ない。それはおそらく、誰もが持つ共通認識だろう。

 いや、認識してすらいないはずだ。なぜならばそれが、ごくごく当然のことだから。


(そうだ。だから……)


 自らがエリザベスだったなどという言葉は、全て嘘でしかない。

 それを、理解しているはずなのに。


(どうして……)


 拒絶された、最後のあの瞬間。彼女が見せた偽りのはずの涙を、こんなにも思い出してしまうのか。

 どうして、忘れることができないのだろうか。


「エドワルド様」


 結局あのあと、オットリーニ伯爵にも見送りは結構だと伝言だけ残して、屋敷に帰ってきてしまったけれど。

 気を抜けば、ふと彼女の涙を思い出してしまう私の様子に、思うところがあったのだろう。


「何か、心に引っ掛かりを覚えていらっしゃいますね?」

「……そうだな」


 心を落ち着けようと、自室でディーノに紅茶を用意させたのだが。


「あの時、いったい何があったのですか?」


 私たちしかいない空間だからこそ、誰にも聞かれる心配もないと判断したのか。そう、直接的に尋ねてくる。

 とはいえ気になって仕方がないのは、誰であろうと同じなのだろう。あの場にいた伯爵家の使用人も、それは変わらないはずだ。

 何より逆の立場であれば、私だって気になる。

 それは、十分理解できるのだが。


「……全く根拠のない話だ」


 いくらディーノ相手とはいえ、あまり口にしたい話題でもない。

 普段であれば、私のこの言い回しから察して、これ以上話を続けようとはしないのだが。

 今回ばかりは、なぜか違った。


「そのように浮かない顔をなさっていては、屋敷の使用人たちも心配になります」


 ただでさえエリザベスがいなくなったことで、以前のような眠れない生活に逆戻りしてしまったというのに。

 これ以上心配させてはいけないと、ディーノはそう言いたいのだろう。


「……あまりにも、嘘が過ぎる。それでも、聞きたいか?」

「もちろんです」


 念のため確認はしてみたものの、やはり返答は変わらない。

 そもそもディーノがここまで引かない場合は、決して諦めないことも長い付き合いで知っているので。


「くだらない話だ。エリザベスの正体は自分だと、見え透いた嘘を口にしていた。それだけだ」


 思い出すことすら腹立たしくて、少々吐き捨てるように言葉にしてしまった自覚はあるが。こればっかりは許せないので、仕方がない。

 一気に不機嫌になってしまった私に気付いたのか、ディーノが少しだけ困ったような表情をしたのが、目の端に映った。

 とはいえ、知りたがったのはあちらなので。今さらそれを隠す気もないのだが。


「許せない嘘だった。だから、こちらも少々よろしくない言葉を口にしてしまった」


 ただ、冷静な部分で自らの言動を振り返ると。あれはあれで、最低なことを言っていた自覚はある。

 あれだけ美しい容姿をしていながら、実家が貧しいからという理由だけでパートナーの依頼を断られているというのだから。

 本人に全く非はないというのに、それを利用して情報を少しでも手に入れようとしていたと言われれば、誰だって傷つくだろう。

 いくら気が立っていたとはいえ、正直に伝えていいことではなかった。先に相手が、どんなに最低な嘘を口にしていたとしても。


「つまり、売り言葉に買い言葉、ということですね」

「……子供のケンカでもあるまいに、何をしているのだと思ったか?」

「それは、難しいところですね」


 苦笑する姿は、言葉通りの感想が正直なところ、ということだろう。

 嘘はよくないが、正直に言いすぎて相手を傷つけるのもよくない、と。

 どちらが悪いだとか、そういう次元ではないのだから。


「ただ、そのご様子だと……エドワルド様ご自身が、後悔していらっしゃいますね?」

「……多少は、な」


 立場を利用して知り得た内容を、私利私欲のために使ってしまったという負い目もある。

 何より、女性を泣かせてしまうという経験は初めてで。どうするべきなのか、正解が分からないということもあり。

 結局、複雑な心境をため息として吐き出すしかないのだった。





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