第34話 睡眠導入剤
衣食住を保証してもらっている立場なので、その恩を返したいという気持ちはある。それは、本当だけれど。
(私、これでも子爵令嬢なのに……)
今は犬の姿なので、確かに誰も知らない事実ではあるけれど。
貧乏とはいえ一応パドアン子爵家の娘なので、分類としては貴族令嬢で間違いないはず。
それが、なぜか。
(宰相閣下の抱き枕って……)
色々と、問題がある気がする。
むしろ私としては問題しかないのだが、エドワルド様をはじめフォルトゥナート公爵邸の方々にとっては、ただの犬だとしか認識されていないので。
(問題なんて、欠片もあるわけないよねぇ)
もはや諦めの境地で、ディーノさんの後ろをついていく私の足取りは、今までにないほど重い。
今ほど、本当はアウローラ・パドアンなのだと彼らに伝えたいと思ったことは、ないかもしれない。
そもそも、寝ている間に人間の姿に戻ってしまっていたら、その時はどうすればいいのか。
(今は戻りたくない、なんて思う日がくるなんて……!)
一日でも早く元の姿に戻りたいのが本音なのに、今だけはその瞬間が訪れて欲しくない。
(もしくはいっそ、この瞬間に戻れたらいいのに)
その後が恐ろしすぎて想像したくないので、思考を止めたいところではあるけれど。
それを許してくれない存在が、目の前にいるのだということを。私は嫌というほど思い知ることになる。
「いいか、エリザベス。お前はただ、エドワルド様の隣でおとなしく寝ているだけでいい」
「ふぅん」
私の名前はエリザベスじゃないし、そもそも承諾してないし。
という不満を込めて、普段とは全く違う鳴き方をしてみせたのだけれど。
「これが上手くいけば、数年越しの悲願が達成される」
「……」
こちらに目を向けることなく紡がれたその言葉に、思わず斜め後ろからその顔を見上げてしまう。
数年越しという言葉から察するに、エドワルド様の睡眠不足はかなり重症かつ深刻なものなのだと、理解できてしまったから。
(……まぁ、色々試してみるのは大事だよね)
完全に納得できたわけではないけれど、短い付き合いでしかない私ですら、その気持ちは何となく分かってしまうもので。
本人に眠る意思があっても、体が言うことを聞いてくれないのだから。こればっかりは、誰が何を言ったところでどうしようもない。
(それに、睡眠導入剤って前に言ってたし)
つまり、すでにそういったものを一通り試してみたことがあるということ。
きっと最初の頃に、医師に診てもらったうえで処方されたことがあるのだろう。
ただ、薬は飲み続けるのも体に悪いから。
(理由があって、今はやめてるんだろうな)
効果が出過ぎてしまった、とか。別の不調が出てきてしまった、とか。
いずれにせよ、服用できない理由があるから、薬は使用していないと考えるのが妥当なはず。
(……だからって犬に希望を託すのも、それはそれでどうかと思うけど)
それだけ全員が必死だということだと、そこに理解は示せるけれど。
ただできれば、もう少し違う方法がよかったなと思わないわけではない。
ただの犬に見えるだろうが、実際にはこれでも人間の、デビュタントを控えた令嬢なので。
そう、何回でも言うが。これでも、令嬢なのだ。
(おかしいなぁ)
どこで何をどう間違って、こうなってしまっているのか。
考えても出るはずのない問いを、一人繰り返している間に。
「失礼いたします」
通い慣れた部屋までの道のりは、終了していたらしい。
扉をノックして、声をかけたディーノさんが。
「エドワルド様、お待たせいたしました」
「あぁ」
部屋の扉を開いて一歩足を踏み入れてから、体を横にずらすと。
自室のソファーに座っているエドワルド様の手には、なぜか書類が握られていた。
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