第10話 睡眠不足

 普通に考えれば、あるじが無理や無茶をしようとしている時には、誰かが止めに来るはず。

 にもかかわらず、私が眠ってから目覚めるまでの間に、エドワルド様がこの部屋を出ていくことはなかった。

 もしかしたら私が熟睡しすぎていて、気がつかなかったのかもしれないとも思ったけれど。服装が眠る前と全く同じであることを考えれば、本当に一睡もしていない可能性のほうが高い。


(それだけ、お仕事が忙しいのかな?)


 急ぎで終わらせなければいけないとか、何か理由があるのかもしれない。

 とはいえ、それにしたって一睡もしていないのは大問題だと思う。

 時間を忘れて没頭ぼっとうしてしまっている可能性も考えて、ソファーから降りてそっと寄り添ってみる。


「くぅん」


 鼻先で腕をつつきながら、小さく鳴いて見せれば。


「どうした? 朝食なら、もうそろそろのはずだ」


 ようやく手を止めて、こちらを見てくれるけれど。求めていた反応とは、ちょっと違う。

 確かにお腹は空いてるけれど。


(というか、昨日は気がつかなかったけど……)


 よくよく見てみれば、エドワルド様の目の下にうっすらとクマができている。

 これがはたして今日できたものなのか、それともここ数日連続で徹夜してできたものなのかは、分からないけれど。

 少なくとも、睡眠をとらないことが体に悪影響を及ぼしているのは確かで。


「くぅん、くぅん」

「どうした?」


 どうにかして、せめて横になってもらえないかと考えて、一生懸命鼻先で腕を持ち上げようとしてみたり、前足でちょいちょいしてみたりするけれど。

 当然ながら、犬の力では完全に持ち上げることは不可能だった。


「わふぅん……」

「……悪いが、お前が何を要求しているのか、私には全く分からない」


 それはそうだろう。ちゃんと寝てほしい、なんて。伝わるわけがない。

 分かってはいたけれど、人間だったら言葉を使えばすぐに意思の疎通ができるのに、犬だとこんなにも簡単なことさえ伝わらない。そのことが悔しくて、悲しくて。


「本当にどうした? 飼い主がいなくて寂しいのか?」


 全然違うけれど、仕事の手を止めてくれたエドワルド様は。わざわざ犬と目線を合わせるために、床に膝をついて。

 優しく、ゆっくりと。私の頭を撫でてくれた。


(うぅ……。優しさが逆にみる)


 私のほうが心配していたはずなのに、なぜかエドワルド様に心配されているという逆の状況。

 しかも寂しいというよりは、急に私がいなくなったことでオットリーニ伯爵家が今どうなっているのかとか、迷惑をかけているんじゃないかとか。そういう心配の気持ちのほうが大きい。


(今はまだ、どうすることもできないし)


 とにかく人間の姿に戻らないと、何もできないままなのは確実だから。

 まだしばらくはエドワルド様のところにお世話になって、色々と情報収集をしていきたいところ。

 そんなことを考えていると、外から扉をノックする音が聞こえてきて。


「エドワルド様」

「入れ」


 扉の向こうから姿を現したのは、昨日ずっとエドワルド様の側にいたディーノと呼ばれていた使用人。


「失礼いたします。朝食のご用意が整いました。本日はどちらでお召し上がりになられますか?」

「食堂でもらおう。迷子も一緒にいることだしな」

「承知いたしました」


 迷子という言葉を発したところで、こっちを見たエドワルド様の様子から察するに。どうやら私は、完全に迷い犬ということで決定らしい。

 飼い主が現れることなどあり得ないのだと知っているのは、この場では残念ながら私しかいないので、それも致し方ないことかもしれないけれど。


(なんだかなぁ……)


 別に大冒険をしたかったわけではなく、ただ少しだけ気晴らしをしてただけなのに。

 それがまさか、こんなことになるなんて。さすがに誰も想像できないと思う。


「ところで、エドワルド様」

「何だ?」

「睡眠のほうは……」

「いや。眠くならなかった」

「さようでございますか」


 けれど、そんなことよりも。

 食堂へと向かう道すがら、エドワルド様の後ろを歩いていた私は。二人の会話に、衝撃を受けて。


「これで、もう丸三日だな」

「以前のアレは、睡眠ではなく気絶ですが」

「今回はそうでないことを願いたいものだな」

「心から同意いたします」


 どうやらエドワルド様の睡眠不足は、常態化じょうたいかしているらしい。しかも、使用人が諦めるほど。


(だから誰も、執務室に来なかったのか)


 理解してしまうのと同時に、先ほど以上に心配になってしまって。思わず見上げた先で、エドワルド様がどんな表情をしているのかは分からなかったけれど。

 視線の先で、少しだけ長いブリュネットの襟足が。その歩みに合わせて、ふわりふわりと揺れていた。





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