「紅蓮の女官」
灯月冬弥
第1話 静寂の後宮、密やかなる刃
後宮に吹き込む冷たい風は、すべてを飲み込み、凍りつかせてしまうようだった。今日もまた、どこかで誰かが消えていく。噂は常に冷たく、恐ろしいほどに早く広がる。だが、それに惑わされることなく、冷静さを保つのが女官たちの日々の務めであった。
玲蘭(れいらん)は、後宮の一隅で黙々と手を動かしながら、心の内で今日もまた注意深く息を潜めていた。
**「目立たず、騒がず、生き延びる」**
それが彼女の鉄則だった。
表向きは無口で控えめな女官に過ぎない玲蘭だが、その内には誰にも明かせない秘密があった。幼い頃から鍛え上げられた武芸の才。それは、本来ならば後宮のような華やかさとは無縁の場所でこそ輝くものであったが、彼女はそれを巧みに隠し、静かに生きることを選んだ。
玲蘭がこの後宮に来たのは、ある目的があったからだった。だが、それを果たすためには、まずは生き残らなければならない。特に、この後宮の中で。
「玲蘭、少し手を貸してくれ」
声をかけたのは、彼女と同じ女官の **秋蘭(しゅうらん)** だった。後宮内で数少ない信頼できる存在で、彼女もまた、玲蘭と同じく目立たぬよう生きる術を心得ている。
「何か?」
「これを皇后さまの部屋へ運ぶのを手伝ってほしいの。急ぎではないけど、丁寧にね」
玲蘭は黙って頷き、秋蘭に従いながら手際よく品を持ち上げた。彼女たちの暮らしは、こうして無事に一日を終えることが目標だった。後宮の中では、どんな些細な失敗も命取りになる。それが暗黙の了解であり、誰もが知っていた事実である。
しかし、その日は静寂が破られる日となった。
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玲蘭が秋蘭とともに廊下を歩いていた時、突如として重い足音が響いた。後宮には珍しい、兵士たちの足音だった。
「これは……?」
秋蘭が戸惑ったように立ち止まる。玲蘭も同様に足を止め、遠くから聞こえるその音に耳を澄ませた。その音は、次第に近づいてくる。
そして、角を曲がったその瞬間――。
「伏せて!」
玲蘭はとっさに秋蘭を押し倒し、自らも床に身を沈めた。次の瞬間、数本の矢が彼女たちの頭上をかすめ、壁に突き刺さる音が響いた。
「何が……?」
秋蘭が驚きに目を見開くが、玲蘭は素早く状況を把握しようと辺りを見回した。これはただ事ではない。後宮内で武器を使うなど、よほどの事情がない限り許されることではない。
遠くから、兵士たちの怒声と武器の音が聞こえてくる。それは、まさに「後宮が何かに襲われている」という緊迫した状況を物語っていた。
「秋蘭、ここを離れるわよ」
玲蘭は冷静に指示を出し、秋蘭の手を引いて安全な場所へと逃げようとした。だが、その時だった。遠くから聞こえてきた剣戟の音に混じり、どこからか足音が近づいてくるのがわかった。
「誰か来る……」
玲蘭は秋蘭を背後に隠し、自らが前に立った。目立つことは避けたいが、この状況では、隠れてばかりもいられない。
姿を現したのは、一人の男だった。
「お前……」
男の鋭い目が玲蘭を見据えた瞬間、彼女はその視線に違和感を覚えた。まるで彼女の存在に気づいていたかのような、確信めいた視線だったからだ。
「貴様、何者だ!」
男は剣を抜き、玲蘭に向かって突進してきた。秋蘭が驚きの声を上げたが、その声は耳に入らなかった。玲蘭は無意識のうちに、体が動いていた。
彼女は静かに息を吸い、足を開いて低い姿勢を取った。そのまま、男が迫り来るのを見定めて――。
刃が交錯した瞬間、玲蘭は鋭く男の剣を弾いた。男がバランスを崩すのを見逃さず、玲蘭はその隙をついて相手の首元に手をかけ、地面に押し倒した。
「何……だ……?」
男が呆然とした表情を浮かべたが、そのまま意識を失った。
玲蘭はゆっくりと息を吐き、辺りを見回した。どうやら、他の敵はいないようだ。
「玲蘭……あなた、今の……」
秋蘭が震えた声で言葉を紡いだ。玲蘭は静かに目を伏せ、何も言わずにその場を後にした。
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その夜、玲蘭は自室で静かに瞑想していた。後宮での出来事が頭を巡り、彼女の心をざわつかせる。だが、何よりも彼女を動揺させたのは――あの男の言葉だった。
**「貴様、何者だ?」**
まるで、彼女がただの女官ではないことを知っていたかのような口調。玲蘭はこれまで、誰にも自らの過去を知られないように慎重に振る舞ってきた。だが、あの男は何かを知っていたのかもしれない。
玲蘭は静かに瞳を閉じた。
「ここで目立ってはいけない……」
だが、運命は彼女を放ってはおかないようだ。玲蘭の頭には、あの時出会ったもう一人の人物の姿が浮かんでいた。
**皇帝・涼王(りょうおう)**――。彼との出会いは、まだ始まったばかりだ。
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