巨人と赤と黒と零
──話は、日本に帰国する前までに遡る。
「OBIさんたちは日本に帰国せずそのままイギリスですか」
「まあな。サウジの大会も近いし、休んでる暇なんてないな」
「大変だ。プロ野球の移動より過酷だぁ」
「いやそれには負ける」
Revolution終了後、大会を通して仲良くなったプロゲーマーたちやストリーマーたちと楽しく談笑する。
プロツアーがあるプロゲーマーたちは年の締めくくりにあるワールドツアーチャンピオンシップに出場するためのポイント獲得のために、Revoが終わった後はそのままイギリスの大会に出場する。
他にも時間に余裕ができたら配信でコラボをしてみないかという誘いや、玲や咲にプロチームに来ないかという勧誘、
「玲、まだ日本に帰国しないだろ」
「ええ。観光がてら色々回ろうかと」
「だったら一度は行っとけ」
──ラスベガス名物、カジノに。
そう言われて、玲はこの街に漂うものを嗅ぎ取った。
人の様々な感情によって熱せられた、焦げ付くような香しい匂い。
Revoもそうだが、このラスベガスという街は娯楽と歓楽、そして勝負に彩られている。
……自然と、口角は上がっていた。
「1万ドルまで。そこから1セントも許さないわ」
「わかってるよ。別に賭けが目的じゃないからな」
夜。あるホテル内にあるカジノに、正装を纏って東郷夫妻は現れる。
折角ラスベガスに来たのだから、遊ぶ遊ばないはともかくとしてカジノを目にしておきたいというのが玲の気持ちだった。
玲自身、賭け事そのものに興味はない。興が乗らないなら見るだけで帰るつもりだ。ただ、そこにいる人間の熱を感じ取ってみたかった。
「……へぇ」
熱い。室温は冷房が良く効いて寒いくらいなのに、鼻孔をくすぐる熱いものを玲は感じられる。人の欲の熱がわかるくらいに、伝わってくる。
金を投じ、結果に一喜一憂する人の姿。身を削って賭けたものを大きくするべく熱を込める姿。
良い、と思う。豪奢な内装や丁寧なサービスは上っ面なだけだ。一枚皮を剥がせば醜い欲得で造られた世界というのが玲の好みであった。
スロット、ポーカー、ブラックジャック、バカラ、クラップスなどなど──一通りり見て回るだけでも満足がいった。
これで帰っても良かったし賭けに参加する気はなかったがそれではただの冷やかしだと思い、玲はかろうじてルールがわかるルーレットに参加した。
『黒に』
席に座り手持ちの全額……1万ドル分のチップを黒へと賭ける。
赤か黒かの二分の一。当たれば天国、外せば地獄。この両極端が玲は好きだ。
ボールが投じられ、ルーレットに転がっていく。
その内に力なくなっていき、ポケットに落ちる。
落ちたポケットは──黒の31。
『おめでとうございます』
賭けたチップが倍になって返ってくると、すかさずそのまま全額チップをテーブルに置く。
『赤に』
──再び、的中。
これで所持金が四倍まで増えた。
「さて」
再び赤か黒か、とどちらにチップを置こうとした瞬間に手が止まる。
進んだら、死ぬ。そんな感覚。現役をしていた時に幾度か感じた、このまま踏み込んだら打たれると確信した直観。この直観を玲は大いに信用していた。
赤か黒か、では死ぬ。そう確信した。
『失礼』
『なんでしょうか?』
『詳しくないんだが、そこの0や00は賭けてもいいんだろうか?』
『もちろん』
『では』
玲は全てのチップを、0に賭けた。
当たれば配当35倍の一点賭けに、ボールを投じるディーラーも緊張が走る。
『
回るボールは次第に力を無くしていき……赤でも黒でもない、0のポケットに落ちた。
4万ドルが一気に144万ドルに。自分のテーブルの前に積み上げられたチップの山を見て、玲はほくそ笑んだ。
『お、おめでとうございます……』
「なるほど」
増えていくチップを見ていくのは、確かに楽しい。人生を壊してまでのめり込んでしまう人間がいるのも納得する。
そしてこの三回の賭けで、自分はもう負けないと玲は確信した。
根拠はない。ほぼ運が左右されるルーレットで、必ず勝つということなど世迷言でしかない。
……だが、できると信じたものは必ずできた。その確信を信じて、今まで生きてきた。
──故に玲は迷わない。
『黒の2』
勝てる勝負は、しゃぶり尽くす。それが勝負の世界の鉄則だ。
『お客様』
『何?』
『そろそろ……お疲れの……』
『全然疲れてねえよ』
『しかし……』
『これでもプロで全試合全先発全完投した身でね。体力に関しちゃお墨付きだよ』
カジノのボーイが玲にそろそろ止めておけと暗に言うが、玲本人はまるで止める気はなかった。
まだ玲は五回しか賭けていない。それでは疲れようがないし、玲のスタミナが無尽蔵であるのは
しかし、内容が異常。三回目以降は全て一点賭け。しかも全額。一度勝つ毎に36倍になるのだ。
三回目勝利時点で144万ドル。四回目勝利で5184万ドル。そして現在、五回目で18億6624万ドル──。
1ドルを140円で換算すれば、日本円にして2612億7360万円という途方もない数字となる。
大量のチップを置く場所すら難儀し、玲の横にワゴン車が置かれて山のように積まれている。全額賭けのスタンスは崩さず、手間を省くためにチップの代わりに玲の着ているスーツのボタンをレイアウトに置いている。
ディーラーは顔を真っ青にし、冷や汗を全身に流し、手も震えている。
『ディーラーを交代させてやったらどうだ?冷房が効きすぎてるらしい』
『は、はい……』
『次、行こうぜ』
ディーラーの交代を待ち、次のゲームを待つ。
玲にカジノを破産させようなんて考えはない。ただ、やれるならやれるだけとことんやりたい。それだけが思考を占めていた。
ルーレット台の周りにはカジノに訪れた者たちの多くのギャラリーが観戦していた。全額一点賭けに勝利し続ける怪物、その末路を見届けるために。
『失礼、ミスター』
玲の隣の席に初老の男が座る。
だが玲は声を掛けられても一顧だにしない。
『私は当ホテルオーナーの──』
『アレックス・E・トルーマン、だろう。MLBアメリカンリーグ、ラスベガスストレンジャーズの球団オーナーでもある』
『……よくご存じで。日本の英雄よ』
玲がこの初老の紳士──アレックスの名前を知っているように、アレックスもまた玲の顔と名前を知っていた。
NPB史上最強の選手。それを獲得したチームこそが、次のワールドチャンピオンだとメジャーでも話題の人物であった。そしてニューヨークソルジャーズに対しての三振劇がその説をさらに強固にしたと言っていい。
そんな男が自分のホテルに泊まり、カジノに現れ、たった数回の勝負で十何億ドルという大金をせしめようとしていると聞いたアレックスの心境は、まるで生きた心地がしなかった。
『如何でしょう?そろそろ──』
『欲張れよ、オーナー』
『はい?』
『こんだけの損失を食らって、みすみす帰す気でいんのか?そうじゃねえだろ』
『……というと』
『サシ馬を握れよ。一ヶ所だけ賭けて、オーナーが当てたらこの現時点まで勝った分置いて帰るわ』
『……ほう』
『外したらそうだな……一試合だけ、出させて貰おうか。ストレンジャーズの投手としてな』
『出たいのかね』
『体験してみたくはあるのさ』
『乗ろう』
ここで初めて、玲はオーナーと顔を合わせた。
対戦相手として認め、勝負したいと。戦うのならば、顔を見てやりたいと。
代わりのディーラーが到着し、賭けは成立。
『では』
『やろうか』
ボールが投じられると同時に、アレックスが賭けた場所は──赤と黒の境界線だった。
『アハハ!!君は言ったな!!当てたらと!!ならばこれも当たりには違いないだろう!!』
通常、ルーレットの最小配当は一倍。赤か黒かのどちらかを選ぶ。それで勝ってやっと賭けた分が倍になって戻ってくるのだ。
だからこれは普通、意味がない。配当はなし。賭けた金がそのまま返ってくるだけなのだから、賭ける意味もない。
だが玲はこう言った『当てたら』と。当てればいいのだから、故に配当に意味はない。
ルーレットのポケット、38ヶ所の内36ヶ所を一ヶ所でカバー。実に、94パーセント以上の確率でアレックスの勝利となる──!
「……あーあ、愚策を突っ切っていきやがった」
…………だが玲は、それを冷めきった目で見ていた。
玲は知りたかった。アレックス・E・トルーマンという成功者が秘めている熱というものを。
本当は、勝とうが負けようがどうでも良かった。心意気さえ見せてくれれば、勝った分は置いていくつもりだった。博打を打つ者としての、浪漫が見たかったのだ。
……だが、ダメだ。これはダメだ。これを許容できるほど、東郷玲は大人ではない。
「潰す」
……そう言って玲は、チップ代わりに使っていたボタンを手に取り……00に一点賭けした。
『……なんだねそれは』
『気にする必要はねえよ』
『だから、なんだそれは!!』
『これまで稼いだチップを一点賭けした。サシ馬とは別でな』
『そんなことをすれば……!』
『外したらまあ、稼いだチップがほぼそのまま借金になるな』
だから?と玲は冷ややか。
玲とアレックスのサシ馬とは別に。カジノのルーレットとして、手持ちのチップを全額賭けたことになる。
つまりもし玲が外せば、稼いだ分がそのまま借金になる。つまり、18億6624万ドルから最初に賭けた分の1万ドルを引いた18億6623万ドルの借金を背負うことになる。
玲が賭けに参加する必要はない。アレックスとのサシ馬に集中するべきというのがまともな思考だ。
だが玲は許さない。ここで日和った選択をしたアレックスを叩きのめしたい。
『…………ノーモア、ベット』
そして、ルビコン川は既に超えた。
『リスクを負えよ。俺は負ったぞ』
『ば、馬鹿げてる……!』
『博打だぞ。馬鹿しかやらねえよ』
ボールは回り、跳ね、そして力をなくし、落ちていく……。
落ちたポケット……それは──。
「OH──MY──GOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOD────!!!」
──落ちた先は、00だった。
「負ける理由がねえわな」
勝てると確信し、勝つと決めたのなら、東郷玲に負けはない。
これにより18億6624万ドルの36倍──671億8464万ドルの支払いをカジノ側に求めることが可能になる。日本円にして9兆4058億4960万円となる。
当然外したアレックスは玲が勝った勝ち分を回収できず、逆にカジノ運営をしているホテルが莫大すぎる借金を背負い破滅することが確定した。
『じゃあな、アレックス。今度はちゃんと遊ぼうぜ』
稼いだチップを運ばせて、ルーレットの席から立つ。
ふと目に入ったチップ代わりに使っていたスーツのボタン。それを拾い上げてわざとらしくギャラリー達に見せびらかし、適当なところへ放り投げた。
ギャラリーたちは我先とボタンを手に入れようと走っていき……その隙に、玲はカジノを後にした。
『その……ミスター東郷。即金では流石に用意できる金額ではないので……』
『わかってる、手形を貰うよ』
『申し訳ございません。それと……』
『はいはい、二度と来ねえよ。いや、来れねえの間違いかな』
『……日本では、こう言うんでしたか?』
『うん?』
「オトトイキヤガレ」
「HAHAHA! Nice joke!」
良い教育を受けていると感心した玲は上機嫌のまま、カジノの外で待っていた咲と合流した。
「楽しかった?」
「うん。ああ、だけど……」
「何?」
「もういいかな、しばらく」
「そうしなさい」
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