第56話 接近
先生に話したことで、少し気持ちの整理はついた。
それでもやはり、身体が勝手に蒼龍に触れられることを拒否してしまう。
こんなんじゃ、いずれ蒼龍も自分に愛想を尽かしてしまうかも知れない……
小蘭の不安をよそに、蒼龍は相変わらずだった。折に触れて小蘭のもとを訪い、話をしては帰ってゆく。
近ごろ、訪れの頻度は減りつつあるが、それも小蘭の態度のためではない。
というのも先月ふらっと小蘭の元に現れた蒼龍が
「 まーた
などとぼやいていたからだ。
それから時を置かずして、後宮内に戦の噂が広まった。
世間から隔絶されている後宮は、基本的に外界の動きとは無縁。しかし、必ず、外と繋がりのある者の口から、暇を持て余している連中に、情報はすぐに伝播する。
近々ある、南の境での大戦。蒼龍も、そのせいで忙しくしていることは簡単に予測できた。
ただあの一件以来、蒼龍は決して自ら小蘭に触れようとはしない。
まるで、見えないバリアがあるみたい。このままでは、いずれ彼から離れていってしまうのは必然だ。
何とかしたい。
自分を買ってくれた皇后様のため。
黎貴妃様を失った蒼龍の心を癒すために。
何より、自分自身のために。
先生のように、自分の力ではどうしようもない悲劇に見舞われたのでもない、自分を変えさえすればいいだけのことなのに。
そんなある日。
相変わらずモヤモヤしていた小蘭は、全く無意味に、何往復も長い回廊を東西の端から端まで歩いていた。
慣れない頭を使いすぎて、煮えてしまったのだ。
だから、三往復目に西から東に歩いているとき、向こうから凛麗とその侍女達の一団がやって来ていることにも気が付かないでいた。
「…さい」
「……さいっ!」
「この無礼者が、お控えなさいっっ」
「え……うわやばっ!」
思わず声の出た口を慌てて覆い、小蘭は回廊の庭側に避けて、
目線だけを上げてみると、いかにも筆頭といった年配の侍女が、厳しい顔で見下ろしている。
「皇太子妃様の御前で、汚い言葉はやめなさい。ご挨拶は?」
刺々しい言い方は、さすがは凛麗の侍女だ。心の内で舌を出しながら定型句を吐く。
「申し訳ございませーん、凛麗さまには、ご機嫌麗しく」
「まあ、何という言い草、そなた少し」
「よい、
「しかし凛麗様」
十ほどもの侍女に囲まれた凛麗が、先触れの女官を一喝した。
「よいと申している。耳が聞こえぬのか?」
「も、申し訳ございません」
羽根扇で口元を隠した凜麗が一瞥すると、叱られた侍女は顔をゆがめて俯いた。
意外だった。あの凛麗が、少しでも自分を庇うようなことを言うなんて。
明日は、槍でも降ってくるんじゃないかしら。
ひたすら平伏し、行列が過ぎるのを待ち続ける小蘭。その横を、凛麗の足が過ぎ去ったと思った時だ。
「小蘭」
すぐには、自身が呼ばれた事に気が付かなかった。暫くの間を置いて、
「ふえ?」
腑抜けた声を返すと、通り過ぎたはずの行列が、少し先で止まっている。
ぼーっと見ていると、さっきの侍女にまた睨まれた。
ふいに、凛麗がか細い声で告げた。
「そなたと、少し話をしたい」
「え、何て?」
「無礼な!凛麗様になんという口のきき方を……って、え?
今何と仰せで」
聞き返した小蘭に怒った侍女だが、その小蘭と全く同じことを聞いている。
肩を振るわせた凛麗が、今度は大きな声で叫んだ。
「だから、小蘭に話があると言っておる。同じことを何度も言わせるな!」
「え、は、はいっ、申し訳ございません。
ですが、この者に関わると、太子様にまたお叱りを」
「お黙りっ。私は別に、小蘭に何をするつもりもない。お前たちもだ、聞こえたのなら早う外さぬか」
「は、はいっ、申し訳ございませんっ」
叱責を受けた侍女達が、慌てて廊下を走り去ってゆく。
でも、彼女らよりもっと慌てたのは、そのヒステリックなやり取りの終始を見ていた小蘭だ。
え、え、えーーー!
あっという間に、凛麗と二人にされてしまった。
どうしよう。これは非常にまずい状況だ。
こんな時に限って婆やはいないし。
この時刻、彼女はいつも厨房で他の女官達と噂話に興じている。
彼女は国最強の女戦士だが、皇帝の兵に追われていた時といい、闘技場の時といい火事の時といい、ピンチの時には必ず居ない。
もー、頼りにならないんだから!
小蘭は、さっと辺りを見渡した。
廊下はよし、植え込みにも誰か潜んでる気配もない。でも、軒下と瓦屋根の上にはいるかも知れない。
いっそ先手必勝で、即座に顔面に膝蹴りを食らわして、その勢いで中庭に猛ダッシュって手もあるか。
これまでの数々の仕打ちや、噂に聞く彼女の悪行を思い浮かべ、いざという時の手立てを考える。
そんな小蘭に、凜麗は苦い笑いを浮かべた。
「そんな怯えた顔をしないで。いくら私でも、出会い頭に毒を盛ったり出来ないわ」
「ど」
毒か、それは盲点だった。
それでは得意の物理攻撃も意味をなさない。
青ざめた顔の小蘭に、凛麗は、寂しさとも困惑ともつかない表情で笑んだ。
「安心なさい。本当に私は、貴女と話をしたいだけ。同じ男性を愛する者同士として」
「え」
愛する者同士、ですって?
意外だった。あの凛麗から、そんな言葉が出るなんて。
本当に、同じ“妻”っていう立場で、自分に歩み寄ろうとしているのか。
いや、油断は禁物だ。「ご安心」なんてどだい無理。そもそも、毒を盛る、なんていう発想自体が不穏なのだから。
これはいよいよ、新たな揉め事の予感がする____
「少し、歩きましょうか」
「は、はい」
それでも小蘭は、促されるまま凛麗の後に従った。どうあっても、小蘭側から申し出を断ることはできない。宮廷内において、正妃と家格の低い側妃では、大きく身分が違うから。
小蘭は、最大限に警戒しながら歩を進めた。
今のところ、人目の多い庭園の小路を歩いているものの……
だんだん
婆や、碧衣、尚真、先生。
誰でもいいから、通りかかってくれないかしら。
蒼龍────
凛麗は、庭園の中央部にある人工の池の、大柳の樹のほとりではたと歩みをとめた。池の真ん中あたりを回遊していた錦の鯉が、ゆったりと足元に寄ってくる。
「悪かったわね、遠くまで歩かせて。侍女たちには...どうしても聞かれたくなかったの」
「あ、いいえ!」
悪かった?私に?
意外過ぎて、思わず裏返った小蘭の返事には構わず、凛麗は話をつづけた。
「その……。私が聞きたかったのは、蒼様、蒼太子様のこと。あの方、近ごろは貴女の
これは、なんて答えるのが正解なんだろう。
小蘭が凛麗の
ならば。
考えた後、小蘭は正直に答えることにした。
「えっと、昨日の夜は、久しぶりに来られましたけど」
暫し、沈黙が流れた。
優しくそよぐ秋の風に、柔らかに柳の枝が揺れている。その枝が、淡い花模様の小蘭の裳裾を優しく撫でている。
穏やかな陽だまり。だが、そんなのんびりした景色とは裏腹に、凛麗の心は千々に乱れていた。
「何故なのかしら」
「?」
ポツリと呟いた言葉は、小蘭の耳には少し遠かった。凛麗は、声のボリュームをかなり上げた。
「だから、あの方にとっての私と貴女、一体何が違うのかしら?」
今度は、小蘭の耳にもしっかり届いが、小蘭の中にその問に対する解はない。
黙りこむ小蘭に、凛麗は悔しそうに唇を噛んだ。柳の幹によく磨かれた爪を立てる。
「私は、あれほどの屈辱にだって耐えているというのに!」
屈辱?
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