後宮恋歌 ー皇帝になる男と、名を持たぬ妃ー

佳乃こはる

第1話 百人目の妃

 その腰の折れ曲がった宦官は、唐突に部屋の戸口に現れた。

 巻いた竹簡を広げると、朗々と読み上げる。


「――以上、勅である」

「今宵、ですか」

「……」


 問いかけても、返事はない。

 彼は小蘭の問いなど聞こえないかのようにさっさと竹簡を巻き上げると、恭しく一礼し、ヒョコヒョコと来た方向へ去っていった。

 戸口に残ったのは、重たい沈黙だけだった。


「ま、まあ大変!」

 奥で聞いていた婆やが、途端に右往左往し始めた。


「まさか、こんなに早くうちの小蘭様にお声がかかるなんて」


 衣装箱をひっくり返し、鏡台を引き寄せて、慌ただしく立ち働くその背中を眺めながら、小蘭はそっと肩を落とした。


 ――ああ、とうとう来てしまった。

 それだけはないと、どこかで思っていたのに。


 いや、思いたかった、が正しいのかもしれない。


 小蘭が夏国の後宮に入ったのは、半年前のことだった。


 北方の小国・胡国。

 その末の姫として生まれた彼女は、忠誠の証として宗主国に差し出された。


 側妃、という名目で。

 聞こえはいいが、実態は人質だ。


 裏切れば、この身で償えと――それだけの役割だ。


 けれど、小蘭は泣かなかった。

 自分だって、弱小国の王家に生まれた姫だ。生まれた時からその覚悟は聞かされている。


 事実、後宮にはそんな境遇の娘たちが溢れていた。


 美しく着飾って詩歌を学び、美しい宮廷音楽に耳を傾け、穏やかな庭園でだらだらと日々を過ごす。

 皇帝の寵を競うのでなければ、思うほど居心地が悪くなく、まさに桃源郷といった風情。


 皆で助け合わなければ生きていけない遊牧の国で育った小蘭は、環境に順応する術を知っていた。

 小柄で幼く見える容姿も手伝って、年上の妃たちからは妹分のように可愛がられている。

 だからこそ――油断していた。


 現皇帝は齢七十近くのお爺ちゃんだと聞いている。


 まさか、百人を超える妃の全てに手を伸ばせるはずもない。


 一度も夜伽に呼ばれぬまま年を取る妃だって珍しくないのだと、誰かが笑って言っていた。


 その言葉を、信じてしまった。


「あーあ……ついてないな」


 小蘭の小さな呟いた声は、婆やの慌ただしい物音にかき消された。


 今夜、とうとう皇帝の寝所へ向かう。

 百人目の妃としての“役目”を果たすために。


 ――逃げ場はない。

 それでも、心のどこかで、小蘭は思っていた。


 どうせ人質なら、使い捨ての妃なら、せめて、自分の価値くらいは、自分で決めてやりたい。


 鏡に映る幼い顔を、じっと見つめ返す。

 泣くつもりはなかった。


 今夜だけは。


 ウキウキと動き回る婆やの横で、小蘭は密かにため息をついた。


 

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