後宮恋歌

佳乃こはる

第1話 序章

《第一章》


 その腰の折れ曲がった宦官は、唐突に部屋の戸口に現れた。巻いた竹簡を広げると、朗々と読み上げる。


「____以上、勅である」

「今宵、ですか」

「…………」


 返事はない。

 彼は、小蘭の問いなど聞こえないかのようにさっさと竹簡を巻き上げると、恭しく一礼し、ヒョコヒョコと来た方向へ去ってしまった。


「ま、まあ大変!」

 奥で聞いていた婆やが、途端に右往左往し始める。


「まさか、こんなに早くうちの小蘭様にお声がかかるなんて」

 そわそわと衣装やお化粧を準備し始めた婆やとは真逆に、小蘭はガックリと肩を落とした。


 ああそうか、いよいよ今夜。

 それだけは絶対に無いと思っていたのに__


 小蘭が夏国現皇帝の百人目の側妃として後宮入りしたのは、つい半年ほど前のこと。


 故郷の胡国は、大陸の中心であるこの夏国からははるか北にある小国だ。

 山あいの、遊牧と騎馬の生産で成り立つ、邑の集合体のような国で、大国が欲する価値はほぼない。


 にもかかわらず、宗主国である夏国は、“忠誠の証し”と父王のたった一人の末娘である小蘭を所望した。

 今の夏国皇帝は、近隣の国を次々と服従させ、領地を拡大している大陸の覇者だ。

 貧しいながらも平和な国を戦地にするわけにはいかないと、父王は泣く泣く小蘭を手放した。


 そんなわけで小蘭は、御輿に乗せられ十日間をかけてやってきて、婆やと二人、後宮に取り残されたのだが。

 その立場は、側妃とはいえただの人質。『裏切るな』という、国同士の保険みたいなものだった。


 だが、そんな境遇だからといって、小蘭はさめざめと泣くようなタイプではない。

 このご時勢、弱小国の王家に生まれた姫なんて大抵そんなものだし、後宮にいる妃達も、一部を除けば似た境遇の姫ばかり。


 事実、後宮の生活は、慣れてみれば楽しいもので、同年代の女達が集められ、音楽や詩を学びながら、まったりと過ごしている。

 小蘭も年の近い連中とはそれなりに仲良く、年上の姉さま方にも可愛がって貰っている。


 加えて、長閑で風雅な庭園に、宮廷料理人のつくる美味しい食事、だらだらお昼寝にお喋りとくれば、少しの退屈ささえ我慢すれば、なかなか快適な暮らしだと、ポジティブが売りの小蘭は、むしろ楽しんさえでいた。


 本来なら側妃というのは、皇帝の子を産み育てるのが本業だが、何といっても、現皇帝は齢七十近くのお爺ちゃんだ。

 

 まさか、百人もいる妃全てを相手にできるわけもなく、一度も夜伽に呼ばれていない娘なんてザラにいるからと、楽観的に過ごしていたのが、まさか本当にお声がかかるだなんて。


 あーあ、ついてない。

 ウキウキと動きまわる婆やの横で、小蘭は密かにため息をついた。

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