第1話

真昼間の路地裏、土砂降りの中俺は雨宿り場所、そして束の間の休息を求め、目にとまった喫茶店のドアノブを捻った。

「いらっしゃいませ。」

奥の方から声が聞こえ、それと同時に灰色のベレー帽を被り、清潔そうな茶色のエプロンをつけた店長らしき人が出てきた。

「おすすめとか、ありますか?」

案内されるがままに椅子に座り、そう聞くと、その人は満面の笑みを浮かべ、メニュー表の一点に指先を当てた。そこには珈琲の隣に控えめに「ラムネ」と書かれていた。

「喫茶店なのに、ラムネ…?」

「いいじゃないですか。騙されたと思って飲んで行ってくださいよ。」

そう言われてしまえば仕方がない。店長は意気揚々とカウンターの方に入っていってしまった。するといきなり膝の上に衝撃を感じた。

「クロ!」

俺に飛びついてきたのはすこし太り気味の黒猫だった。店長は申し訳なさそうにしているが、俺はその生温かさに少し気が緩んでしまい、ボソボソと身の上話を始めてしまった。ブラック企業で寝る暇もなく働いていること、自分が何故その仕事をやっているのかわからなくなってしまっていること。自分が身に纏っているよれよれのスーツを見ることで、余計悲しみが増してきた。

「そうなんですね。ま、とりあえずお客さん、ゆっくり飲んで行ってください。」

拍子抜けするほどあっさりと適当な返事をしたそいつに少し文句を言ってやろうとしたが、問答無用でラムネを飲ませようと差し出してくる。渋々栓を抜き、口に含むと、眠気が襲ってきた。そういえば膝の上の猫も眠っている。俺は全てを放り出し、睡魔に任せることにした。


気付けば俺は見知らぬ廊下、教室の前に置かれた椅子に座っていた。この奇妙で有り得ない状況にパニックに陥り、立ち上がろうとするが、体が動かない。

「松本ー。」

そうこうしているうちに教室の中から俺の苗字を呼ぶ声が聞こえた。数秒前まで1ミリも動かなかった体が自然と動くべき場所に動き、教室の中で声の主と向かい合った。その光景に既視感を覚える。そうだ。これは高3最後の二者面談だ。目の前のハゲ頭の男は担任だ。俺のことを卒業後も気にしてくれていたお手本のような先生だ。唯一頭が光ってしまっているのが残念なポイントだ。

「お前は…就職で本当にいいのか?この偏差値ならほぼ確実にどこか大学には行けるだろうが…。」

そう。俺の頭は確かに良い。難関大学にも行けると言われていた。この担任も最後までそれを進めていた。しかし、心配そうなハゲ頭の前で、自分の口が自分のものではないかのように、就職先の魅力を語り始める。


「情けないなぁ。」

気が付くと再びラムネ瓶が目の前にあった。どのくらい時間がたったのだろう。膝の上の猫は逃げてしまい、雨の音は聞こえなくなっている。不思議な夢だった。しかし、高校生の時に憧れた職業に俺は今就けている。自分自身が自分の意思で選んだ道だったのだ。そんなことを考えていると、

「お客さん、大丈夫ですか?」

声の方を向くと店長が心配そうにこちらを見ている。それが普通の反応だろう。いきなり客が目の前で眠りこけ始めたら誰だって心配だろう。俺は苦笑いをし、お金を置いて席を立った。

「大切なものに気づかされたよ。もう少し頑張るよ。」

清々しい、何か胸に詰まっていたものがすっと流れていったような軽やかな気持ちで外へ出る。

背中越しに猫の鳴き声が聞こえた。

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