エピソード91 堕ちる
これからどうするか悩み、命じられていた工場の解放へと向かおうと東へと進路を取った。だがその目の端に気になる影を捕えてタキは足を止める。
「紺色の制服、保安部の人間か?」
足早に先を急ぐ姿は驚くほど華奢で、身を包む紺色の制服が不似合いなほどだった。
夜間の中でも光り輝く銀色の髪を後ろで纏め上げた女のちらりと見えた横顔ははっとするほど美しい。澄んだ青の瞳を縁取る長い睫毛も、くっきりと線を引く二重が消える目尻はどこか愁いを感じさせるようだ。
似ている――。
美しさに目を奪われた後で、女性の顔が友人の面差しと似通っていることに気付いた。
儚いまでの美貌と繊細さ。
そして潔癖さをその佇まいだけで表現してしまう。
「保安部で働いているのか」
カルディア出身のホタルの身内ならば軍で仕事を得ていてもおかしくは無い。だが女の軍人は数が少なく、統制地区でその姿を見ることは稀だ。
シオを連れて行った保安部にホタルの身内がいることが切なく、そして遣る瀬無い気持ちになった。
ホタルが悪いわけでは無いが、なんとなく釈然としない思いを抱くのは仕方がないだろう。
誰かを追うかのように角を曲がって行く後ろ姿が消え、タキは訝しげに首を傾げた。
討伐隊と保安部は別々の組織で、共同戦線を行って戦うほど繋がりはないはずだ。
反乱軍が第一区へと攻め込んだという情報は保安部に入っているはずで、この場合応戦するのは反乱軍討伐隊であり、保安部がそこに介入することは職務を超えた無粋な行為である。
何故保安部がここに?
タキの疑問はもっともだったが、それに答えを与えてくれる者はいない。欲しければ直接聞く必要がある。
「どうする」
放っておいた方が良いのだろう。
だが女がホタルとよく似ていることがタキの気を強く引いた。物腰が柔らかくどちらかというと頼りない癖に、思い込んだら一直線に突き進む性格のホタルはちゃんと見ていないととんでもないことをしそうでハラハラする。
そんな隣人の面影を勝手に重ねて見ているからか、危険な場所を女の身でたったひとり歩いている彼女が酷く心配だった。
呼び止めて、警告した方が良いのだろうか。
だがそんなことをすればタキの素性を探られ、いらぬ詮索を受ける羽目になる。それはあまりにも好ましくなく、ホタルの身内ならば余計に近づくのは得策では無い。
どうする?
彼女の目的は一体なんだ。
考えても解らないことで頭を悩ませるほどの時間的余裕は無い。追うか、止めるかどちらか決めなくてはならなかった。
「くそっ」
結局放ってはおけずにホタルの影を追ってタキは女が曲がった道を急いで辿る。空に浮かんだ半月に雲がかかって一瞬だけ明度が落ちた。その中で煌めいた金属の光を見た後で女の物だろう押し殺したような悲鳴が続く。
声のした方へ目を向ければ、壁に押し付けられ口を掌で塞がれている女が束縛から逃れようと頭部を動かして抵抗していた。その喉元に刃をひたりと当てて「なんのつもりだ?」と低く問う男はかなり殺気立っている。
タキがほんの数秒逡巡していた間になにが起きたのかは解らない。
ただその数秒あれば彼ならば人を数人殺せるだけの才覚がある。
「待て、タスク!」
放っておけば簡単に女の命は毟り取られ無残な屍となってしまう。制止の声を思わず上げてタキは近づこうと右足を出してその場に凍りついた。
「どうして、お前がここにいる?オレは工場の解放を命じたはずだ」
ゆっくりとこちらを振り返る鳥の仮面の向こうから怒りの感情を滲み出し、低く絡み付くような声が命令に背いてここにいるタキを詰る。
幾人もの血を吸って赤黒く染め上げられた鳥の面はまるで呪われているかのように禍々しい。戦いを終えると着ている独特の生成りの衣装は洗っても落ちない程の返り血で汚れてしまうので毎回新しい物が用意されている。
今回も新品の服に身を包んでおり、まだタスクが誰とも戦っていないのを表わすようにまっさらで染みひとつなかった。
それが苛立ちの原因なのか。
ウヌスの居場所を見つけられずに心躍る戦いの舞台を得ることができていないことがタスクの怒りを冗長させているのか。
それとも命令を無視して行動をしているタキのことを心の底から許せないのか。
「作戦中に陽動隊が逃げ遅れて討伐隊に囲まれたと連絡が来た。俺は仲間を助けに」
「助け?お前はどこまで甘いんだ。しかも、この目障りな保安部の女まで助けようってんだから――笑える」
タスクは奥歯を鳴らして女の口を押えている手を動かし鼻まで覆う。女は息苦しさに必死になって暴れるが、戦い慣れた男の腕はびくともしない。
髪を留めていたピンが取れたのか、女の美しい銀の髪がはらりと流れる。コバルトブルーの瞳が涙で潤み、呼吸を奪われたことで白い顔を真っ赤にして悶えているのをなす術も無く眺めていることしかできずにタキは思わず目を反らした。
ここで刃向って女を助ければ、間違いなくタスクはタキを赦さず裏切り者として処罰するだろう。
女共々斬り捨てられて終わる。
仮面を着けている時のタスクには逆らうな。
それは
だが、このまま見殺しにしていいのか?
自問自答しながらタキは拳を握り、頬を強張らせる。
「俺は、俺のために」
震える声で呟くと太陽の下で交わしたタスクとの言葉を思い出す。すっと顔を上げてプラチナブロンドの髪が包む後頭部を眺めた。
今成すべきは保安部の女を殺すことでは無く、第一区討伐隊隊長ウヌスを見つけて討ち取ることだ。工場を解放しようと頑張って戦っている仲間のために優先するべきはどちらかくらいタスクにも解っているはず。
説得することは難しいだろう。
ならば。
「後で謝罪はする」
赦されなくとも。
この場で斬り伏せられようとも、黙って見ているよりは幾分ましだ。
「俺は俺のために戦う!」
振りかぶった拳はタスクの横面を叩く前に避けられ空を切る。死角へと素早く消えた頭首の姿を見失い、タキは壁を背に立ち短く息を吸い込んで視線を右から左へと動かした。
月の光を遮っていた雲が風で流れて道路に影が濃く浮き上がる。
「右!?」
気配も足音も無く気がついたら目の前に現れるタスクの敏捷さに舌を巻きながらもタキは必死で動きを予測し、突き出された剣先を避けて曲刀を握る右手首を掴んで押え込む。即座に右の蹴りが脛を襲い、続いて膝の皿を割る勢いで踵が打ち下ろされる。同時に左からの鋭い打撃がタキを打ち据えた。
容赦の無い連続技に怯んでいる暇は無い。
タスクの強さも、速さも解っていたことだ。
退くな。
迷うな。
負けじと無心で拳を繰り出していると、その中の一発がタスクの顎下へと入り木彫りの面に罅が入った。
そうだ。
この面を取ればいつものタスクに戻るはず。
そうすれば話を聞いてもらえるかもしれないと一縷の望みを抱いてタキは腕を伸ばした。
「タキ、お前!!」
聞いたことが無いような荒ぶる声を出してタスクは翡翠色の瞳に憎悪の色を上らせる。あまりの激昂ぶりに驚き手を止めて、息を詰めた。タスクの右手首を押えていたはずの手からも力が抜けたのか自由を得た狂戦士は間合いを取るためにいったん下がり、そして直ぐに止めを刺そうと腰を下げて曲刀を振り上げた。
終わった――。
止めることも、説得することも、謝罪することもできなかった。
タキは諦めてちらりと女がどうなったのかを確かめる。気を失っているのか倒れて横たわっているその顔に苦悶の表情が浮かんでいて気の毒になった。
「こんな時に余所見とは余裕だなぁ?」
耳に着く哄笑を聞いてタスクへと注意を戻す。
どうしてこうなった?
信じてついて行こうと思っていた男と決裂し戦うことになるなんて。
ただ黙ってタスクから与えられるだろう平穏を心待ちにしながら尽くしていれば良かったのに。
後悔よりも虚しさばかりが胸にこみ上げてくる。
剣を向け殺されようとしている今でさえタスクに対する尊敬や信頼は揺るがず、その戦慄を覚えるほどの強さに憧憬と頼もしさを抱いていた。
タキの胸には確かに揺るがぬ忠誠があるのに。
ザシュッ―――。
己の命を奪う音があまりにも軽いことに拍子抜けして、唇を歪ませながらそっと目を閉じた。ドッと胸に当たる衝撃と温かい液体が染み込んでくる感触に身を固まらせ、次にずるりと胸から腹部へと下ってくるなにかに気付いてそっと右手を動かす。
その指先に触れた糸のような物に驚いて目を開けると、掌の上に目を疑うような物が乗っていることに強い恐怖を覚えた。
なにが、起きた!?
指に絡む癖のあるプラチナブロンドの髪は血に濡れており、木の面が上半分だけの状態でタキの腕の中にあった。突き出した嘴部分から下が綺麗に無くなり、ぽたぽたと赤い滴がどろりとした肉片や脳漿と共に流れだしている。
本来あるべきところにある物が無いという不可思議さは現実感を伴わずに吐き気を催す嫌悪感だけが襲うのだとこの時初めて知った。
ぎらついている翡翠の瞳が面に開いた小さな穴の向こうにあったが、幾ら覗き込んでも視線が交わらず、既にそこには魂の欠片すらないのだとぶるぶる震えながら嗚咽を洩らす。
Tシャツを染みて肌にまでその温もりや粘つく不快な思いを味わい、タキは心の動揺と現状把握が追いつかないままぼんやりと視線を彷徨わせた。
「あー、まずい」
ふと聞こえた第三者の声に漸くタスクが最後に立っていた場所に男がいることに気付いた。女と同じ紺色の制服を着た男というよりは青年と言って差し支えない、妙に目元に色気のある若者がそこにいたのだ。
「こいつ、クラルスの頭首だ。まずい、かなりまずい。アキラになんて言われるか解ったもんじゃない。ああ、面倒臭いなぁ」
革の軍靴で顔の上半分を失って絶命しているタスクの身体を足蹴にしながら仰向けにして確認し、保安部の青年は左手で帽子を脱いで金茶の髪を掻き乱す。
「でもキョウに乱暴働いたこいつが悪いんだし。おれはおれの仕事をしただけだから文句ないよなー。でも、頭首無しで革命を成功させるなんて無茶だろうなぁ。ああ、計画丸つぶれだ」
言い訳染みたことを口にする口調は恐ろしく軽い。まずいとはいいながらも、そう取り乱しも反省もしていない様子なのは表情からも明らかだ。
青年の言葉の中に知った男の名が出てきたのでタキは眉を寄せて繁々と眺めた。
「……アキラ?」
保安部の制服を着た若い将校が反乱軍と行動を共にしているアキラを知っているという違和感に、目の前の青年の素性すら怪しく思えてくる。陸軍の基地をたったひとりの力で攻め落とした脅威の戦闘能力を持ったタスクを、一瞬で斬り殺せるほどの人間などいるはずがない。
しかも、この断面。
改めて視線を地面に転がるタスクの遺体へと向ける。そこには仮面の外れた高い鼻梁と男らしい唇が見え、頬骨の上からすっぱりと横に鋭利な刃物で斬り離された断面がさらされていた。
白く見えるのは頭蓋骨だろう。
そして血液と脳漿と共に道路に零れ落ちている脳の一部がいやに目に焼きついた。
どんな物で斬ればこんなに綺麗な断面になるんだ?
まるで柔らかい物を簡単に斬ったかのように頭部を輪切りにするなど信じられない。思い返せばあまりにも軽い殺傷音だったことからも疑念が渦を巻いていく。
「お前は、一体なに者なんだ?」
ゆっくりと視線を上げていくと男が手に得物を持っているのが目に入る。それは奇妙なほど細長く、美しい波型の模様が描かれていた。その刃を辿るとその先が突然腕へと同一化しており、まるで手首から直接生えているかのように見える。
いや。
見間違いでなければその剣の柄の部分は肌の色をした掌であり、捻じれたように細く伸びた指から長い鋼の刃へと変じている。
金属であるのに、生身の人間の一部であるという信じがたい武器はタスクの血を吸って赤く濡れていた。
「なに者かと問うか。今更な気もするが。アキラとは仲良くやってるんだろう?」
金属が擦れあった時に立てる耳障りな音がしたかと思うとまるで生き物のように刃が蠢き、収縮しながら男の掌の中へと納まった。指の先から徐々に色が戻り、そしてそこには普通の人間と同じ手指が現れる。
同じなのだ。
彼もまた人とは異なる能力を授かった人間。
タキやアキラと同じ。
「お前の大事な頭首を殺したことは詫びる。だけどおれだって殺りたくて殺ったわけじゃない。仕方なく殺ったんだ」
「信じられるか、そんなこと」
仕方がなかったと言われて引き下がれるわけがなく、キッと睨み上げると冷ややかな笑みを返された。
「そう言うが、大体俺が殺らなかったらお前死んでたぜ?」
「それも覚悟の上だった」
「お前を見殺しにしたらそれこそおれはなんて言われるか。頼むから、おれの身にもなってくれよ」
大仰に肩を竦めて青年は小さく嘆息する。
誰になにを言われるのか知らないが、そんなことを配慮してやる義理も義務も無い。
「タスクを殺す必要は無かっただろう?お前ほどの力があれば、他に方法があったはずだ」
「お前が能力を出し惜しみさえしなかったら結果は違ったかもな。自分で道を探そうとしなかった奴に文句言われたくは無い」
「――――!」
悔しいが男の言うとおりだった。力を使えばタスクを止めることはできただろう。そして男の手でタスクが殺されることは無かった。
全てタキが力を使うことを恐れ、全力を出さなかったゆえの結果がこれだ。
「後は好きにすればいい。おれはおれの役目がある。お前がこれからどうしようが関係ない。計画が狂ったが、たいした問題じゃないしな」
倒れた女に歩み寄り外傷がないかを確かめてから安堵したように息を吐き、青年はそっと優しい手つきで両手に抱き上げ立ち上がる。
「せいぜい悩んで苦しめよ」
言い捨てて青年が立ち去るのを黙って見送るしかない自分の不甲斐無さに虚脱してタキは地面に座り込んだ。
タスクを目の前で殺されながら仇を取ることも、怒り狂いながら襲い掛かることもできなかった腰抜け。ただ呆然とするばかりで見っとも無く取り乱すこともできなかった。
悲しむことも、憤ることも。
「俺は、どれだけ無能なんだ……」
ただ護りたいだけだったのに。
平穏を求めただけ。
その代償が、これか。
左拳を地に叩きつけてタキは肩を震わせる。幾つもの死が目の前を通り過ぎ、そしてまた新たな死が目の前に横たわっていた。
多くの人々の希望であり、そしてタキの希望でもあった。
失われた命は尊く、損失は計り知れない物がある。
「どうすれば」
そっと右手にかき抱いていたタスクの頭部を置いて途方に暮れる。今戦っている仲間たちは頭首が討ち取られたことを知らない。懸命にタスクが第一区討伐隊隊長ウヌスを倒してくれることを信じて戦っている。
「これから、どうすれば」
迷っている暇は無い。
悩んでいる時間も無い。
「せめて、今だけでも」
ミヤマが働かされている工場の解放はタキの望みでもある。
でもそれから後は?
そんなこと知ったことか。
顔を上げタキは乱暴にTシャツを脱ぐとタスクの纏っている衣装を剥ぎ取った。上着だけ身に着け、目と鼻半分を覆っているだけの仮面を着けたタスクの上半部の顔を見つめる。少し躊躇った後で髪と絡み合った紐を解いて取り、血塗られたその仮面を己の顔に当てた。
まるで吸いついて来るような気持の悪さを堪えて紐を結び、視界の狭い世界を新たな気持ちで眺める。
これがタスクの見ていた情景なのか。
驚くほど視界のきかないことに改めて脱帽する。こんな状況であれほどの戦いができるとは人間業とは思えない。
それほどタスクという男の戦闘に関する能力は特殊であり、優れていたのだ。
「今だけは、赦して欲しい」
頭首のフリをして戦うことを。
転がっていたタスクの曲刀を拾い上げ、タキはゆっくりと息を吐き出した。
「――ウヌスを、」
狙うはただ一人。
主として崇め忠誠を誓った男の躯を今は放置して、成すべきことを成す。
己のために。
そして多くの人々の願いのために。
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