エピソード88 父の動揺


 見回りの時間が近づきキョウは保安部の執務室の扉を開けた。そこには既に飄々とした下級将校が立っており、帽子の下でくすんだ青い瞳が楽しげに眇められるのを見てむっと口を引き結ぶ。

 腹立たしいほどにこの青年はキョウが困ったり、嫌がったりする姿を見るのが好きなようで、顎を上向かせて無視して歩き出すと背後で忍び笑いが聞こえた。

 それがまた実に愉快そうに耳に入ってくるので羞恥と苛立ちで頬を上気させるが、そんな顔で文句を言おうと振り返ろうものならどんな反応を返されるか解った物ではないのでぐっと堪える。

 長い廊下を行き、階下へと向かう階段に辿り着くまでに多くの兵士たちとすれ違う。同じ保安部の人間たちだが、キョウに道を譲り会釈や敬礼を向けてはくるものの、その顔にその目に浮かんでいるのは軽蔑と揶揄の感情のみ。

 そこに信頼も尊敬も、親しみもない。

 いつものことながら胸に去来する虚しさと惨めさに心が折れそうになるが、ぐっと飲み込み前だけを毅然と見て歩き続けた。

 こうして外側だけは虚勢と慣れで、冷たく気位ばかり高い嫌な女が形作られていく。


 そしていずれ中身すら傲慢な女へと変貌していくのだ。


 ヒビキのように穏やかで愛らしい少女であったならば、高圧的で暴力的な軍人たちも優しく微笑んで手を貸して受け入れてくれたかもしれない。


「ばかなことを」

 そんなことを一瞬でも考えたことに強い自責の念を覚え、キョウはそっと息を洩らす。

 歳の離れた末っ子のヒビキは柔らかな雰囲気を持ち、そのまろやかな頬とふっくらとした唇を緩めて浮かべられた笑顔にはなんともいえない魅力がある。

 その笑みは厳格である父の一睨みで凍りついた空気を溶かすことができる唯一の方法であり、あの父ですらヒビキに対しては慈しみを持った優しさを感じられるのだからその影響力は絶大だ。


 あの子はお母さまによく似ているから。


 ヒビキ以外の三人は父によく似た、冴えわたるような容姿をしているが、妹の丸く柔らかな顔立ちや慈悲深い眼差しなど母を知らぬはずなのにまるで生き写しのようだった。

 兄姉と父との間を取り持とうとする姿すら母のようであり、その一生懸命な姿に胸を突かれるのだ。

 自分が大きくなるほどに厭わしい父へと似て行き、ヒビキが伸びやかに成長して行くにつれてどんどんと母のように誰からも愛される少女になっていくのを見ているのは辛い。

 キョウが持つことのできない資質を妹は全て持っている。

 羨ましくても自分にはヒビキのように振る舞えない。


 私は父のように冷たい人間なのだから。


 だってこんなにも可愛い妹に醜い嫉妬を燃やし、可愛げも無く男の世界で今に見ていろと暗い感情を抱いて働いている。


 きっと父は自分に似ている娘を疎ましく、それでいてなにひとつ成果を出すことのできぬキョウに失望しているのだ。


「おや、珍しい」

 後ろを歩いていたリョウが言葉通りに驚いたような声を出したので、物思いに耽っていた意識を戻そうと瞳を瞬かせる。

 いつの間にか階段を下り入口へと向かう廊下を歩いていたことに気付き、どれほどぼんやりとしていたのかと狼狽えた。もしかしたら浮かない顔を擦れ違った人間に見られたかもしれず、もしくは気弱そうな表情を見せていたかもしれないと思うとぞっとする。


 気を引き締めなければ。


 そう頬を強張らせたキョウの耳元にリョウが顔を寄せて「お父上様ですよ」と笑い含みの声が届けられた。

「ちょ、近い」

 驚いて歩を止めて身を反らすと一瞬きょとんとしたような無防備な表情を浮かべ、リョウは直ぐににやりと嫌な笑みを刻む。

「そんな反応されたら妙な気分になります。誘ってくれているのは嬉しいですが、なにぶん職務中ですし」

「誰がっ!!」

 悔しくて腕を振り上げると、その手をやんわりとリョウが押し止める。「無礼をお許しください」と一言謝罪した声がいつもより真剣だったことに漸く気付いて、彼が先程もたらしてくれた情報をやっと思い出した。


 お父上様ですよ。


 これは勿論リョウの父のことではない。

 そう言えばこの男の家族や生まれについて聞いたことがないなと改めて思いながら、そっと前方へと顔を向けた。

 赤い繊毛の上を悠然と男は供の一人も連れずに脇目もふらずにやって来る。すらりと高い身長と細身の身体は誰も寄せ付けないような冷酷さを纏い、相対する者の全てを容赦なく吟味し取捨選択しようと凍てつくような双眸をしていた。

 父の瞳はキョウと同じコバルトブルーの色をしているが、その目の色から受ける印象は南の海や空といった美しく雄大な物ではなく、極寒の氷のような雰囲気を持っている。


 きっと、父の心も瞳同様凍てついている。


「ナノリ様。お久しぶりで御座います。こんな場所にお越しになるとは実に珍しい。なにか変事が?」

 近づいてきた父に規則通りの敬礼をして、にこりと微笑みながらリョウが挨拶を述べるのを眺め、緊張して固まる喉を潤すために唾液を嚥下しようとするが上手く行かずに眉を潜めた。

 歳を取っても父の前に立つと萎縮してしまうのは子供の頃から刷り込まれている恐怖が未だに抜けないからだろう。

 原因は解っていても、それを克服することはとても難しい。

「キョウ」

 そのまま素通りでもするのだろうと思っていたが、何故か目の前に立ち父に珍しく名を呼ばれ背中が粟立つ。

「はい」

 震えそうになる声をなんとか振り絞って低く返事をし、目を合わせぬよう伏せたまま父からの言葉を待った。

 だが一向に口を開く気配が無いので、流石に怪訝に思いながら視線をそっと上げる。

「お父さま?」

 美麗な顔には随分と皺が増え、疲れているのか肌がかさついて色も悪く見えた。朝には丁寧に身だしなみを整えて出て行くことを知っているが、その顎下に剃り残された不精髭を見つけキョウは感慨深くこんな至近距離で父の顔を見るのはいつぶりだろうかと思う。

 向き合う時は間に大きな書斎の机を挟んでいたり、長い食堂のテーブルを囲んでだったので記憶を辿ってもこんなに近くで顔を会わせるなどついぞ無いことに今更ながら驚愕する。

 父の顔に時の流れと、老いを感じて胸が切なくなった。

「なにか」

 あったのだと気づけたのは、恐れながらも父を遠巻きに見つめてきた家族の勘とでもいおうか。

 顔色を窺って生きてきたキョウだからこそ解るほんの少しの違和感。

 なにが違うのかは細かく口にはできないが、父の眉間に刻まれた皺には不機嫌よりも困惑が、下げられた口角には苛立ちでは無く焦りが感じられる。

 見た目は普段と変わらないように見えるのに、注意深く観察すれば父が取り乱しているのだと知り得るだけの情報がそこかしこに見え隠れしていた。

「まさか」

 最愛の母を喪ってから父にとってかけがいの無いものと言えば仕事と自分自身。

 そして。

「ヒビキになにかあったのですか?」

「―—った」

 唇が動いても漏れ聞こえる声は小さく聞き取れない。キョウは焦れたように「お父さま?はっきり仰って下さい」と懇願する。

「いなく、なった」

「ヒビキが、いなくなった?まさか」

 家族を繋ぎ止めるために尽くし生きてきた妹がアゲハのように家を捨てるとは思えない。今まで心配をかけるようなことなどしたことが無い従順で健気なヒビキが、行き先も告げずにいなくなるなど考えられなかった。

 信じられずに笑い冗談は止めて欲しいと父を見たが、そこには大切な者に裏切られたかのような悲しみを湛えた瞳がキョウを見つめ返していた。

「本当に?」

「部屋も屋敷も、庭も探したがどこにもいない。車も使わずに、忽然と姿を消した」

「歩いてでかけたのなら、すぐに探せば」

 移動は常に車で、そんなに体力のあるような子では無い。徒歩で出かけたのならば遠くへは行ってないだろう。

「なんらかの事件に巻き込まれた可能性もある」

 父の沈鬱な声にキョウは青ざめる。

 副参謀としての肩書を持つ父を恨んでいる者や、その立場から引きずりおろしてやろうと企んでいる者は数多くいる。無防備なヒビキを誘拐し利用しようとする輩の手に落ちたとしたなら。

 恐ろしくて途中で思考を止めた。

「保安部の情報を得るためにここへ来た」

「それならば、私も一緒に」

「お前は職務を優先しろ。ヒビキのことは私に任せておけばいい。必ず無事に連れ帰る」

 それ以上の会話を背中で断ち切り父は忙しなく足を動かして階段へと向かって行く。

 妹の身に危険が迫っているかもしれないのに、キョウの心の中に広がるのは純粋な心配ではなく、どす黒い妬みの感情だった。


 きっとキョウが同じように突然いなくなっても父は探すための努力などしない。


 そのことが胸を重くする。

 辛ければいつでも出て行っていいのだと、アゲハがいなくなった時に既に言われているのだから結果は明らかだ。


 同じ父の子であるのに、ヒビキは特別愛されている。


 保安部に集まる情報は統制地区だけでは無く、カルディア地区の物まで及ぶ。街につけられた監視カメラの映像を分析してヒビキの姿を探せば行方を追うことは簡単にできる。

 だからこそ父はここへときたのだ。


 キョウに協力を求めに来たわけでも、不安な気持ちを共有して欲しいと頼ってきた訳でもない。


「惨めだわ」

 必死で気持ちを切り変えようとしても上手く行かない。それはキョウの未熟さゆえなのか、それとも本来持っている嫉妬深い性格のせいなのか解らなかった。

 再び重い脚を動かして歩き出すと、肩が触れるほど近くをリョウが並んで歩く。

「慰めているつもり?」

「慰めて欲しいんですか?」

「別に」

 視線を落としてぽつりと呟くが、それが本心では無いことなどリョウには伝わっているだろう。

「本当に妙な気になります。しかし心配ですね」

 苦笑いしている青年の顔をちらりと見上げて、今度は素直に「ええ」と頷いて答えることができた。

 父への複雑な思いを除けばヒビキはキョウにとっても大切で愛しい妹である。後ろ暗い気持ちを一瞬でも抱いたとしても、無事に帰って来て欲しいと願う気持ちに偽りはない。

「カルディアにいてくれれば直ぐに見つかるでしょうが、もし統制地区の方へ行ってしまったら難しいでしょうね」

「でもヒビキが統制地区に行きたがる理由なんて、思いつか」

 ないと言いかけて止めると、キョウは落ち着かなげに掌を擦り合わせた。

 統制地区にはヒビキが求める物など少ない。友達は全てカルディア地区の子で、学校は現在休校になっている。再開を望んでいる学校が近く閉鎖され、新しくカルディアに出来ると聞いたから懐かしい学び舎へと居ても立ってもいられずに出かけたと考えるには根拠が薄い。

 ヒビキは愚かな子供では無い。

 自分が何らかの事件や事故に巻き込まれれば家族に迷惑がかかると知っている。今までだってどこかへ行きたい時はちゃんと了承を得た上で、車を出してもらって出かけていたのだ。

 だから理由が学校ならば今までのように行き先を告げて車で向かえばいいのにヒビキはそれをしなかった。


 つまり、行き先を言えない所へと行きたかったのだ。


「アゲハを、探しているの?」

 家を出てから三年以上経っているのに。

 何故今更。

「統制地区は今、とても危険です。ヒビキ様のように一見してカルディアの出身だと解る方がたったひとりで道を歩いていればなにをされるか」

「一刻も早く探し出して連れ戻さなければ」

 反乱軍やテロリストだけが危険人物では無い。国によって虐げられ続けた国民たちは、一度火がついたらなにを仕出かすか解らないのは“狩り”が始まったその日にゲートの前で起こった暴動から身に染みて感じている。

 弱い少女を捕まえて、怒りや不満をぶつけたとしてもおかしくは無い状況だった。

「実は報告を控えていたのですが、クラウド様の部下だったツクシ殿が反乱軍頭首と戦い命を落としたと」

「あの」

 涼しげな顔をした男を思いだし、クラウドの葬送の儀で無念を晴らすのだと強い決意を瞳に浮かべていたあの日が彼と会った最後だった。

 また簡単に人がいなくなると塞ぎこむ暇が今は無い。

 もしかしたらヒビキがそうなるかもしれないのだ。

「次の無い別れになどにしてたまるもんですか!統制地区をくまなく探すわ。急ぎましょう」

 今朝もヒビキは変わらず笑顔でキョウを送り出してくれた。

 そのどこにも悩みや不安を抱えているようには見えなかったのは、上手にそれを隠していたからだ。

 きっとそうやって苦しみも悲しみも笑顔で隠してきたのだろう。


 もう、失うのは嫌だ。

 だから無事でいて。


 入口を出ると待たせていた車に乗り込む。運転席の男をリョウが強引に降ろして代わりに座りハンドルを握った。

「飛ばしますよ」

「お願い」

 軽快な声にキョウは頷く。

 アクセルが踏まれて車が勢いよく走り出す。流れて行く景色の中に妹の姿が無いかと必死で目を凝らしながら、不安で押し潰されそうな胸元をぎゅっと握りしめるしかないことに無力さを感じて潤む瞳を瞬きで紛らせた。

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