エピソード86 忌むべき子
稲光が壁の向こうにある統制地区の上空を走って行く。ヒビキはその様子を窓辺に立って眺めながら、そっと胸に手を当てて息を詰める。
雨がガラスの上をまるで滝のように流れるのを目で追って視線を下へと向けた所で、屋敷の門から車のヘッドライトが闇を切り裂き玄関の方へと向かうのに気付いた。
「お姉さまかしら」
父を嫌い避けているホタルがここへと戻ることはないだろう。
「……大変なお仕事」
時刻はとうに深夜を過ぎていた。キョウが朝食後に慌ただしく出かけて行ったことは見送ったヒビキが一番知っている。
学校が閉鎖され、家に閉じ込められて過ごしているヒビキができることといったら父や姉を笑顔で送り出すことだけだった。
治安が良くなるどころか悪化するばかりで、反乱軍の勢力は衰えを知らず快進撃を続けていると聞く。不名誉なことだからみんな隠れてこそこそと噂し、これからどうなるのかと嘆き怯えている。
学校は統制地区から撤退し、新しくカルディア地区に設置される予定だと父から聞いたのはつい昨日のことだった。
なにもすることが無くて退屈だから学校が早く再開されないだろうかと思っていたが、統制地区から場所を移しての再開を素直に喜べないのはきっとヒビキだけだろう。
「また壁が高くなり、溝が深くなる」
同じ国に住む人間なのに隔離されたかのように接点なく、互いに生きて行かなければならないのは寂しい。学校という巨大な施設を運営していく中で統制地区の雇用が多く生み出されており、そのことで彼らが収入を得て生活できているのに。
口数少なく勤勉に仕事に取り組む人々の姿は尊敬こそすれ、蔑んだり軽んじたりする人間がカルディアに沢山いることを憤ったり悲しんだりするのはヒビキの弱さであり、また偽善染みた自己満足であると自覚していた。
だが国が打ち出す指針と法律は統制地区の人々を置き去りにして、カルディア中心で全ての物事が進んで行く。
そんな不安定な土台の上で国が成り立って行くはずがないのだと気づかぬほど愚かではないはずなのに。
「お父さまたちはなにを考えておられるの?」
中央参謀部は政にも軍にも不可侵であるという立場を一応は崩していない。
それでも発言権があり、それなりの権利と影響力を持つ参謀部のトップであるラット参謀長や副参謀長の父が政と軍が大きく傾いて行っているのを黙って見ていることは信じがたい物があった。
心優しいホタルに討伐隊を率いらせ、正義感が強くとも女であるキョウを保安部の実動隊へと送り込んで。
「一体どうしたいの?」
ふと顔を上げた窓に映る自分の姿が流れる雨のせいで、まるで泣いているかのように見えた。
肩までの銀の髪は他の兄姉に比べて精彩さが欠け、どちらかとういと銀というよりも灰色に近い。大きいばかりの青い瞳だって、兄姉の澄んだコバルトブルーには到底敵わなかった。
細く繊細な美しい顔立ちの兄と姉と違い、丸顔で小さな顔のヒビキは笑顔を浮かべていなければ愛らしいと言っては貰えない。
同じ両親を持った血を分けた兄弟であるはずなのに上の三人とヒビキの間には大きな違いと隔たりがあった。
それはきっとヒビキが忌むべき子供だからだ。
「運命を、」
一刻も早く変えなければ家族に災いがもたらされる。
横髪を指で掬い耳の裏にかけるとそれだけは自慢できそうな形の良い耳が現れた。だからこそ腹立たしくいっそのこと自分の手で捥ぎ取ってやろうかとすら思ったが、そんなことをしてもなんの効果も無く、ただ愚かな行為を優しく責められるだけだ。
「どうして自分のことなのに、自分で変えることができないの」
何度歯痒い思いをしたことか。
“忌み子”
その言葉をヒビキが知ったのは随分と遅かった。兄も姉も慎重に口を噤み、決してヒビキの耳に入れようとはしなかったし、父も屋敷に勤める者たちに戒厳令を敷くほどの念の入れようだったから。
「もっと、早く知っていればアゲハお兄さまが家を出ることも無かったのに」
後悔しても起こってしまったことは元には戻らない。
ヒビキの耳は何故か不必要に様々な情報を捉え、殆どの内容が益を産まないどころか害しか及ぼさない負の情報だった。
聞き耳を立てているわけでもないのに小声で囁かれる悪口や噂話が入ってくる。逆に聞きたくないと耳を塞げば塞ぐほど詳しい情報が次から次へと聞こえてきた。
沢山の知らなくても良いことを自分の中に溜めておくことが苦しくなったヒビキは四歳上のアゲハに相談し、その内容を全て打ち明けたのだ。まだ幼かったヒビキもアゲハもその情報の信憑性を疑うことができずに真に受けた。
真実を確かめるのが恐かったのもある。
だから二人は他の誰にも言うことができずに胸に秘め、なにごとも無かったかのように振る舞ったが、それ以後も沢山の善くない噂が聞こえヒビキを苛む。
それ以上に苦しみ、心を痛めていたのはアゲハの方だった。
きっとヒビキは頼る相手を間違えたのだ。
兄弟の中で一番聡く、そして感受性の強かったアゲハはやがて情報を精査するために動き始め、ヒビキの知らぬうちに真実へと到達した。
そのせいでアゲハは生まれを憎み、父への愛情を失い家族を捨てたのだ。
唯一の共謀者が去ったことで動転したヒビキは結局父に泣きつき全てを白状するしかなかった。父はなにも言わずに泣きじゃくるヒビキの肩を抱いて傍に居てくれたが、アゲハを連れ戻すための行動を起こしてはくれず、失望と悲しみが胸に広がり塞いでいる内に家族の溝が深くなってしまったことは今でも悔やむ事柄のひとつ。
そして漸く自分が“忌まわしき子”と呼ばれる存在であることを知ったのだ。
この国では母の命と引き換えに生まれた子供は、他の家族の命をも喰らうとされ忌み嫌われている。謂れはこの国の創成にまで遡り、神話の域を出ないような物だが、実際に母親の命を奪って生まれた子供が家族を不幸にして死へ至らしめるという事例が多く残されていた。
偶然なのかそれとも必然なのか。
科学の発達した時代にそんな迷信染みたことを信じるのかとを多くの人は笑うだろうが、忌み子が生まれた時には家族全員が恐怖で青ざめるというのだから余程根深い。
気味悪がって捨てられる子供も多いそうだが、勿論家族に愛されて育てられる場合もある。
ヒビキのように。
その場合は大体十二歳から十三歳を迎える頃に“運命を変える”といわれている耳に穴を開ける儀式を父親又は兄が執り行う。男が儀式を行うのには理由があり、女である母親の命を喰らった子を同じ女性である姉が忌むべき子の耳を傷つけた際に突然憤死したことから男性のみの儀式となった。
豊かさと智を表す耳を傷つける行為を嫌う風習がそれこそ昔から根付いている。他国では耳に穴を開けて宝石などで飾る人もいるらしいが、スィール国では一般的では無い。
傷つけることによって失われる幸運や知恵をなによりも恐れている。罪を犯した人間の刑罰に耳を切り落とす物もあり、耳に傷や穴がある者は罪人か忌まわしき子であると後ろ指を指されるのだ。
実際の儀式でどんなことが行われるのかはヒビキも解らない。
だが十三歳を迎えたその時に父が「迷信だ」と一蹴して儀式を行わなかったことから、きっと厳しい父でも躊躇うほどの内容なのだと察することはできる。
今の運命に風穴を開けるという意味を持つ儀式を、十四歳になっても経験していないことがなにより不安で、家族の命を奪うことになるのかもしれないという恐怖はヒビキをいつだって苦しめる。
父が迷信だと儀式を行ってくれないのならば、後はホタルに縋るしかないのだが心優しい兄がヒビキを傷つけることを許容できるとは思えない。
「それならば、どうすれば」
わななく唇を前歯で噛み、頬を濡らす涙を手の甲でぐいと拭った。
アゲハしかいない。
この耳は不完全で、知りたいと願うことは一欠けらも拾ってはくれなかった。
だから父の考えも、ホタルの迷いも、キョウの悩みも、アゲハの苦しみもヒビキはなにひとつ知らないまま。
家族の幸せも命も喰らいつくすなんて絶対したくないから。
「探そう」
アゲハを。
そして一思いに生まれた家柄への恨みや父への憤りをぶつけてくれればいい。無責任に頼ったヒビキへの怒りも込めて。
「アゲハお兄さま、どこにいても必ず」
見つけてみせるから。
また辛い思いをさせることになるが、他に方法がない。
「憎まれるべきは私だから」
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