エピソード74 救いの手


 弾む息を互いの唇を重ねて飲み込みながらもつれ合うようにして寝台に倒れ込む。白いシーツに金茶の髪が散り、柔らかに波打つ。

 性急な手がシャツの裾を捲り上げて腰から白い双丘へとゆっくりと這い上ってくる。

 汗ばんだ掌が肌に張り付いて気持ちが悪い。

「ちょっと、待って」

 イゾラは身動ぎして男の頭を優しく押し止めた。

「誘ったのはそっちだろう。今更止められない」

「やだ。誰も止めてなんていってない。ちょっと待ってっていっただけ」

 妙に凄味のある目に見つめられて背筋がぞくぞくする。体重を乗せて逃げられないように押え込んでくる男の名はセクス。第六区の討伐隊を率いる将校で部下たちには堅物として恐れられている。

 さすがに堅物という噂されるだけのことはあり、最初はいくら声をかけても色目を使っても靡いて来なかったセクスだったが、戦闘が激しくなり余裕がなくなってきたのか昂ぶった神経を押え込むのに苦労していたようで偶然を装って挨拶したイゾラの腕を引いて討伐隊が借り上げている宿屋に連れ込んだ。


 ようやく。


 薄らと笑ったイゾラを至近距離で見下ろしてセクスが眉を寄せる。

「焦らすのか?悪い女だな」

「嫌い?」

「……そうでもない」

「正直ね」

 顎の下に指を添えて引き寄せ口づける。最後に良い思いをさせてあげようと気持ちを籠めて深く貪るようにキスをすると、セクスは堪え切れなくなったのか全体重をかけて腰を押し付けてきた。

「そんなに急がなくても大丈夫よ」

 だが男は聞こえないのか、それとも聞こえていて無視しているのか身体全体でイゾラの柔らかな肉体を味わおうとするかのように蠢く。

 指を詰襟の隙間に差し込んで緩め、幾つかボタンを外してセクスは一旦上半身を起こすとイゾラの腹の上に跨ったまま鋭い目つきで見下ろしてきた。そうして残りのボタンを乱暴に外して上着を脱ぎ、アンダーシャツも引き千切らんばかりの勢いで頭から抜く。

 月明かりに男の鍛えられた上半身が浮かび上がり、唾液でも飲んだか突き出た喉仏が上下に動いた。


 思っていたよりもいい男だ。


 素直な感想を抱きながらイゾラも自身のシャツをたくし上げて急いで下着姿になる。脱ぐ瞬間にセクスの顔は見えなくなるが、それでも注がれる熱い視線に腰が痺れた。

 互いに楽しめればそれに越したことはない。

 相手に合せるだけの繋がりなど疲れるだけで、演技するのも楽では無いのだ。

「……惜しい男ね」

「なにがだ?」

 肌が触れるだけで熱が伝わる。

 燃え上がった身体は上り詰めるまで冷めることは無いだろう。男の首にしがみ付き、いつの間にか穿いていたスキニーパンツから解放されていた素足を引きしまった腰に絡めた。

 さすがに殺すのが惜しいのだとは答えられずにイゾラは笑いながら胸に顔を埋めて強く吸いつく。セクスが低く喉の奥で唸る声を聞きながら互いの身体を探り合う作業に没頭していると不意に轟音が鳴り響いた。


 ズウゥウウン――。


「なんだ!?」

 地鳴りのような音は尾を引きながら小さくなっていく。やがて聞こえなくなるが、宿屋の周囲と他の部屋にいた非番の兵たちが騒ぎ始め鋭い一声が外で響いた。

「敵襲!!」

「くそっ」

 目に苛立ちを滲ませセクスが寝台から飛び降りる、その腕を掴んでイゾラは引き止めた。肘に胸を押し付けて拗ねたような表情をして上目遣いで男を見上げる。

「放せ、行かないと」

 堅物と呼ばれているセクスは職務優先らしく、さっきまで入れあげていた女の手を舌打ちと共に振り解いて衣服をさっさと身につけて行く。

 色欲の昂ぶりを戦闘の昂ぶりへと瞬時に変えて、イゾラなど見向きもせずに入口へと移動し始めた。

「本当に」

 惜しい男だ。

 寝台からするりと滑り降りると、シャツの胸ポケットに入れて置いた折り畳みナイフを取り出す。

 手に馴染んだ柄の感触と手入れを怠ったことの無い刃の切れ味は、幾人もの男を死へと追いやったことからも威力に疑問はない。

 刃を引き起こしてイゾラはそこに映る自分の顔にいつものような酷薄な笑みが浮かんでいることを確認すると、裸足で床を蹴りセクスの背中に飛びついた。

「おい!なにをするっ」

 叫んで振り払おうとするセクスの首に左腕を巻きつけて両腿で男の腰骨を挟む。足先を内腿に絡ませて自分の身体を固定すると、左腕を顎の下まで移動させて鎖骨の少し上の隙間にナイフの先を埋め込んだ。

「っぐあ」

 セクスの指がナイフを掴む手の甲に食い込む。じりじりと深く刺さって行く感触と上手く息ができない苦しさに震える気管。痛みの後から遅れてじわりと吹き出す血液。日々鍛錬と戦闘で鍛えられた筋繊維はイゾラの侵入を拒むように締め付ける。

「きさ、っく」

 最早まともな言葉など発することはできない男の耳元に唇を近づけて「殺すには惜しい男だけど」と囁いた。

「気紛れのイゾラに目をつけられたのが運のつき」

 カルディアに住む人間たちはイゾラのことなど知りもしないだろうから、近づいてきた女の危険性など考えもせずに寝台へと連れ込んでしまうのだ。


 馬鹿な男たち。


 不安定な体勢では上手く力が入らない。しかも軍人の肉体はイゾラが今まで手にかけてきたような男たちと違って鋼のように硬かった。

 苦しみ悶えながら前屈みになり、セクスが両腕を掴んでイゾラを振りほどこうと扉の横の壁に体を激しくぶつける。背中を叩きつけるように体当たりするので、イゾラは肩と脚を挟まれ悲鳴を上げた。

 喉にナイフを刺されながらも激しい抵抗ができるのだから軍人とはどれだけタフなのか。それとも鍛え方が違うのかもしれない。


 簡単には殺れないか。


 再び壁にぶつけられイゾラはくるりと視界が回るのを薄笑いで眺めた。しっかりとしがみ付いていたはずなのに四肢から力が抜け、振り回された肩と腕により床へと投げ飛ばされる。

 背中から落ち、衝撃で息が止まった。

 起きなければと脳は解っているのに、口を開けても上手く呼吸ができないことで軽い恐慌状態に陥っている身体は全くいうことを聞かない。喉を抑えて横臥し、涙を流しながら何度も大きく息を吸おうとするが、その度に激しく咳き込んでしまい更に苦しむことになった。

「おまえも、反乱軍の」


 一員か――。


 地を這うような声を暗がりの中で聞くことがこんなにも恐ろしい物かと実感しながら、あの男がセクスの叱責を受ければどんな秘密も話してしまうと言っていた言葉を思いだし涎塗れの唇を歪めて笑う。

 ドンッとなにかが壁に投げつけられる音がして、イゾラは霞む目を向けそこにセクスを刺したはずのナイフが刺さっているのを見つけた。

 生臭い血の匂いを纏った気配が近づいてくるのに身震いし、必死で床に両腕を這わせて逃げようとしたが遅かった。背中を直に踏みつけてくる硬い軍靴に縫い止められ自由を奪われる。

 男が制服を着て普通の男から軍人に変わる前に殺しておくべきだったと今更後悔しても後の祭りだ。

「く、あう!」

 容赦なく全体重をかけてくるせいで背骨が軋む。御丁寧にも蟻でも踏みつけるかのように足を動かしながら執拗に痛めつけようとする根性の悪さに反吐が出る。

 人の金品や命を奪って生きてきた自分がまっとうな最期を迎えられるとは思っていなかったが、まさか全裸で男に踏みつけられながらだとは。あまりにも似合いすぎて逆に笑えてくるから不思議である。

「なにが、おかしい?」

 怪訝そうな声が降ってくる。同時にイゾラの首筋に生暖かい液体が落ちてきて、金臭い臭いにそれがセクスの血なのだと気づく。

「こんな時にでも恐がらずに笑うとは、随分頭のいかれた女だ」

 イゾラの答えなど元から期待していないのだろう。呆れているというよりも感心したかのように呟く男が身じろぐ衣擦れの音をぼんやりと聞いた。

 やがて後頭部に硬く冷たい物が押し付けられカチリと金属のなにかが外れる音がする。


 ああ、終わるのだ。


 取り立てて幸せでも、不幸でも無かったイゾラの人生が。

 今、終わる。

 痛いだろうか?

 苦しいだろうか?

 それとも一瞬の出来事か。

 一瞬が永遠へと導くのならば終わりもまた悪くは無い。

「は、やく」

 目を閉じて身体から力を抜くとセクスが息を詰める気配がした。そして空気が張り詰めて行く。外ではアポファシスかフォルティアのどちらかが猛攻撃をしているはずだが、この部屋だけは世界から隔絶されたかのように静かだった。


 身体が震えるのは恐ろしいからか、それとも寒いからなのか。


 なかなか引き金を引かないセクスに痺れを切らして、イゾラは目を開けて頭を動かし後ろを見る。視界を銃口が横切り、それが眉間に当たった所で動きを止めて男を見上げた。


「なぜ?」

 セクスの瞳には怒りや暴力的な感情は一切なかった。ただ憐れむような色を湛えてじっとイゾラを見つめている。

 黒い制服の胸元が地色とは違う色に染まり、重く湿っているのを見て初めてイゾラは己の行為を恥じた。


 そして畏怖した。


 今まで殺し損ねたことが無く、殺されることを責める者など誰一人いなかったから。初めて目の当たりにした自分が殺そうとして生き残った男の姿は、それだけで雄弁に物語っていた。


 イゾラの愚かさを。

 そして身勝手さを。


「い、や。殺して、はやく」

「死にたかったのか?」

 セクスの言葉に本当は自分が生きていることに倦んでいたのだと気づかされる。幸せも不幸も手に入らず、そして誰かを強く憎むことも愛することもできずに孤独に生きてきたイゾラの今までを振り返って。

「そう。死にたい」

 あなたの手で。

 殺されたいと告げればセクスの銃を持つ腕に力が入る。緊張しているのか銃口が小刻みに揺れて、迷いを見せる双眼がちらりと反らされた。

 幾人もの人間を殺して来たはずのセクスが殺して欲しいと懇願するイゾラの願いを叶えられぬわけがないだろうに。

 男の逡巡がどういった感情からくる物なのか全く理解ができないが、統制地区の女をひとり殺した所で状況は変わらないとでも思っているのか。

「殺すのが、惜しくなった」

 不意に銃を下ろしてセクスは背中から足を退ける。後退しながら喉に手を当てて息苦しそうに空咳をし、べったりと血の付いた掌を眺めると微苦笑した。

「殺すのが、惜しい?」

 信じられないような返答にイゾラは恐怖を覚えて身を起こす。セクスの立つ反対側の寝台へと這い進んで、そこにあったシャツを羽織って下着も穿いた。その間も男から視線を反らさずに身づくろいを終え恐る恐る立ち上がる。

「お前も、そう思ったんだろう?」

 確かに殺すには惜しい男だとは思ったが、そのことで殺意が薄まった訳では無い。実際に行動を起こしたし、始めたからにはなにがなんでも殺そうと思っていた。

 セクスのように途中で止めたりはしなかった。

「……いかれてるのは、どっちよ」

「違いない」

 肩を竦める姿は軍人では無く普通の男に見える。セクスはナイフの刺さった壁まで歩み寄り、左手で引き抜くと寝台の上に放り投げた。

「外の騒ぎが収まったらここを出て、二度と近寄るな」

 ドアノブを掴んで背を向けたセクスの言葉には紛れも無くイゾラの身を案じる思いと、そして二度と会わないという苦渋の決断が滲んでいた。

 つまり殺そうとしたことを不問にし、尚且つ見逃してくれるということ。

「本当に、いかれているのはどっちなの?」

 イゾラは声を荒げたが、セクスの方は肩を揺らして笑っただけでドアを開けるとその向こうへと姿を消した。

 重い音を響かせて閉じたドアの前まで駆けて、ノブへ手をかけようとした時そこにこびり付いた赤いセクスの血を眺めて固まる。

 その間わずか数秒か、数十秒に満たない時間だった。

 銃声の発射される音が三発。

 はっと顔を上げて我に返る。

 近かった。

 すぐそこで発砲された音だった――。

「セクスっ!」

 ドアに身体をぶつけるようにして押し開けて、イゾラは廊下へと飛び出した。なにかが焦げるような匂いがして、多くの気配や足音が建物内を走り回っている。言い争うような声と銃の音。悲鳴や呻き声と共に勝鬨が上げられる。

「そんなっ」

 廊下は左右に伸びている。左は階下の食堂へと降りる階段、そして右は受付カウンターのある宿屋の玄関へと向かう階段。

 歓声は右の階段側。

 廊下の行き止まりにある階段の手前で倒れている人影。そして銃を構えながら上がってくる黒いTシャツを着た男。その横にアポファシスのメンバーの男が並んで歓喜の声を上げていた。

「やめて!」

 叫びながらセクスに駆け寄り、その上に覆いかぶさって男の銃から庇う。華奢なイゾラの身体ではセクスの身体を覆うことはできないが、それでも銃を構える男を非難を籠めた目で睨んだ。

「お前、イゾラか!?おい、解ってんのか?そいつはこの第六区討伐隊の隊長だぞ!」

「解ってるわよ!」

 アポファシスの男はイゾラを知っている。驚きながらも庇っている男の素性を暴くが、そんなこと解っている上で命乞いをしているのだ。

「お願い、殺さないで」

「ふざけんな!そいつは敵だぞ!?カルディアの人間で、この第六区を戦場にし、おれたちの仲間を沢山殺した!」

「解ってる!解ってるけど、お願い……殺さないで」

 懇願している内に頬が濡れていた。気付かないうちに泣いていたのか、男がそれを見て怯み口籠る。

「どうする?」

 黒いTシャツの男が問う。問われた男は戸惑いながら「どうせ、その傷じゃ助からない」と呟く。

「助からない?」

 イゾラは慌てて倒れているセクスの顔を覗き込み、意識が混濁し呼吸が乱れているのを確認する。そして撃たれた場所を探して手探りすると一発は左肩に、腹部に一発、そして胸に一発――。

「いや、ちょっと、勝手に死なないで!あたしが殺そうとしても死ななかったくせに!」

 さすがに三発も喰らえばセクスとて無事では済まない。

「いや!お願い、」

 縋りついて泣くしかできないなんて。

 悔しすぎる。

「どうした?」

 新たな声が加わり、二人の男は「それが」と言いよどむ。なにもできない人間がひとり増えた所でなにも変わりはしない。

 セクスの胸に手を当てて、じわじわと染みだしてくる血を少しでも止めようと力を入れる。泣きながら必死で両手を押さえつけてもイゾラの指の間からまるで泉が湧くように赤い液体が溢れてきた。

「お願い、死なないで」

 祈るような思いで呟いていると、階段を上ってきた男がそっと床に膝を着く。黒いTシャツが見えて、さっきの銃を構えていた男かと思い近づくなと文句を言おうと顎を上げる。

 だがそこにいたのはがっしりとした体躯の若い男で、セクスにまだ息があることを確認するとイゾラを力強い金の瞳で見つめ返してきた。

「腕のいい医者がいる。そこに運ぼう」

「……助けて、くれるの?」

「おい、タキ!」

 銃を持った黒いTシャツの男が狼狽して呼びかけたタキというのが目の前の男の名前なのだろう。

 だがそのタキという男はセクスの身体を肩に担ぎ上げて立つと大股で階段を下りて行く。助かって欲しいと心の底から願ってイゾラもその後を追った。

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