エピソード44 ここが帰る場所
痛みなど感じなかった。
蹴られ、殴られた直後はあんなに苦しんだのに今は全てが凍りついたかのようになにも感じられない。
所詮人は自分のことしか考えられない、醜い生き物なのだ。
弱い。
その癖、業が深いのだから始末に負えない。
気温は昼間を過ぎて上がっているのだろうが、太陽の届かない玄関に座り込んだままのアゲハには暑さも寒さも関係なかった。廊下の床の上にリビングの窓から射し込む陽の光が徐々に手を伸ばしてくるのを、まんじりとせず眺めているだけ。
ホタルはキョウに会えたのだろうか。
シオを救い出す手などあるのか。
「きっと……なにも、できない」
どんなに手を尽くしても保安部に囚われたシオは労働力として北へと送られるだろう。幾ら兄と姉が動いた所で何の権力も持ち合わせていないのだから正攻法でシオを自由の身にすることはできない。
父ほどの権力と地位を持っていれば可能だが。
「あの人が、力を貸すとは思えないし」
ホタルやキョウが頼んだ所で、価値の無い人間一人を救い出すことに同意も許可もしない。捨て置けと冷たく言い放ち、付き合う相手はよく選べと接点を切られるのがおちだ。
あんなに嫌悪し、拒絶した家柄や国家権力しか結局現状を変えることができないことにアゲハは自嘲の笑みを浮かべる。
「所詮この世は金と力が物を言うのね」
口にすると酷く虚しくなってくるが、それが事実なのだから仕方がない。
考えれば考えるほどできないことばかりで、それを数えて立ち上がれなくなっているのでは意味がないのだが、気付けば何時間も同じことを考えて気落ちしている。
「意味ってそんなに大事なこと?」
今朝聞いたスイの言葉が再び蘇る。全てに意味を求めるから苦しくて動けなくなるのだと説いた彼女の力強い真っ直ぐさはアゲハには眩しすぎた。
スイが言う通り今まさに考えすぎて、動けなくなっているのだから笑えてくる。
肩を揺らして頭を鉄の扉に押し付けるとほんの少しだけ冷たさを帯びた感触が頭皮を伝わってきた。
目を閉じて呼吸を浅くすると耳に階段を上ってくる軽やかな足音が聞こえてくる。小さな足が交互に交わされて、急で狭い段を狂いのないリズムを刻んで。
ああ、帰って来た――。
安堵と喜びが同時に湧き上がってアゲハの心を満たしていったが、すぐにこんな時間にスイが帰って来るわけがないのだと冷静で残酷な思考が打ち消す。
学校の授業は午後三時過ぎまであり、終了後寄り道せずに帰って来たとしても四時くらいになるのが普通だ。
今は正午を少し回ったくらいのはず。
つまりこの足音は幻聴か、別の人間の物。
「ほんと、どうかしてる」
浮上した後の絶望程打ちのめされることは無いだろう。込み上げてくる嗚咽が喉を震わせ、目蓋の裏を熱く湿らせていく。
スイはあの学び舎から保安部に連れられて行ったのだから、もう戻ってこない。
シオのように。
そしてタキも。
「ど、して」
世界は無慈悲で残酷だ。
特にこのスィール国では自由も、夢も簡単には手に入らない。安全も平穏も、誰かの温もりも。
「アゲハー!いないの?」
唐突に扉が叩かれ、現実に引き戻された。朝出かけて行ったままの明るい声が鉄の板の向こうから聞こえてきている。
まさか。
身を硬くしてアゲハは息を詰める。もしまた気のせいだったとしたら二度と立ち上がれる自信は無い。
それでも縋りつきたくて腫れ上がった右手を伸ばしてノブの上にある鍵を解除する。座ったままの姿勢で把手を握り押し開けた。
「スイ、ちゃん」
「ちょっと、アゲハ!どうしたの!?」
金の瞳を真ん丸にしてスイが通路に立っていた。Tシャツにショートパンツ、足首までの靴を履いて出て行った時のままの姿で目の前にいる。
アゲハは両手を床に着けてぼんやりと見上げた。
「帰ってきてくれた……」
「なんで?帰って来るに決まってる。ここしか帰る場所なんてないんだから。それよりその怪我、一体どうしたの?」
信じられないがどうやら本物のようで、スイは扉とアゲハの間に入り屈みこむと細い指を伸ばして顎に触れてきた。その瞬間何故かスイの方が痛みを堪える様な顔をするので、つい頬を綻ばせてしまう。
「え?なに?こんなにひどい傷なのに痛くないの?アゲハ、それちょっと変態っぽいんだけど――ちょ、アゲハ?」
アゲハの笑みを見てぎょっとしてスイが手を引くので、咄嗟にその小さな掌を掴んだ。薄くて、柔らかな温もりが切なくて。
悲しくて。
「スイちゃん……ごめんなさい。私、スイちゃんに謝らなくちゃいけないことが、」
伝えなくてはならないことはスイにとって激しい動揺と衝撃を与えるものだ。本当は教えたくはないが、今言わなければきっと言い辛くなる
「謝るって、なに?」
なにかを勘付いたのかスイの声は固く、表情は引き攣っていた。金の瞳が揺れて視線を逸らされた――シオの自転車の方へ。
その途端に瞳が歓喜に輝いたが、傷がついてフレームが曲がった自転車に気付くと瞬く間に翳って行く。
「これ、シオのだ」
呟きはあまりにも空虚な響きを帯びていて、スイの悲しみを表現できていない。
アゲハはそっと手を放して再び床に着けると、身体を折り曲げてその上に額を乗せた。
「ごめんなさい、スイちゃん。シオちゃんは保安部に連れて行かれた。私、なにもできなくて、」
間に合わなくて、と続けた後でぽつりと聞こえた「嘘だ……」という呟きにアゲハは頭部を激しく殴られたような気がした。
嘘ならどんなにいいか解らない。
それでもシオは目の前で保安部に連行され、アゲハは無様な姿のままで取り残された。どんなに言い訳してもスイから見れば、大切な兄が連れ去られるのを止められなかった頼りにならない悪者だ。
責められ、恨まれるのは当然だった。
そして受け入れられないことも。
「ごめんなさい、本当に、私、なにひとつ上手くできなくて、いつも、いつも、大事な時に、ごめ、なさい……」
泣いてはいけないと解ってはいても、視界を歪ませるほどの涙が次々と溢れてぽたぽたと手の甲へと落ちて行く。
謝罪の言葉も震えて声にならないまま、それでもスイからの怨み言がアゲハを打つまではと必死で繰り返した。
あまりにも何も言わないスイを不思議に思ってそっと視線を上げると、彼女はじっと自転車を見つめて唇を噛んでいる。眉を苦しそうに寄せて、大きな金の瞳で兄の姿をそこに透かし見ているかのように真っ直ぐに。
愛らしい丸い頬の緊張を解き、きつく結ばれた唇を開いて「本当に、なにもできなかったの?」と漸くかけられた声のどこにもアゲハを責める色が無かった。
それが逆に辛くてただ黙して頷く。
「役立たず!死ぬ気でなんとかすれば、シオは助かったかもしれないのに!」
大きく息を吸って吐き出された言葉たちにアゲハはびくりと身を竦めた。息継ぎをして直ぐにスイは言を連ねる。
「どうしてなにもできなかったの!?本当にできることはなにもなかったの!?謝れば赦して貰えると思ってるの!?」
顔は自転車の方を見ているので、スイがどんな表情をしているのかアゲハからはよく解らなかった。膝の上で作られた小さな拳が小刻みに揺れているのは涙を堪えているからなのか。
「スイちゃ」
「ふっざけんなー!!」
勢いよく振り向いてスイが拳を叩きつける。悔しそうに顔を歪めて右、左と交互に何度もアゲハの胸を打つ。目元が赤いがその瞳に涙は無かった。
「ふざ、けるな!そんなこと言うわけない!言ってやらない!アゲハはそうやって責めてもらいたかったんだろうけど、そんなの、思い通りにしてやらないから!」
喉を震わせて息を吸うとスイはその目に優しい色を浮かべて、くしゃりと微笑んだ。力強く絵を描き出す手でアゲハの頬を挟む。
その指に目尻から流れた滴を受け止めてくれる。
「アゲハがなにもしなかったわけじゃないことくらい解る。こんなに怪我して、泥だらけになってシオを助けようとしてくれたんでしょ?」
「ちが」
「違わない!アゲハがシオを見捨てるような人じゃないって知ってる。一生懸命やってくれたって信じてる。だから、泣かないで」
否定しようとする言葉をスイが鋭く遮り、更に頭を横に振ろうとすると両頬を包む手が阻む。
「……先に泣かれたら、泣けないじゃん」
だから泣かないで――。
スイの懇願の後にシオの声が再び聞こえた。
連れて行かれる前に叫んだあの声が。
アゲハ、スイを頼む。
そうだ泣いている場合ではないのだ。シオに頼まれたのだからスイを護るのは自分の役目で、こうして無事に帰って来てくれたスイをシオに代わって支えなければならない。
「ごめん、スイちゃん。もう泣かない」
洟を啜って眉間に力を入れる。
できないことを数えるより、できることを数えよう。そして実現可能なことから実行して、ひとつずつ先へと進めばいい。
「スイちゃん、お腹空いてない?」
先ずは腹ごしらえ。
朝食を抜いているスイはきっとお腹が空いているに違いない。
「お腹ペコペコだから、部屋に帰るより先にここに来たのにアゲハがめそめそしてるから」
「ごめんなさい。さあ、ご飯にしましょう」
スイの手をそうっと退けてから立ち上がると、随分長いこと座っていた脚が痺れて腰が鈍く痛む。遠退いていた顎と右手の甲の痛みもぶり返してきたが、今は泣き言を言っている場合では無い。
「ねえ、朝のオムレツちゃんと取っておいてくれてる?」
「もちろん」
アゲハが頷くとスイが「やった!」と喜んで開けっ放しだった扉を閉めて施錠する。その音を聞きながら廊下を歩いてリビングへと向かう。太陽の光が温めた部屋は快適とは言えない暑さで、アゲハは窓辺に寄り開け放つ。
小さな靴音が入口に立ちそこで止まる。
どうしたのかと振り返るとスイが眩しそうに目を細めて光を遮ろうと手を翳した。影ができたその下で小さな唇が「ありがとう、アゲハ」と動く。
責められて当然のアゲハに何故感謝するのか解らない。
「でも、シオのこと信じたくないし、受け入れたくない、」
華奢な身体が冷たい風に晒されているかのように小刻みに震えている。孤独と悲しみに怯えて泣いている。
「こんなの酷いよ、なにも悪いことしてないのにシオを連れて行っちゃうなんて、喧嘩したまま会えなくなるなんて知ってたら、もっと優しくしたのにっ」
後悔は兄と仲直りの機会を失ったこと、そして恨むのは運命では無く国だ。
アゲハは階段で向き合った時のタキの様子を思い出す。寂寥と悔恨を振り切るように輝いた強い決意の瞳で告げられた「元気で」の言葉は、タキがここへ戻るつもりがないのだと雄弁に語っていた。
シオがいない今、本当はタキの元へとスイを連れて行ければいいのだが彼の行方が解らない。
誰に聞けばいいのかも解らない。
スイは兄を二人同時に失ってしまったのだ。
そのことに気付いているのだろうか。
「偉そうにしてる奴らが全部悪いんだ。だからアゲハは悪くない、悪くないよ……」
「――――っ!!」
嗚咽を上げながら泣いているスイの傍まで走って行き、ぎゅっと抱きしめた。あまりにも小さくて力を入れると壊れてしまいそうなのに、泣いて体温の上がったその身体の熱さにスイの強さが感じられる。
光と魂の力。
「スイちゃんは、私が護るから」
「アゲハ――」
「大丈夫、シオちゃんもタキちゃんもここへ帰って来る。スイちゃんがいる“ここ”がみんなの帰る場所だから」
腕の中で頷いた頭をそっと撫でて寄り添う。再び聞こえた「ありがとう、アゲハ」という声に「こちらこそ、無事に帰って来てくれてありがとう」と応えた。
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