エピソード41 次の無い別れ
キョウはそれらを三階の執務室の窓から覗き見ており、善良な市民の姿が豹変して行くことに恐怖を覚えた。
彼らは瞬く間に怒りに目を燃え上がらせ、まるで一個の生き物のように蠢き始めた。バリケードを作る隊員たちにまるで大波のように激しく押し寄せ、うねりながら飲み込んで行く。
集まった百人近くの住民に踏みつけられればひとたまりも無く、訓練をしている隊員たちでも物言わぬ肉片へと変わり果てるだろう。
恐ろしい。
国民は善良で無垢な無知であれ、と総統や司令官たちは言う。それが彼らにとって幸せであり、多くの物事に惑わされずに一生を終えられるための最善の方法なのだと唱えていた。
それが本当に幸せで正しいことなのかは解らない。
キョウ自身首を傾げたくなるようなことでも、身を置いている保安部ではそれを推奨し、実行する為の部隊である故にそれを口にすることは憚られた。
ただ人とは元来疑問を抱き、考えて成長して行く生き物だ。知識を与えられなくてもそれぞれ思考し、身を粉にして働いて日々を生きて行く。
逆に教育を受けられなかったからこそ簡単にテロリストの声に耳を傾けてしまう危険性をも含んでいるとキョウは思う。確かに聡くなれば欲が出て、善良さや無垢さを失う。だが無知だからこそよく考えずに犯罪に走ってしまうこともまた事実だ。
「結局なにが正しいのかなんて、創造神にしか解らないのかもしれない」
テロリスト名簿に載っていなかったというあの青年シオの言葉を思いだし、キョウは困惑の表情を浮かべた。
「マラキア国と戦争?本当に?」
北の開墾とは狂言で、真実は北の強国マラキアと戦争するとは――俄かには信じられないが、彼の言葉を聞いて兵が顔色を変えて黙らせようとしたことからも事実のように感じる。
問題は戦争のことでは無い。
そのことをキョウが知らなかったということが一番の懸念だった。
軍とは最高司令官や将のつく位の者にのみしか作戦の本質を知らされないことが多い。そのことは別段気にはならないが、今回の件ではキョウは知らないのに下士官の者たちが知っていた。
キョウを飛び越えて下士官がなんのための大規模捕縛作戦なのかを確実に認知していたということは少なからず自尊心を傷つけた。
「……解ってはいるつもりだったけど、あからさま過ぎでしょう」
まだ夜も明けきらぬ中で声をかけてきたクラウドを思い、彼は知っていたのだろうかと訝る。そして知っていたのだろうと決めつけて、教えてくれなかったことを勝手に責めた。
身勝手なのは解っている。
ただ誰かの所為にしなくてはあまりにも辛すぎるのだ。
「――っ!なに!?」
突然地鳴りのような音が轟いて建物自体が大きく揺れた。物思いに耽っている内に事態は急変したらしい。
目の前の小窓に勢いよく黒い煙が上がり、ばらばらと壁の破片が音を立ててぶつかってくる。隙間から鼻に突く爆薬の匂いと黒煙が入り込み激しく咳き込んでいるキョウの耳にけたたましい警報が鳴り響き、爆破された箇所とそこから二名の侵入者が入ってきたことを端的に伝えてきた。
「行かなくては!」
場所は隣の部署である科学技術部だ。彼らは戦闘に長けてはいないため、各部署から応援が要請されていた。
扉へと走ったキョウが辿り着く前に外側から引き開けられ、紺色の軍服に身を包んだ若き下級将校がずかずかと入ってきた。唾のある帽子の下から金茶の髪を覗かせ、色気のある目元とくすんだ青色の瞳を持つ青年は無造作に腕を広げてキョウの行く手を遮る。
「なんのつもり!?」
「外は危険です。どうかこのままで」
「は?このまま!?」
安全な場所でおとなしくしておけと言う。
彼はリョウと言う名で直属の部下に当たるが、独断で行動しキョウの決めたことに従わないことの方が多かった。父が手配した者であることは明白で、常にキョウの安全を優先する。
「そんなに危険なことから遠ざけたいのならば、違う部署へと入れるべきでしょう!」
怒りの矛先を向ける相手が違うことなど解っているが、目の前の青年に当り散らすしか溜まった鬱憤を晴らすことができない。
悔しいが。
案の定リョウは目を細めて「私に言われても困ります」と肩を竦めた。年齢は同じなはずなのに、彼はこうしてキョウを聞き分けのない年下の女のように扱う。
侮られることには慣れてはいるが、一緒にいる時間が誰よりも多い青年に子供だと思われているのはとても腹が立つ。
ただこうして感情に任せて叱責し、八つ当たりをする時点で子供なのだと後悔するのはいつものことだった。
「なにをさせたくてここへと入れたのか聞きたいわ」
愚痴のような独り言を零せばそれすら失笑されて。
「一度尋ねられてみては如何ですか?お父上様に」
「貴方は知っているんじゃないの?父の思惑を」
「私はハモン様とは違いますので」
言外に父ナノリとの繋がりは無いのだと示しているのだろうが、そんな言い訳が通じるほどキョウも馬鹿では無い。
「どうせ混戦している状況で私がいては邪魔でしょうから、おとなしくここにいることにするわ。だから貴方が代わりに応援として向かいなさい」
「……それは御命令ですか?」
心底から不思議そうな顔で問い返してくる神経が解らない。
命令以外のなにものでもないのに、今回もやはり従う意志はないようだ。
「命令に決まってるでしょっ」
語気を強めて言えばしれっと「私の仕事はキョウ様が恙なく職務に励むためのサポートです。そばを離れてそれができるとは思えません」と言い放ち優美な笑顔まで浮かべて見せた。
「それに私も死にたくはありませんので」
軍人として言ってはならない言葉に唖然としたが、この男は上官の命令は絶対という最低限のことさえ守れないのだ。それぐらいは平然と口にしてもおかしくは無い。
「命令違反と軍人の規範を破ったとして軍の裁判にかけてもいいくらいね」
「お望みとあればどうぞご随意に」
嫌みも皮肉も通じない相手が部下であるという不運をキョウは嘆いたが、真っ当な会話を求めること自体がそもそもの間違いなのだと考えを改めた。
静かに嘆息すればリョウが「すぐに終わりますから少しの辛抱ですよ」と慰めのような言葉をかけてくれるが、ため息を吐きたくなるほど不愉快な気持ちにさせているのは誰なのか。
たった二人の侵入者に対処ができないのなら軍という組織は無能であると証明してしまう。リョウの発言通り直ぐに治まるに違いないと諦めて執務机の椅子に腰を下ろした。
どれぐらい経ったのだろうか。
恐らく数分から十数分くらい。
再び建物が揺れて今度は天井からばらばらと埃や破片が落ちてきてキョウは驚いて頭を抱え机の下に飛び込んだ。音と衝撃がさっきより近かったことに恐怖心が湧くが、それを面に出さないことくらいはできる。
「なにが」
「聞いてきます。そこにいて下さい」
掌を差し出して制止し、机の下に待機していろとやんわりと命じられキョウは頬の内側を噛んだ。素早い動きで廊下へと出て近くにいた兵を捕まえるとご丁寧にも扉の前でキョウが出てこないように見張っていろと指示して去って行く。
こんな中途半端な護られ方は自意識の高いキョウにとって苦痛でしかない。そのことを父は解っていないのだ。
だから保安部へと勤務させておきながら、戦いから遠ざけても平気でいられる。
護るつもりがあるのなら、ちゃんと部署を選び部下につける者の人選をして欲しかった。
これではキョウがなにもできぬ小娘であると父すら認めていることになる。
母が妹ヒビキを産んですぐに死んでから甘えることは許されず、父の望む優秀な娘であろうと努力を重ねてきた。
それはひとえに父に認めてもらいたいからに過ぎない。
「どこまで頑張れば、」
どこまで行けば認めてくれるのだろうか。
込み上げてくる寂寥感に打ちひしがれるのに机の下は好都合だった。膝を抱えて座り、狭い空間に籠れば、囲われている安心感に心の内部へと潜ることができる。
あの生意気な部下が戻って来るまでの一時的な逃避だ。
大丈夫、すぐにいつもの自分へと戻るから。
現実は数分もしないうちに追いついてきた。扉が開き規則的な靴音を鳴らして近づきリョウが執務室の椅子を除けて身体を折り曲げるようにして覗き込んでくる。
珍しくその目に動揺が見られ、キョウの胸がざわつく。
「な、に?なにかあったの?」
どもった自分が恥ずかしくて頬を僅かに染めるが、それは次の瞬間には色を失い白くなる。
「クラウド様が、殉死いたしました」
クラウド殿が――?
「まさか」
基地で会った時には元気そうだったのに、という言葉は相応しくない。殉死ということは今階下で起こっていただろう侵入者を鎮圧するための戦闘でということになるのだから。
それでは二度目の爆発音の時に巻き込まれたのか。
「なんという、」
瞠目してキョウは声を震わせた。
彼は保安部の中で唯一侮蔑を向けて来なかった男だった。今日会った時も体調を気遣ってくれたのに、それに対して酷く感情的に拒絶してしまった。
クラウドとの最後のやり取りが悔やまれて、もう二度と謝ることができないのだと思うと恐くて涙が溢れる。
「人は簡単に、いなくなるのね」
母の死でも痛感していたはずのことなのに十四年も経てば薄れてしまうのだろう。クラウドの死はキョウに後悔と共に深く恐怖を与えた。
次の無い別れは唐突に訪れる。
それならば慎重に接して、悔いの残らないように過ごさねばならないのだと今更ながら教えられクラウドを悼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます