エピソード32 金縛り


 大きな絵の前にキョウは立っていた。

 広い廊下の壁に等間隔で三十八枚の肖像画が飾られている。その中の三十八番目の人物画を見つめて、どれほどの時間立ち尽くしていたのか。

 銀の髪を後方に綺麗に撫でつけた険しい顔に堅苦しい礼服を着た男が、鋭い水色の瞳で絵の中から見る者を睨みつけている。整った顔立ちはそのまま息子や娘に受け継がれているのは間違いない。

 キョウもよく美人だと誉めそやされるが、顔の造作よりも中身や仕事で認めてもらいたいと思っている所は謙虚では無くただの傲慢さだと自覚していた。


 三十八代目当主ナノリ。


 それがキョウの父親の名前であり、この屋敷の主だった。


「貴方がもう少し優しければ」

 詮無いことを言っていることは解っている。それでも統制地区に部屋を借りて寄りつかなくなってしまった兄のホタルのことや、家を出て行ったアゲハのことを思うとそう思わずにはいられない。

「宜しいのですか?そのようなことを仰って」

 非難めいた声が背後からかけられキョウは細い肩をびくりと跳ね上げた。

 ゆっくりと振り返ると黒の軍服を着た長身の男が無表情でこちらへと歩いてくる。黒い髪と同じ色の瞳の美男子だが、表情が無く冷たい目をしているので近寄りがたい雰囲気を纏っていた。

 カルディア地区で切れ者と評され、彼がナノリの腹心の部下であることが更に父の威信を高めていると軍部の中で畏れられていた。

「私は父のことだとは言っていないわ。それとも貴方にはそう聞こえたの?ハモン」

 苦し紛れの言葉だったがハモンは目を細めてからキョウの顔をしげしげと眺めて「いいえ」と返答する。

「そう聞こえないとも限りません。お言葉には十分注意をした方が宜しいかと」

 相変わらずの鉄仮面にキョウの背中がぞっと震え上がった。一体何を考えているのか解らないこの男にだけは心を許してはならないと気を引き締める。

 多くの女性がハモンを見てはうっとりと頬を染め、視線を向けてはくれないかと期待に胸を弾ませているが、深淵の闇を覗き込んだかのような気持ちになるこんな瞳で見られてはときめくどころか息が止まりそうになる。

 男たちからは嫉妬と羨望の目を向けられるハモンはその持ち前の慇懃無礼さで、彼らからの鬱陶しい嫌がらせを躱してはその名をカルディアに馳せていた。

「忠告のつもりかしら?」

「そうですね。口は災いの元と言いますから」

「経験談?」

「……その点については御存じかと」

 ちらりと浮かべられた微笑にキョウは眉を顰めて距離を取る。いつの間にかハモンはすぐ目の前に立っており、微笑んだ際の吐息や体温までも感じられるほどだった。

 未婚の若い女性に対して接する距離としてはかなり近すぎる。

 簡単に懐近くに忍び込ませてしまったことに羞恥と憤りを抱いて睨み上げると「失礼致しました」と丁寧に詫びてハモンの方も一歩下がった。

 そのことが酷く彼を意識していると思われる行為だと思い至り、誇りを傷つけられた気がして悔しい。

「あまり大きな声で話すような内容では無かったので」

 気を使ってやったのだと上からの発言にキョウはカッと赤くなる。

「気配を消して近づくのは止めて!それから私に気を使ってくれなくとも結構よ」

「失礼しました。熱心にナノリ様をご覧になっていたので邪魔をしては悪いと思いまして」

「父の肖像画を見て何が悪いの?」

 険の含まれた声にも動じずにハモンは姿勢を正したままキョウの八つ当たりを黙して受け止める。

 その子ども扱いに目の前が赤く染まるほど怒りながら掌に指を握り込む。

「貴方が仕えるのは父のはず。私になど構わずにさっさと仕事に戻っては?」

「それもそうですね」

 抑揚のない言葉は耳の奥に入り込んでも余韻を残さず消えてしまう。だがハモンは中々立ち去る気配を見せないので痺れを切らしたキョウが先に動いて玄関のある方へと足を向けた。

 ハモンの向かう場所は父の書斎なので逆方向だ。

 たいした用も無いのにキョウをこれ以上呼び止めたり、追いかけてきたりはしないはず。ほっと力を抜いて油断した所に男の堅い声が追ってきた。

「私が仕えるのはナノリ様ですが、貴女に構うのは個人的な感情からです。それを止めることは出来ません」

「なにを――!?」

 驚きの言葉に振り返った後で後悔した。

 月も星も見えない真っ暗な夜の空のように黒く、虚ろのような瞳に囚われて身動きが取れなくなる。

 言葉だけ聞くと甘い言葉だと間違ってしまいそうだが、そんな浮ついた物は一切そこに存在していない。キョウの一挙手一投足を窺い、値踏みするかのような視線が手足の自由を奪う。

 悔しいが腹芸に長けた人間と、まだ小娘の域を出ないキョウでは器が違いすぎる。

 経験も能力もハモンの方が優れている。

「やっ、」

 喉が締め付けられて声が出ない。天敵に遭遇した動物のように竦みあがって動けないなど情けないやら恐ろしいやらで、目尻に涙が浮かんでくる。

 屋敷には沢山の使用人がいるが、彼らは何故か姿を消しこの廊下に寄りつきもしない。ハモンが人払いをしたのかもしれないと思いついたキョウは、振り返った不自然な格好のまま固まっている辛さに身もだえする。


 誰か。


 まるで金縛りだ。

 この状況を救ってくれる誰かを求めて心で叫んだが、その声が誰かの元へ届くことは無かった。

「どうかなさいましたか?」

 薄い唇が狡猾そうな笑みを浮かべるのを見て怯える自分が嫌になる。誰かに助けを求める自分の不甲斐無さに泣けてくる。

 高校課程を卒業してすぐにキョウは父の言いつけで軍へと入隊し、保安部へと配属された。一通りの訓練はしたが求められているのは戦う強さでは無く肩書としての地位と、兄ホタルが父の跡を継ぐ為の準備に入った際に手伝いができるだけの知識と交友関係を広げることである。

 お飾りの位に傅かなければならない屈強な男たちは陰口でキョウを辱め、または想像の世界で嬲って喜んでいるのだ。

 解っていても毅然とした態度を崩してはならない。

 少しでも隙を見せればそこに付け入り、陰口や想像だけでなく実際に行動を起こす者が出てくるのだから。

 参謀部のナノリの娘だからと遠慮をしているようでは、カルディアで上の位を望むことはできない。

 そして。

 目の前のこの男もまたナノリの腹心の部下で甘んじているような温い人物では無い。キョウを利用し、更に揺るぎ無い場所へと這い昇ろうと画策している。

「ばかに」

 しないでと叫びたかったがその声は口内で留まり外へと出ることは無かった。冷や汗が流れてキョウはハモンの圧力に屈してしまいそうになる。

 膝が震えて、捻った腰が軋む。

「お姉さま」

 愛らしい声が不意に廊下に響いた。ハモンの瞳が動きキョウの頬を掠めてその後ろを見つめる。

 漸く解放されたことに安堵して振り返った姿勢を戻して正面を向く。

「どうかしたの?」

 きょとんとした顔で妹のヒビキが駆け寄ってくる。その小さな手が労わるように腕を撫でて、汗ばんだ頬に空いている手で触れてきた。

 冷たい感触にキョウは目を伏せてため息を漏らす。

「顔色が悪いみたい。具合でも悪いの?」

 肩までのサラサラとした銀の髪を揺らして首を傾げるヒビキの瞳はどこまでも姉を案じている。そっと首を横に振って大丈夫だと伝えると「でも」と気遣うように呟く。

「具合が悪いわけではないから」

「……お姉さまがそういうのならいいけれど」

 納得していない様子だがヒビキは素直に引き下がる。そして後方に立っているハモンへと顔を向けて少し困ったような表情をした。

「ハモン様。あまりお姉さまを苛めないでくださいませ」

「苛めてなどおりませんが」

 言外に心外だと滲ませた声が聞こえた。

 あれは苛めていたという生易しい物では無かった。無言の圧力で屈伏させ、人権と尊厳を踏みにじる行為だ。

 身を震わせたキョウを優しい温もりが支えてくれた。

「男性にはそのつもりが無くても、受け取る女性の方にはそのように感じることもあるのです。どうかご理解してくださいな」

 懇願するかのような柔らかなヒビキの言葉に、ハモンはほんの少しだけ優しさを感じさせる声で答えた。

「そうですね。今後は注意して行動させて頂きます。申し訳ありませんでした」

 謝罪の言葉に身を硬くしてキョウは必死で舌を動かす。

「口は災いの元、なのでしょう?」

「その通りです」

 振り向かずに嫌味を口にしたキョウの抵抗にハモンはどんな表情をしたのだろうか。

 きっと無表情で受け止めて形ばかりの返答をしたに違いない。

「それじゃあ行ってくるわね。ヒビキ」

「行ってらっしゃいませ。お姉さま」

 ふわりと微笑むヒビキの可愛らしい顔を見て和み、キョウは職場という戦場へと向かった。

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