エピソード30 別れの恐怖
スイの食べ残したオムレツを冷蔵庫に入れて、自分の食べた食器を洗って片づけるとすることが無くなりアゲハはそっと息を吐く。
まだ十六歳の少女だがスイの観察眼と聡さには毎回驚かされる。手料理ひとつで見抜かれてしまうアゲハの性格が単純明快なわけでは無い。そこから作った人間の本質を感じ取るスイの能力が高いのだ。
一生懸命に自分の中の思いを言葉にしようと苦しみ、アゲハを叱咤して励まそうとするスイの気持ちは嬉しい反面抉るような痛みをもたらした。
「意味ってそんなに大事なこと?」
彼女は事も無げに口にしたが、殆どの人間が自分の存在意義や行動に自ら意味を持たせながら正当化して生きている。そうしなければ道標を失い、迷って何処へ向かって進めばいいのか解らなくなるからだ。
そして他人の評価や世間体に拘るのは、自信が無いからその指針として常識や他者の目や意見を窺ってしまう。
本当の意味で自由に生きられる者などこの広い大地に一握りの人間ぐらいしかいない。自分の気持ちに嘘偽りなく生きれば弾かれ、孤独のうちに死んでしまう。
スイは強いのだ。
それとも女という性を持っている者は皆そうなのだろうか。
自分とは違う肉体と精神構造を持つ異性に対して細かい所まで理解することは難しい。ましてやアゲハは男という性を持つ者についても上手く受け入れることができなかった。
人には性別があるということ、そしてそのことが影響する精神や嗜好についてだけでなく肉体や機能について知識としては持っていても、正しく理解して納得することができないのだ。
同性の級友たちが異性の女の子を「可愛い」とか「付き合いたい」と口にする感覚も、キスに始まり深い関係になりたいと興奮気味に喋る気持ちも気味が悪くて耳にするのも虫唾が走るぐらいだった。
それがどうやら異常なのだと気づいた時、自分が酷く不完全な生き物なのだと愕然としたのを覚えている。
普通の子たちと同じように異性の子に興味を持てないことに悩み、それならば自分は同性が恋愛対象なのかと怯えながらも慎重に観察してみたが学校だけでなく身の回りにいる異性の誰にも惹かれないことに更に深く傷つくことになった。
自分は誰も愛せない人間なのだ。
それはとても恐ろしく、残酷な事実だった。
「私は臆病で冷たい人間なのよ。スイちゃん」
さっき言えなかった言葉を口にしてアゲハは声も無く慟哭する。最早誰にも恋焦がれない時点で人間ではないのだ。
無限の可能性など秘めているはずがない。
「未来を夢見る希望の光は、私じゃなく」
ホタルや姉妹であり、タキたち兄妹なのだから。
なにも生み出せない社会不適能者はひっそりと、端の方で綺麗に輝く光を憧憬の眼差しで眺めているのが相応しい。
無音だった部屋に微かに扉が開く音が聞こえた。それはこちらの部屋では無く隣室の方からで、どうやら遅くなっていたタキが今帰ってきたらしい。
それならば朝食を準備しなくてはとコーヒーをセットしていると、大股に歩き回る足音が何かを探すかのように部屋を移動しているのに気付き首を傾げた。
「タキちゃんじゃない?」
もしかしたらシオかもしれないと準備を中断してアゲハは玄関に走る。あの日ちゃんと引き止めなかったことを後悔していた。問い詰めるだけでは無くもっと違うやり方で話を聞いてあげることができたら違ったかもしれないと。
スイのいない間に戻ってきたのだとしたら、あの日のことを謝罪して今度こそじっくり話を聞こうと玄関の鍵を開ける。
同時に隣の扉も開いて色を無くしたタキが飛び出してきた。そのままの勢いで階段を上から下まで飛び降りるので驚き「タキちゃん、どうしたの?」と尋ねながら踊り場のタキが見える場所まで移動する。
切羽詰った様子に只事ではないと察することができたが、なにが起きたのかまでは解らない。
金の瞳がアゲハを見上げて揺れる。その一瞬の感情の漣の中に悔恨と寂寥が漂ったが直ぐに迷いを打ち消すように強い光が宿った。「アゲハ、元気で」そう告げられた言葉は間違いなく別れの挨拶。
もう二度と会えないという覚悟にアゲハの足が竦んだ。
「タキちゃん、それどういう」
追及も返答も断ると顎を振り、そのまま階下へと向けて姿を消した。
「一体なにが起きてるの?」
このまま行かせてはいけないと本能が叫ぶ。
こんな別れ方で納得いくのかと心が責める。
アゲハは一旦リビングへと戻り、テーブルの上に置いていた鍵を引っ掴むと再び玄関へ出て鍵を閉めた。
何度も階段を踏み外しそうになりながら十階分を下りて行くが、この速度ではタキに追いつくことは難しいだろう。
それでも諦められずに足を動かして先へと進む。
朝の薄曇りの空から降り注ぐ太陽はそれでも強く瞼を赤く焦がして目を焼く。ぐるりを見渡して整備を放置された道路と石の敷かれた歩道にタキの姿を探すが既にどこにもいなかった。
「……タキちゃん」
握り締めた鍵の先が掌に食い込んで痛い。駅へと向かう人たちの顔色や雰囲気が悪く、いつもより張り詰めていてアゲハが知らない間にこの第四区を重苦しい空気が包んでいるようだ。
「本当に、どうなって」
道路を横断して向かい側の歩道まで小走りで向かうと、二棟先のアパートの入り口に黒い車が停まっているのが見えた。そしてその横に立つ紺色の制服をきた男たちの姿もある。
「保安部!?」
何故?
なにが理由であろうとも保安部が動いているという事実だけで人々は恐れる。冷徹非道で無慈悲なカルディアの人間の集団は、統制地区で暮らす市民から畏怖される対象だ。一旦捕えられたら無実でも解放されることは無い。
きっとタキの帰りが遅かったことや、あの別れの言葉もこのことに関係している。
「本当に、この国をどうしたいの?」
人々を虐げ放棄しながらも利用して、策略上の駒として戯れに嬲って。
どれほど偉いのだ。
総統やそれに追従する愚かな者たちがまるで神のような顔をして、人の生き死にや人生を奪うなど思い上がりも甚だしいというのに。
アゲハはアパート同士の間に作られた小道を抜けて一本向こう側の道路へと出た。保安部の人間が視線を投げてきたが、すぐに興味を失ったかのように逸らされる。
彼らは異様に鼻が利く。
自分たちが取り締まるべき人間かどうかを瞬時に判断し見逃さない。そういう訓練を積んできているのだから仕方がないが、そういう所もまた市民の恐怖を煽る一因となっているのは間違いなかった。
どうやらアゲハは対象では無かったようで、ほっとしながらも安堵した自分に腹が立つ。
『逃走者あり。自転車で走行。第二区方面に向かって北上中』
少しでも状況が解らないかと車の近くを通ると無線が鳴り、起伏の無い平坦な声が捕縛の手を逃れようとしている人間がいると報せた。
『茶色の短髪に黒いブルゾン。細身痩せ型。猛スピードで走行。車の応援頼む』
「了解した」
勿論聞いていたのはアゲハだけでは無い。短く返答して車の中に乗り込んだ男は見張りを残し、二人で現場へと向かうようだ。
「茶色の髪と自転車」
しかも第二区は学校のある区域だ。
タキが部屋で探していたのは多分スイだろう。そして登校した後の彼女を追って学校へと向かうのはきっと彼だけでは無い。
「シオちゃん?」
どんなに小回りの利く自転車で逃げ回ろうとも、組織的に動くことを訓練された保安部の手から逃げ切ることは難しいはずだ。どれだけの人数がこの第四区に投入されているのかにもよるだろうが、街全体を包むかのような緊張感は十人、二十人程度ではないだろう。
頼りない情報だけでシオを探すことは出来ないのに、アゲハはそれでも車が向かった方を予測してアパートの間を走り抜けた。
シオは道路を走らずに細い道を選んで第二区へと入ろうとするはずだ。だが保安部に追われているのに
もし保安部に捕まる前にシオと合流できたらアゲハがスイを迎えに行くと伝えよう。その間は安全な場所で待っていてもらって。
「無いかもしれない。どこにも」
居住区域である第四区がこの有様なのだ。どこもかしこも似たような状況だろう。
それでは何処へ行けばいい?
「どこにも逃げ場はない」
世界はどこまでも狭く圧迫してくる。
自然の力で、そして人為的な圧力で。
「自由にはほど遠い」
銃より強く、困難を乗り越えることのできる無限の可能性などアゲハの中には存在しないのだ。
だってこんなにも恐い。
ブレーキを強く踏む音が空に吸い込まれ、ドンッとなにか固い物にぶつかった音が聳えたつアパートの壁に反響した。
慌ててアゲハは目の前の道路へと出ると、四輪駆動車が反対側の歩道に乗り上げていた。フレームの曲がった自転車が道に転がり、タイヤが自由を叫ぶように空をさしている。銀色のボディ、小さめのタイヤ。シオが大事にしていた愛車に間違いない。
「シオちゃん!」
車から二人の男が降りてきたが、先程無線を聞いて出て行った男たちでは無かった。元々シオを追い応援要請をした保安部なのか、それとも無線を聞いて応援しに来た別の男たちなのか解らない。
アゲハは凍りつく足を必死で前へと出す。車の横を回り込むようにボンネットへと移動する男たちの動きを追って進むと、フロントガラスの右側から中央に血痕が、何かに引きずられたかのように線を残していた。
防弾ガラスで作られているフロントガラスには傷ひとつ着いてはいないが、ボンネットの右前部分が激しくぶつかった衝撃でへこんでいる。耐久性に優れ、頑丈なボディの軍の車と衝突して無傷で済む人間などいない。
打ち所が悪ければ死を覚悟しなくては。
「どうだ?生きているか?」
先に助手席側へと向かった男に質問する相棒の言葉は軽く、生死に頓着していないことが窺えた。その声が若く、自分とそう変わらない年齢の物であることもアゲハの胸を悪くさせる。
「あの勢いでぶつかったんだ。五分五分か、死んでもおかしく、うわっ!」
「どうした!?」
身を屈めて生死を確認しようとしていた男の腕を下から跳ね除けたのはすらりと長い脚だった。砂埃で汚れたデニムパンツの膝は派手に破れ、血で赤く染まっていたが今の素早い反応と動きで骨や筋などに異常はないことが解る。
腕を蹴り上げられた男は後ろにたたらを踏んで小さく呻き、痺れているのか頻りに撫でて痛みを堪えていた。
「おい!抵抗しないで大人しく捕まれば、これ以上痛い思いをしなくて済むぞ!」
「やなこった」
どうやらぴんぴんしているらしいと驚きながらも保安部の男は投降するように勧告するが、憎まれ口を叩いてそれに反抗する声には未だ諦めていない強い力を感じた。
「シオちゃん!逃げなさい!」
無事ならば逃がさなければと突き動かされるようにアゲハは叫んで軍人とシオの間に身体を割り込ませた。
目を丸くした金色の瞳とアゲハのコバルトブルーの目が合ったのは一瞬だ。シオはなにも言わずに右手を着いて身を起こし、その時少しだけ顔を歪めたようだった。どこかが酷く痛むのだろうが、走り去る足音に乱れは無い。
「退け!邪魔をするなら貴様も捕縛されることになるぞっ」
「やってみなさい!」
「脅しでは無い!市民による軍の作戦妨害は重罪だ!」
まだ腕を押えている男が舌打ちして威嚇する。普段なら軍に楯突こうなどと思わないが、今はシオを逃がすことに必死でやってみろと挑発までしていた。もう一人がアゲハを押し退けてシオを追おうとするのでその腰にしがみ付き、揉み合っている内に転倒する。
肩を強打し、胸を圧迫されて息が止まるが腕だけは放すものかと力を込めた。
「くそ!構わず追え!」
無言で頷き右腕を庇いながら走り去っていく男の背中を見てアゲハは慌てて顔を巡らせた。シオの後ろ姿はそう遠く無く直ぐに追いつかれてしまいそうだ。
「だめ、逃げて。お願い」
離せ、離せと暴れる男を全体重で押え込みながらアゲハは祈るような気持ちで成り行きを見守る。
いつものシオならば鍛えられたとはいえ軍人の脚力に負けることは無かっただろう。
恐らく事故により怪我した箇所が複数あり、そのことが動きに精彩さを欠けさせているのだ。
追いつかれると本人も思ったのだろう。ブルゾンのポケットに右手を入れて、着地した左足を起点にくるりと振り返り保安部の男と向き合った。
素早く抜き出された右手に光るのは鈍色の金属の塊。
「シオちゃ」
どこでそんな物を手に入れたのだ。
銃などその辺に転がっているような代物では無い。高価で、そして軍に規制されている物だ。銃口を軍人に向ければ射殺されても文句は言えない。
アゲハは凍りつく喉を震わせて暴挙を止めようと叫んだが、掠れた小さな声では離れている場所にいるシオには届かなかった。
狙いを男の眉間に定めたが、金の瞳に過った迷いの後で銃口が下を向く。その瞬間発砲された弾は軍人の爪先近くの地面を穿ち、硝煙の匂いが風でアゲハの所まで漂ってきた。
撃ったシオは引き金を引いた後の反動の大きさに少し驚いた顔で後ろによろけたが、続いて指を引き更に反対の足元を狙って撃ち抜いて後退する。
初めて銃を握り扱ったのだとアゲハにも解る程の稚拙さなのに、何故かシオは正確に狙って撃っているように見える。保安部の男に当てないようにしながら、追って来られないようにギリギリの場所に打ち込む。
偶然なのかもしれないが、シオの撃っている銃は引き金を引くと撃鉄が起きるタイプの物だ。これは次の発射が簡単な分、引き金が重く照準を合わせても命中精度が通常の銃より格段に劣る。
「くっ!」
苛立った声を上げて追い詰められている軍人は冷や汗を掻きながらシオを睨む。撃とうと思えば眉間や心臓を撃ち抜くこともできるだけの能力があるのだと思うと動けないのだろう。
「逃げなさい!早く!」
今度は届いたようで、シオは弾かれたように身を翻して走り始めた。その後を追おうと動き始めた男を、押さえつけていた軍人の背中を踏みつけて駆け飛びつく。
勢いのままにまた男と共に道に倒れ込むと滅茶苦茶に足で蹴りつけられ手が緩んだ。
「邪魔だ!」
爪先が容赦なく腹部に激しく蹴りつけられた。一度だけでなく二度、三度と腹部を狙われ、次に顎を踵で強く打ちつけてくる。
目の奥に星が飛び、頭が真っ白に染まり何も見えなくなった。
口の中に血の味が広がり、せり上がってきた胃の中の物でいっぱいになる。堪らず横を向いて嘔吐したが、服も髪も頬も汚れているのに動けない。
茫洋とした視界と意識の中でシオの前に軍の車が斜めに立ちはだかり、あちこちから要請を受けた軍服姿の男たちが現れて一斉に取り囲んだのが映り込む。
「だ……め。き、ぼ……わた、し……の」
空に輝く金色の星が失われてしまう。
憧れ、ただ見ていられればそれで満足なはずの星たちの輝きがひとつ失われようとしている。
知らずに流れた涙の滴が後から後から止めどなく溢れ、ぐちゃぐちゃに汚れたアゲハの顔を濡らしていく。
後ろから襲いかかられてシオが避けるが、その隙に横から別の男が銃を持つ右手を蹴り上げた。灰色の空に弧を描いて鈍色の銃が罅割れたアスファルトの上に転がる。銃を持っていないシオに抵抗する術はもうない。
誰よりも速く駆けることのできる愛車も無く、傷を負った彼ができることなど悪態を吐くくらいしかないだろう。
紺色の背中に阻まれて見えなくなったシオをなんとか頭を上げて、霞む目を凝らして探すが見つけることができなかった。
うつ伏せになり、両肘をついて這って無様に這いつくばっているのが精一杯のアゲハの耳に紺の壁の向こうからシオの呼ぶ声が聞こえる。
「アゲハ!スイを――」
頼む。
ボロボロと流れてくる涙の所為で前が良く見えない。
信頼していないアゲハに大切な妹を頼まなければならないシオの心情を思うと苦しくてたまらなくなる。
どうしてこうなった。
「シオちゃん……」
紺色の中に肌色が見え、そこに金の瞳が見えた。両腕を押えられて車に乗せられようとして言えるシオがアゲハをしっかりと見つめてもう一度「頼んだからな」と両目に力を入れる。
その瞳には未だ闘志に燃えていた。
だからアゲハは頻りに頭を動かして何度も頷いて返す。
必ずスイのことはアゲハが護ると。
シオが満足気に破顔して車内に消えた。走り去っていく車の影を泣きながら見送って、アゲハは自分の無力感に押し潰されそうになりながらぎゅっと拳を握りしめた。
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