理想≠現実だけど
流須
第1話
「模試の成績表返すぞ〜」
担任の先生の気だるげな声が、朝のホームルームの喧騒の中にも関わらず、ひどく鮮明に響いたように感じた。
窓からは8月の盛りだというのに涼しげな風が教室に流れ、一部の生徒の冷や汗を温度とともに奪っていった。
教室を見渡せば、机に突っ伏して「あ"ー!」と聞くに耐えない悲鳴をあげるヤツもいれば、いかにも興味ないですと澄ました顔のヤツもいる。
ようやく来た。二ヶ月前に受けた模試の返却である。数ヶ月に一回、自分の現在の実力を突きつけられるあまりにも無常で残酷な日と言えるだろう。
だが、今日の俺にとっては違う。
極めて真面目でストイックな高校生である俺は、この日を待ち遠しく思っていた。
前回の一年生の冬に受けた模試でリアルな自分の実力を突きつけられてから、A判定を取ることを高校3年間の最大目標として、遊びを犠牲に毎日何時間も勉強に時間を費やし、登校中のバスでは単語帳を開く、そんな生活を送ってきたのだ。
前回の成績は、志望校D判定。
Dの文字を見たときに、ぼ…俺の心はガラスのようにあっけなく砕け散った。中学校では勉強に打ち込んだことがなく、どんな点数でも「まあ勉強してなかったし」で済ませてきて、学生の世界を舐めていた俺にはあまりにも大きな衝撃で、初めての挫折だった。それでも、「いや、イニシ◯ルDは好きだけど、ここでは来てほしくねーw」なんて冗談でぼろぼろな自分を守りながら、少しずつ現実を受け入れていくことができた。
日本有数の大学であるT大を志望校にしたことを悔いたこともあった。でもそのたびに、T大合格を宣言した俺を見た親の顔が頭に浮かんだ。共働きでいつも忙しそうな父さんと母さんと俺の三人が、二週間ぶりに食卓にそろい、つい口から出たT大合格だった。あのときのあんなに嬉しそうな顔の二人を見たのは久しぶりだった。家族の生活費や俺の学費などを、毎日汗水たらして稼いでくれている二人には本当に感謝しているし、自分たちも大変だろうに僕のメンタルへの気遣いもしてくれる。俺が中学2年生の冬にいじめにあったときも、家族はずっと支えてくれた。どうすればこの恩を返せるかなんて何度考えたかわからない。口で親への感謝を伝えられない俺は、どうしても結果でそれを示したかった。
それから、絶対にこんな思いをしないように、したことのなかった模試の分析なんかも始めて、苦手な数学の復習もより一層熱を入れた。あの挫折をきっかけに、これまでの自分を変えたいと初めて本気で思ったんだ。
手応えはあった。これまでノリと感覚で解いていた問題をいっぱい理解した。国語も英語も、数学だって、あの時より大きく成長したことを感じられた――はずだった。
「――、志が高くて良いな。諦めないで頑張れよ」
先生から手渡された硬めの紙には、いびつな形の三角形と―――「D」の文字がプリントされていた。
――グシャ
何かが潰れる音が聞こえた。
それは、「D」と印刷された紙から出たのか。それとも、俺の中でわずかに形を保っていたガラスが潰れた音だったのか。
僕にはそれすら分からなかった。
「すごーい! 清水くん、T大A判定じゃん!?」
「うわ! マジじゃんスゲー!」
思わずその声がした方向をガッと振り向いてしまった。
清水。2年になって初めて同じクラスになった。傍から見ていて、頭の回転が早く、運動もできる優秀な人だ。さっきの会話からすると、勉強の出来も良いのだろう。
――羨ましい。
首を振ってその感情を頭の中からはじき出す。
彼だってその成果を得るだけの努力をしているんだ。いくら、自分の結果に納得がいかなくても、彼の努力も知らない俺が身勝手にそんな気持ちを抱きそうになったことを恥じた。
「清水くんって毎日どれくらい勉強してるの?」
また、ガッと振り向きそうになったが、ぐっとこらえてその話に耳を傾ける。意地を張ってこの話を聞かないなんて選択肢は、今の俺にはなかった。
「えー? 俺全然勉強してないよ。毎日ゲーム三昧してる」
「は?」
とっさに手で口を隠し、肩をすぼめて背中を丸めた。それに伴って俺の目線は机に落ち、視界が机の上の「D」の紙に覆われた。しわくちゃの「D」がそんな僕を嘲笑っているように感じた。
真っ白だった世界にようやく色が戻ってきた頃、恐る恐る今も会話をしている彼らを見た。視界の端に写った彼らはこちらを気にも留めず談笑していた。幸いにも、俺なんかの心からの醜い疑問の声は、話に夢中になっている彼らの耳には入らなかったらしい。
ショックから立ち直って、頭の空白を埋めた感情は、嫉妬、怒り、諦め、他にも形容しがたい感情がごちゃまぜになって、まるでびっくりハウスに放り込まれたかのようだった。
努力しなくても成果を出せる天才への嫉妬。数多の理不尽が起きる世界と情けない自分への怒り。少なくともこの程度の努力では「俺は
悔しい。天才に勝てない自分が。一人称や、勉強が占める生活の割合を変えた程度で、「これまでの自分を変えられた」なんて本気で思っていた自分が。
現実と理想のギャップがあまりにも大きすぎて、僕の心が軋む音が聞こえる。どうして、A判定なんて取れるんだ? どうして、勉強をしないで優秀な成績を叩き出せる? どうして、僕は理想からこんなにも遠い? どうして――。
気がついた頃には鐘の音が鳴り、既に朝のホームルームは終了していた。その日の授業は身が入らず、なんとなく清水を観察していた。それで分かったのは、彼と俺の能力の差。計算スピード、読解力、腕の動く速さ。どれをとっても勝てるものがなかった。
「ただいま」
帰ってくる返事はない。共働きの両親は俺が帰ったときにはまだ働いている。帰ったときの暗くて人気のない家を見て、改めて俺は家族への感謝を思い出すのだ。
自分の部屋に入り、荷物を床に投げ出して、制服のままベッドに身を放り投げた。枕に顔をうずめ、これまでの努力の日々を振り返る。
無気力で、自堕落な生活を送ってきた俺がT大合格を掲げたことに、両手を上げて喜んでくれた親の期待に答えたかった。喜ぶ姿が見たかった。ただそれだけの気持ちから始まった勉強三昧の生活だった。
しかし、現実は非情であった。世の中には天才がいるし、俺みたいな高1の後半から本格的に勉強を始めたやつは、高1の前半、さらに言えば中学校の頃から大学合格に向けて走り続ける人たちには生半可な努力では敵わない。まだ走り始めた俺と、何年も前から走っていた彼らでは、あまりにも距離が離れすぎている。今から全力で走っていっても、先を走る彼らも加速していく。間に合うかどうかもわからない、先の見えない長い戦い。あまり俺には関係ないが、もしかしたら、努力して努力して努力して、理想の自分に限りなく近づけたとしても、受験で失敗してすべてが水の泡なんてことも起きるかもしれないのだ。そんな確約されたものが何もない受験戦争に、全国の高校生は全力で勉強して、受験前から互いを蹴落とそうと息巻いている。周りはライバルだらけで、気を抜ける瞬間なんてありはしない。
でも、やっぱ――
「――諦められないよ」
枕から顔を離してゆっくりと手を伸ばし、倒れているベットサイドテーブルの写真立てを立てる。
「兄さん」
そこには、僕と僕の頭をガシガシとなでている背の高い男が写っていた。
僕の兄はたった数ヶ月前に事故で亡くなった。突然のことに、僕は理解が追いつかなかったし、今も理解できていないのかもしれない。母さんは一時期鬱になったし、父さんも気丈に振る舞っているが、以前のような快活な笑いはしなくなった。
兄さんは僕より二つ年上で、とても努力家で、一度決めたことは絶対にねじ曲げない人だった。小さい頃から僕たちは仲が良く、兄さんは常に僕の先を歩き、僕にとっての澪標だった。僕は兄さんを尊敬していたし、兄さんも僕をかわいがってくれていたと思う。
でも、全然勉強はできなかったはずなのに、兄さんが高校1年の冬、突然T大に行くと言ってから、毎日何時間も塾に入り浸り、家に帰るのが遅くなった。ガサツな行動に反して、生真面目で自分に厳しい兄さんがそんな生活を続けていたから、T大A判定を取れたのも時間の問題だった。A判定を取った日には家族全員で寿司を食べてお祝いをして、珍しく兄さんが照れていたのを覚えている。当時の僕は一緒に遊びたいとも思ったけど、一つのことに全力で打ち込むストイックな姿勢に憧れもしたんだ。
両親も兄さんの態度の変化を喜び、兄さんを全力で応援していた。兄さんについての相談や、兄さんの将来を考える両親の会話が増え、相対的に僕に構う時間は減っていった。
それでも、いきいきと楽しそうに会話をする二人を見ているだけで十分だったし、構う時間は減ったとしても二人からの愛情は感じられた。そして何より、自慢の兄さんがみんなに認められることが嬉しかった。
そんな中、兄さんが亡くなった。僕の指標でもあった兄さんが突然日常から失われた。このことに整理をつけることはできないし、したくない。僕は自慢の兄をの大きな背中の後を追っていくんだ。
指標が続く限り、僕はまだ頑張れる。届かないとしても、兄の歩んだ道をたどり、理想の自分を見かけ上演じることはできる。
昔の俺より、明らかに今の俺のほうが
それを思うと二人には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、優秀な兄に比べて醜態ばかり晒してきた親不孝な息子が生き続けるはましだろう。
「僕、全力で頑張るからさ。兄さん、もう少し待っててよ」
兄さん《僕》が消えた《消える》受験日まで。
僕は写真立てを静かに倒した。
理想≠現実だけど 流須 @utori
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