園遊会

 午後は園遊会で、マリールの内縁の夫のお披露目会というところで、その前触れに色々あったおかげで準備のかかる各地のお城のご婦人方も来たい方来られる方々は粗方お出でになって、社交の場を暖めていた。

 女性の騎士はいないという話だったのだが、騎士と武官とは別であるらしく、帯剣していたり銃剣付きの小銃を肩にかけたりという女性兵士はかなり多く、雰囲気からすると職分も男より下というわけではないらしい。

 不思議に思っていると、各地のお城の奥方様たちが面白がって自慢の女性騎士を紹介してくれた。

 この地で騎士とは収税免状と軍装免状を共に許された土地持ち領主を示す言葉で、その家長が騎士ということであるのだが、実は家長が男性であっても実務能力のない場合、或いは男性継嗣はないものの政治的な理由により家格の国への返納がおこなわれない場合、血縁女性が総代としてすべてを取り仕切っていることもあり、そういう場合に女性の騎士が生まれたりということもある。

 騎士は須く男性である建前なので騎士同士で婚姻するということはなく、養子を継嗣とすることはあっても、当代で家同士が合一することはないし、養子の縁組にも当然に制度的な様々が関を設けている。財産の統合による貴族階級武装階級が大きな力を望む王権は当然にありえない。

 女騎士を当主に押し立てた家は乱暴な言い方をすれば一般に裕福で軍備蓄財のある有力な家か、軍閥に支えられた強力な家か、長い大きな功労があった特別な家か、という名門の当主に女性が納まるということで、女性であっても騎士である必要があって特権的特例的な無理の結果として女騎士は様々に無理を強いられている。

 背景として一夫多妻の弊害で女性血統に財産分与をすると激しく財産が細分化され、国財の統制が取れないという問題があり、女性血統は財産の継承権がないとされている。

 といって、男性血統であっても息子たちに自主独立などと称して納屋一軒馬一頭のような財産分与を分家して騎士に立てたりするような家もあって、必ずしも財産がまとまって運用出来ているというわけではない。

 叔父より甥が出来が良いとも限らずまた逆もあって、様々問題も多く気の毒なばかりの話も多いのだが、そういう流れの一つで女性騎士がいないわけではなく、またいると認められるわけでもない。ということである。

 一種役職の性別というものが定まっていて、極端な例だと女性の騎士が女性の奥方を娶ったりという焦げ臭い悲恋めいた話もあるのだが、景気よく勇ましい奥方曰く男なんてタネみたいなものなんだから適当に間男拾って知らん顔して子供産んで、我が子なり、と云えば男よりよほど血統がはっきりしている、と言い放っていた。

 ある意味でそれは全く生物的な男性血統の不確かさに対する正当な批判で、女騎士の様々の苦闘の日々を思えば人間としての非凡さを求められ、女騎士は優秀有能を日々当然と試される研鑽された人々ではあったが、云ったご夫人当人からしてその先に来るものをきちんと考えたうえでの言葉ではない。

 かつてこの地に龍や巨人や悪魔たちが闊歩していた時代であれば女は文字通り家から出せない城の宝であったわけだが、既に人の当代に移って久しい今、魔法や銃砲火器が戦争の中心にあることを考えれば、戦争指導者である騎士が男だ女だ、と云うのは少々大雑把に過ぎるだろう、という程度の言葉のはずだった。

 まして家伝の財産の話であれば家の話であって、当主一人の有能無能の話でさえない。

 有り体に個々の家の話の最適を定められるほどに共和国の法制度や財政構造を支える流通や生産は強固ではなかったし、その配下諸邦国についても同様だった。

 共和国州邦の法制度や財政を支える立場であるはずのマジンからして最小に整理された家庭制度である一夫一妻制に成行きはどうあれ真っ向逆らうような行状を示している。共和国の未開は制度としての国家よりも、信用できる組織としての血縁関係に支えられた家の必要を様々に示していた。

 血族家族もそれだけでは信用出来ないものではあったが、様々に来歴や因習のある土地であれば約束としての国家制度にどれほど期待できるか怪し気もひとしおだった。

 一方で封建制の家族経営というものにおいても、信用できる血族とその能力というものは貴重品で、臨戦下では男女の差を取り沙汰すことができるほど余裕が有るものでもなかったから、有能な経営判断ができるなら女性であっても構わなかったし、普段表に出すことがない女性がやっていたほうが落ち着いて作業が進められることもあって、子供を産んだあとの女性が経営計画の主軸に腰を据えることは当然に多かった。

 そう云う女達は生ける帳簿のようなものであったから、ますます家から離れることができなくなってしまって、退屈を持て余し偶にある園遊会などでは日頃の鬱屈を晴らすようにはしゃぎ回るわけだが、今回はそこに新たな面子、戦死したはずのマリールとその良人とその奥方たちという者達が現れ、良人である人物は武芸改で称揚された者ということであれば、ますます話題は尽きなかった。

 ゲリエ家の面々は園遊会であちこちの方々に手を惹かれるうちにバラバラに会場をめぐらされ紹介され、市を引かれる子牛のような有様であった。

 引き合わされた幾人かの男女、いずれかの家門の騎士やその令夫人であったり、或いは家門の台所を預かる奥方様であったりという方々は鉄道旅行について、頻りに聞きたがっていた。それは単純に遠くの風物がどうこうというのもあったが、やけに具体的に運行の様子だったり、工事の技法だったり、機械の様々だったりというものを聞きたがる方々が多く、単純な興味という物をはみ出した雰囲気を感じるものだった。


 そう云う風に昼間を過ごし、晩餐会の後にマリールの館の客間で酔い醒ましの雑談をしていた。長らく家に帰っていなかったマリールの居館は片付いてはいたものの落ち着いた趣味とはいえず、誰もがポカンと口を開けるような色合いと可愛らしい絵柄の壁や家具で埋まったキッチュな空間だった。桃色ピンク桜色と称される明るくやわらかな風合いの赤みの幅広さを想像力いっぱいにつかった内装は、桜や杏の花が何故手早く鮮やかに散るのかの理解に至るほどの圧迫感質量感を持っていた。

「こういうことならセントーラ連れてくればよかったな。昼間の園遊会、アレ鉄道事業の準備諮問の瀬踏みみたいなものだろ」

 ゼフィー夫人の立場というものは基本的には財政計画の非公式の統括責任者というべきもので、マリールによればローゼンヘン館と会社の関係をお城と国に置き換えるとおよそセントーラを積極的にしたような立場で評議会の要請検討を受けての国務の査察を藩王陛下に変わって実施するような立場にあるという。

 それはとてつもなく偉いんじゃないか、と思ったが、一族で経営を回そうと考えればそう云う風に偉い人が幾人かどっしり腰を下ろしている必要があって、ローゼンヘン工業の様々を日々滞り無く動かしているセントーラは恐るべき人材と改めて感じた。

 もちろんセントーラ一人の能力というつもりは毛頭ないのだが、最初のノードと最後のノードの信頼と性能が系全体の信頼を決定的に左右するという意味において、セントーラの能力は絶大だった。

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