言葉を詩に、詩を小説に。

虹空天音

声色

 静かな部屋の中。

 私は黙々と、紙の上にシャーペンを走らせている。電池の切れかけたラジオがうるさく鳴った。


 ゲームは隣の部屋に置き去りにした。また集中力が下がるといけない。私の苦労が、全て水の泡になってしまう。


 漢字を少し書きかけた時に、ガチャリ、と音がした。いつもよく聞きなれた、扉の開く音。


「ただいま」


 お母さんの声が聞こえる。

 私は笑顔を作った。いつ来るか、とタイミングを見計らって、お母さんの方を向いてにっこりと笑う。


 キュッと心が苦しくなるが、それは我慢して口を開く。


「おかえり。私ね、今日ゲーム我慢して勉強したんだ。ここの漢字とか本当難しくって、複雑でね――」


 何気ない話題。何も気にしていないような口ぶり。優しく語り掛けるように。頭の中は一杯なのに、出てくる声は妙に冷静で怖い。

 のどがカラカラだ。だけど、ここで口を止めるわけにはいかない。


「はぁっ」


 その時に、大きなため息をついてお母さんが買い物袋をどさりと机の上に置いた。言いかけた話題を引っ込める。


「今日もプール行ってきた。けど、あそこのおばあさんがまたうるさくて、いちいち話しかけてきて」


 ぐちぐちとした口調。話題。口角を下げて、「それは嫌だね」と答える。こういうふうに愚痴を話すのは、大体共感してほしいからだ。

 人と話すとき、愚痴に同意しないとあからさまに嫌そうな顔をする。


 だから、私は学んだ。


「うわ~っ、しつこい。お母さんは変に振り払えないもんね」

「そうそう」


 カバンにつけたヘルプマークをヒラヒラとさせた。少し薄暗い部屋に、赤は目に染みる。


「まともに話せないってのに、何であっちから……」


 長く続きそうだ、と直感的に悟った。

 嫌がっていない口調で、


「私、勉強やるね」

「ああ、邪魔してごめんね」


 お母さんは座った椅子から立ち上がって、布団の方へと向かって行く。お父さんは今日も仕事でいない。

 遅いのかな。


 でも、まずは課題を終わらせないとな。



「私のこと馬鹿にしてるんでしょ⁉ そうしようと思って言ってるとしか思えないんだけど⁉」


 怒鳴り声。ペットの怯えたような表情。

 このペットは、お母さんが大丈夫じゃないときに、買ってきた。家はペットが飼えない。でも、しょうがなかった。


「いっつも、何回も言ってるのにさあ。何度やれば気が済むの⁉ 一度や二度じゃないよね⁉」


 気が付いたら、こんな感じ。

 最初はいっつも私が悪い。そう、信じてきていた。


 でも、ある本を読んだ。


「お母さんの顔ばかり見る。でも、なぜかやっぱり――」


 本を閉じた。

 涙が止まらなかった。


「ごめんね、また、く、繰り返しちゃって、あの……えっと……」

「……」


 今度は引きこもって無視タイム。このパターンはいつも長い。

 必死に謝る。お母さんの好きな物を用意する。話しかける。話題を振る。宿題の話をする。学校のことを言う。


 パチッ、パチッ、パチッ、パチッ。


 お母さんの指をはじく音が、次第に大きくなった。私が話していて、顔を見せた時、強く弾いてくる。


「あ、あの、その指、な、なんで……」

「分かんねえか?」


 荒い言葉遣いで返される。ティッシュで涙を必死に拭った。怖い。でも、同時に怒りがある。でも、謝らないと。


「出てけって、黙れって言ってんだよ‼」



 お父さんが来た。

 腫れた目をなんとか氷で冷やして、さっきの怒られたパターンを、涙であまり思い出せないけど、必死に思い出す。


「あの時の言葉は、えっと、えっと……」



「……でさ、あの……」

「今の言葉何?」


 声色が変わる。


「あーっ、えっと、それは……」

「まただよね? 何度も何度も……」


 やってしまった。予習していたのに。でも、前は怒らなかったじゃん。ジョークで受け取ってくれた。笑ってくれた。なのに……。


 お父さんが「お薬」の単語を出して静まらせて、ようやく私は腫れた目を拭える。

 私は、お母さんの家庭よりかはましかもしれない。でも、私はこんな家、嫌だ。


 絶対に、嫌だ。



 いなくなった。お母さんを、お父さんが遠ざけてくれたんだ。

 別の部屋に、別の場所に。


 これでもう、私が怒られることなんてない。私が気を付けなくていい。同じようなしゃべり方でいい。やった、やった……!



「ただいま」


 ガチャリ、と扉が開いた。

 ……え。


「久しぶり。あの、ちゃんとお薬飲んで、お父さんと話し合って……」


 出て行ってよ。

 いなくなってよ。早く、早く、早く。


 出て行ってよ‼

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