第38話

「優太が亡くなってから、私はあなたを守るために必死だった」

 菜々美の目の前にいる母親は、大切な人のことを思い出していた。

 今まで見たことのない顔だった。

「私たち親子を支えてくれたのは、紛れもなくあの人なの。賢治くんは、私たちを守ってくれているの。優太の分も。だから、あなたにあんなに厳しくしてしまうのよ。それを分かって……」

 涙目になっている母親に何かを言うことは出来なかった。



 養父は父と母の高校時代からの友人だった。父の代わりに守ると決めた人なんだ。

 だからといって今まで強いられてきたことが、許せるかと言ったら別の話で、菜々美はどうすればいいのか混乱するだけだった。


「菜々美」

 スッと立ち上がった母親は、菜々美を見下ろす。

「あなたが幸せになる道を行きなさい。もう大人なのだから、私たちの顔色を伺う必要はないの」

「お母さん……」

「大切な人を失わないように、生きなさい」

 母親はそう言うとマンションから出て行った。



 ひとり残された部屋で、菜々美は考えていた。

 父親と母親はお互いとても大切な存在だった。その間に、養父が割って入った。無理やり奪ったわけではない。運悪く、父は病魔に負けた。

 その後の母の心に入り込んだのだ。


 そう思わずにはいられなかった。

 だけどその時の母は弱っていて、とてもひとりでは菜々美を育てられないと感じていたのだ。

 菜々美を守るために養父と結婚したのではないかと。

 今でも父のことを愛しているのではないかと。



 考えれば考えるほどそうとしか思えなく、菜々美の中がザワザワとしてくる。

「はぁ……。余計に養父とは拗れそうだわ」

 養父のことを理解して欲しいのか欲しくないのか。母がなぜ昔の話をしてきたのか、その意図が分からないでいた。




     ◇◇◇◇◇




「ただいま」

 仕事部屋に籠っていた菜々美に、仕事から帰ってきた翔が声をかける。その声の方を向いた菜々美は小さく「おかえり」と言う。

 そんな菜々美を見て何かあったことを悟った翔は、通勤鞄を廊下に置きコートを脱ぎ捨てる。そして菜々美に近寄る。

「何かあった?」

 首を横に振る菜々美は、深いため息を吐く。

「なんでもないの」

 そう言うと立ち上がり、リビングへと向かった。

 翔はその後を追うと、ダイニングテーブルに置かれたままのコーヒーカップに目線を落とす。

「誰か来てたの?」

「母」

 菜々美はカップをキッチンに持っていく。


(どうしてこんなにモヤモヤした感情が沸き起こるの?)

 どうにもならない気持ちが、菜々美の中にある。どうにかしたいが、どうすればいいのか分からない。


 ソファーへと近付くと、膝を抱えて小さくなる。

 翔は隣に座り、菜々美の肩を抱き寄せた。



「菜々美……」

 名前を呼び、菜々美の気持ちが落ち着くのを待った。

 抱き寄せられた菜々美は目を閉じ、息を整える。自分の中にある思いが、爆発しないように落ち着かせようとしていた。


「菜々……」

 涙を流していた菜々美に驚いた翔は、優しく髪を撫でる。


「翔……」

 翔の胸に顔を押し付けた菜々美は、涙を止めることが出来なかった。

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