ナツユキ(英雄病より)
遠藤歌う
ナツユキ
彼が血まみれで帰ってきたのは、さすがに警察へ相談しようかというまさにその時だった。
「大丈夫だよ。俺の血じゃないから」
私が余程青い顔をしていのだろう、彼は帰宅が遅れた謝罪よりも先にそう言った。今日のお昼ご飯でも報告するみたいな、緩い口調だった。当の本人がそんなんだから何だか私一人だけ世界から除け者にされてるみたいな感じがして、でもだからといってこの場の正解が分かっているわけでもない私は「え、いや、でも」とまごまご狼狽える。
「とりあえず、シャワー浴びさせてよ。このままくつろぐ訳にもいかないでしょ」
彼は赤黒い染みのついたワイシャツをわざとらしく広げると、私の横を通り過ぎて洗面所に向かった。まあそれもそうだと頭で納得が進んでいる一方でしかし、体は全然反応してくれない。彼の赤い軌跡を視線で追うので精一杯である。あのシャツは次の可燃の日だな、とまるで他人事のようなことを、玄関で一人、思った。
三十分程でシャワーを済ませた彼は、血だけでなく、今日の記憶全てを洗い流してきたかのようにさっぱりとしていた。彼自身ほかほかと湯気を立てながら、食卓に並べられたハンバーグを見て嬉しそうに笑う。既に支度を済ませていたとはいえ、血を連想させるような食事はまずかったかなと悩んだ時間を返して欲しかった。
「……それで、何があったのよ」
そのため、結局こうだ。私から口火を切るしかない。つまり彼は被害者顔ができるという訳で、どうしたって質問攻めにする私が悪者になってしまう。余計に腹が立つ。言葉にも角が立つ。
「遅くなるって連絡はないわ、携帯は繋がらないわ、帰ってきたと思えば血で汚れてるわって。なに、あんた殺し屋でも始めたの? それとも魔女の手伝い?」
「発想が物騒だなあ、ナツキちゃんは。そんなわけないじゃんか。まぁでも、今日のことは本当にごめん。全面的に俺が悪いよ」
「違う」私は少し語気を強める。事情があるのは十分分かっているけれど、同じように私にも気が立つ理由があるのだ。「謝ってほしいんじゃないの。何がどうなってこうなったか、ちゃんと説明してほしいの」
すると彼は私の目を見て、いつも通りの気の抜けた表情でこう言った。
「死ぬところを、助けてもらったんだ」
「……は?」
「駅からの帰り道に突然さ、車がこっちに突っ込んできてさ。結構なスピードで、ちゃんと歩道を歩いてた俺の方にだよ。勿論いきなり過ぎて動けなくて。ああいう時、体って本当に動かないんだね。そうだ、そういえば走馬灯は見れなかったな。ちょっと残念。で、そしたら危ないって突き飛ばされて。俺は助かったんだけど、突き飛ばしてきた方は車と壁に挟まれて死んじゃったんだ。はたから見ても、あぁ、これは死んでるなって、もう助からないやって、そういう感じだった。そこから救急車が来て、警察が来て、しばらく状況の説明とかしてたんだ。スマホは飛ばされた時に落として、車に轢かれちゃったんだよ。まぁでも、命があっただけ儲けだね」
助けてくれた人、吉崎さんっていうんだって。彼はお米を口に運びながら言う。二十一歳だったって。若いよね。
「え、えーっと」
私は困った。想像していた以上の内容だった。彼が気の抜けた表情をしているものだから『近くのサラリーマンに鼻血をかけられてさあ』とか気の抜ける話題かと思っていた。『もう、ホント鈍臭いんだから』と呆れたように突っ込んでおしまいだと思っていた。人が死んでいた。しかも彼の前で。彼を助けて。お悔やみを申し上げるべきか迷ったがそれは相手が違うし、悲しんでみせるにはそもそも当の本人が悲しんでないしで、ひとまず最初に思ったことだけ口にしておく。
「……よく食べられるわね、ハンバーグ」
「確かに。それもそうだ」
今更気付きましたと言わんばかりに頷く彼。鈍臭い。しかし彼は彼で言い分があるらしく、上目遣いにでもさ、と続ける。
「残したら残したで、ナツキちゃん、怒るでしょう?」
それはそうだ。
*
彼とは二十三歳の時、マッチングアプリを通して知り合った。
私は当時、若さという特権を利用し夜毎夜毎遊び回っていた。人の話を訊くのが趣味だった私にとって、こうなることは必然だったのかもしれない。愛想良くタイミング良く相槌を打っていればよいというのは何ら苦でなく、それに加えて上手くいけばタダでお酒が飲めたりご飯が食べられたりするという点でひどく魅力的だった。お酒を飲むだけに留まらない時もあったが、それも別に嫌ではなかった。これも経験だなと楽観的に考えていた。今にして思うと、結構危ない橋を渡っていた時期だった。
「こんばんは。俺、ナツユキです」
待ち合わせ場所の時計型モニュメントに現れたのは、設定されていたプロフィール画像通りの男性だった。少しでも印象を良くしようと加工した写真を用いる人が多い中、彼は彼のまま、インターネットの海をのんびり泳いでいた。
「……あ、どうも。ナツキです」
正直なところ、その日の出来事はあんまり覚えていない。軽くご飯を食べてそのまま解散したような気もするし、そもそもお茶だけで済ませたような気もする。多分、印象に残るような会話もハプニングも何一つ起こらなかったからだと思う。確かなのは、彼が見た目の印象ほどおどおどしていなかったということだけだ。
一つ歳下の彼。吹けば飛んで行ってしまいそうで頼りない彼。何故彼と会おうと思ったのか、今となっては覚えていない。私の好みは目鼻立ちのはっきりした濃い顔の男性だし、彼の文学少年然とした顔立ちとは真逆のそれだと言える。きっと昔読んだマンガのキャラに似ていたから、とかそんな簡単な理由だと思う。縁の細い丸メガネをかけ、無意識なのだろう、時たま目にかかる前髪を払い除ける仕草を見て、何度切れば良いのにと思ったことか。
「ナツキちゃんは、なんというか足の遅いチーターって感じだよね」
大学で生物学を専攻していると言う彼は、しばしば人を動物に例えた。しかも動物単体ではなく修飾語をつけて。どちらかというとそれは文学部のすることだと思うし、まあそれはともかくとして物理選択の私にはいずれにせよ理解しかねた。
「何、足の遅いチーターって」
「足の遅いチーターは足の遅いチーターだよ。足が遅くて、全然狩りに成功しないんだ」
私は失敗続きで落ち込んでいるチーターを想像した。「馬鹿にしてるの?」
「違う違う。足が遅いっていっても、ちゃんとチーターなんだ。動かない相手には恐怖だよ。死の象徴だよ」
「ねぇ、絶対馬鹿にしてるじゃん」
「だから違うって」
彼は幼い子供のようにけらけら笑った。その様子を見て、私は少しやり返してやろうと口を開いた。
「じゃあナツはお喋りなナマケモノね」
「なんだよ、それ」
「基本的には動かないし、口だけが達者」
「つまんないな。ナツキちゃん、センスないよ。足が遅くてセンスのないチーターだ」
「チーターにセンスがあったらあんな豹柄してないわ」
彼との会話には常に生産性がなかった。けれど、彼の隣は居心地が良かった。彼に会う頻度が増えていくのと相対的に、見知らぬ相手と会う回数は減っていった。
以前、彼に一度だけ何故と訊ねたことがある。何故、私と会おうと思ったのかと。
「最初はね、同じ名前だって思ったんだ。俺と、ナツキちゃんと。だから会ってみたいなって」
「あたしは偽名なんだけど」
「知ってるけど、知らなかったからさ。当時は。俺だってナツキちゃんみたいな子はタイプじゃないよ」
彼は渋い顔をしてそう言った。一緒に住もうと言われてもう三年が経つが、未だに彼は私のことをナツキと呼ぶ。それに関しても、まぁ、嫌ではない。
*
私の携帯に覚えのない番号がかかってきたのは、彼が血まみれで帰ってきた翌日だった。もしかしたら事後処理で呼び出されるかもしれないからと仕事を休んだ彼と、少しゆっくり目の朝食を食べていた最中のことだ。ちなみに私は無職なので常にゆっくりである。
「こんにちは、N市警の者ですけど」
森川ナツユキさんいらっしゃいますか、と若そうな男性の声。どうしてこう、警察と聞くだけで体が強張ってしまうのだろうか。私が小心者のせいか。悪い事をした訳じゃないのに、鼓動がにわかに早くなる。私は今まさにトーストを齧らんとする彼にスマホを渡して、会話を盗み聴く。
「もしもし、森川です。……はい、はい。あー、えっと……はい、そうですね。大丈夫です」
彼は曖昧に了承すると、あっさり電話を切った。
「ちょっと、今の何。っていうかなんであたしの電話番号教えてんの」
「俺のは潰れちゃったんだって」
「そ、そうだった。いやでも終わったんなら返しなさいよ」
浮かない顔であーとかんーとか適当に答える彼。しかし一向に内容を話そうともしないしスマホを返そうともしない。そろそろ武力に訴えかけるかと手を伸ばしたところに、再び着信のバイブレーション。
「はい、森川です」
ひったくる間もなく彼が出た。私のスマホにかかってきた電話に。ためらうこともなく。自分の苗字を名乗って。まあ流れから察するにどうもこの折り返しを待っていたようだけれど、それならそうと言ってくれればいいのに。
「あぁ、いえいえ。むしろこちらこそ申し訳ありません。お悔やみ申し上げます。……え、これからですか? いや、はい。大丈夫ですけれど」
しかしながらわずかに、一回目の時と声のトーンが違う。少し引っかかる。先程が動揺というか困惑に近いものだったのに対し、今は畏まって恐縮している。上の人が出てきたのかなと思いながらその様子を見ていると「え、ナツキも?」目を丸くしてこちらを向く。「いや、まぁ、いいですけど」預かり知らぬ意思決定が、今まさに目の前で行われた。待て待て、と口パクしてみせるが、彼には一向に受け入れる気配がない。結局そのまま何度か頷いて、通話を終えてしまった。
そしてありがとうとだけ口にして、こちらにスマホを差し出してくる。
「……ねぇ」
「なに」
「他に言う事があるんじゃないの」
「え」彼は心底驚いたように眉を上げ、ついでに肩をすくめる。「何だろう」
……手が出た。
「痛い、痛いよ。普通に平手打ちしないでくれないか」
「じゃあ次はチョキにしてやるよ」
「一体チョキで何をするんだ……もう、冗談だってば。なんか、吉崎さんの妹さんが俺に連絡を取りたいらしくて、それで警察が連絡先教えていいかって」
「だから教えたわけね。あたしの電話番号を」
「うん」
「……あたしは目だけを狙うカニ」
「そんな物騒なカニはいないよ。……うん、まぁ悪かったとは思う。せめて一言断るべきだった。何ならその場で情報を共有すべきだった。だからそのカニをベンチに引っ込めてほしい」
彼は一つ咳払いをして、続ける。
「とにかく、俺とナツキちゃんはこれから駅前の喫茶店に行きます」
「行きます、じゃないが」
「うおっ、あぶなっ」
間一髪でカニパンチを避けた彼は、後退りして戦闘態勢を取る。脇を締め、拳を握って顔の前で構え、少々前傾姿勢になる、いわゆるファイティングポーズ。
「ならば俺はグー。顔はバレるので腹を狙うヤドカリ」
「うわぁ、陰湿だ」
「ヤドカリだって世間体を気にする」
「なら殴るな」
そうしてやいのやいのやりつつ、何だかんだと支度を済ませて家を出る。その際も本当にくだらない会話が続くばかりで、結局話題が立ち戻ることはなかった。一度、駅へ続く道の途中で彼が何か言いたげな顔を向けてきたが、それには応じず黙殺した。大丈夫、分かってる。分かってるから。私は彼の骨張った手を強く握り直すことで返事とする。分かってるから、何も言わず、馬鹿なノリに舵を取ったんじゃない。だから、謝ろうとしないで。明るく努めようとした、私の優しさを無駄にしないで。
彼の所為で命を落とした、名前しか知らない青年。
その妹が、連絡を取りたいときた。
会って、話をしたいときた。
「……そんなもの」
私は彼に悟られないよう、小さくつぶやく。
呪いの言葉以外、ないじゃないか。
*
十月を目前に、腕を出すような服は肌寒く感じる。無職のためあまり外に出ない私は、毎回このような季節の変わり目にアップデートを怠りがちとなるのだ。長袖のシャツにベージュのコーデュロイパンツを履く完全に秋色の彼の隣を、いまだ夏真っ盛りの格好をする私は歯噛みしながら歩く。
指定された駅前の喫茶店は、私も何度か利用したことがある場所だった。路上に面した西洋風の造りのお店で、分厚いパンケーキが美味しいと評判だ。私は頼んだことないけれど。彼がドアベルを鳴らしながら扉を開けると、すぐに笑顔の店員が飛んできた。待ち合わせです、と伝えると、店員は笑顔のまま窓際の座席を手で示した。四人がけの席に、白いブラウスを着た黒髪の女の子が一人で本を読んでいる。彼女の前に置かれたコーヒーには、もう湯気は立っていなかった。万が一人違いだった場合を考え、同性である私から声をかけてみる。
「すみません、吉崎さんですか」
女の子が顔をあげる、と同時に私は面食らう。すっげぇ美人だ。まつ毛ながっ。うわ肌めっちゃ綺麗。顔小っさ……一瞬にして俗なワードが思考を埋め尽くす。美のジャミングを受けぼんやりしている私に、彼女は向かいの席を示し、頷く。
「えぇ。どうぞ」
はっとして、席に着く。こっそり彼を窺うと、何だか彼も口角が上がり気味だった。普段なら足の一つでも小突いてやるところだが、彼女に関しては悔しいが私も同罪だ。水とおしぼりを持ってきた店員に二人で紅茶を頼むと、お互いの自己紹介から始まった。こちらの簡単な名前と職業を伝えて、パスを渡す。
「吉崎ハル、といいます。N大で学生をしています」
大きな窓から差し込むあたたかな陽光を浴びながら、彼女はそう言った。うんうんと相槌を打ちつつも、失礼にならない程度に視線を這わす。彼の言葉を借りれば、おとなしいライオンといったところだろうか。綺麗な女性であることは間違いないけれど、これはちょっと近寄り難そうだ。通った鼻筋にシャープな目元、加えて背もたれを使うことなく張られた背筋が彼女をクールな人格に見せている。……いや、単にこの場ではそう見せているというだけかもしれない。当然か、とも思う。
「まずは謝らせてください」
店員が二人分の紅茶を運び終えたのを確認して、彼が切り出した。店内のジャズがやけに大きく聞こえる。私は喉の渇きを覚えているが、カップには手を伸ばさない。
「お兄さんの件、本当にすみません。完全に俺の不注意です」
そして頭を下げる。勿論、私も。
謝ってどうにかなる問題じゃないことは、重々承知している。だからといって形だけでしている訳じゃない。
ただの本心だ。
「……ああ、そういうことでしたか」
少しの沈黙の後、彼女は納得した風にそう呟いた。まるでこちらが勘違いしているとでも言いたげな口調に、思わず顔を上げる。
「森川さんに謝っていただくことはありません。責任があると言うなら、それは間違いなく飲酒運転をしたあのクソ野郎の方です」
綺麗な顔から汚い言葉が飛び出してきて場違いにもちょっと興奮する私。幸いに彼女は気付いた様子もなくそれにと続ける。
「それに、覚悟はしていました」
言い回しに若干の引っ掛かりを覚える。が、何がどうと考える間もなく彼が口を挟む。
「いや、でも、俺がもっと早く気付けていれば、こんなことには」
「森川さんの立場も分かります。ですが、謝るのはなしです。こちらにも後ろめたい気持ちがありますから」
後ろめたい。確かに彼女はそう言った。引っ掛かりが疑問へと変わる。
「あの、私たちを罵倒してくれるために連絡を取ったんじゃないんですか?」
おい、と彼に肘で小突かれる。しまった、咄嗟の発言だったので己の欲望がチラついてしまった。早く取り繕わなければと思ったが、彼女は取り立てて反応するでもなく、簡単に首を振って答えた。
「ええ、違います」
「……そうですか」
「露骨に残念そうな顔をするな」
「……本題に、入りますけれど」
怪訝な顔でお伺いをたてる純白な彼女に、薄汚れた大人であるところの私たちは猛烈に頷く。
「私の兄は、英雄病、という病気に感染していました。これは精神的な病で、感染者に助けられることにより発症します。いくつかのステージはありますが、大概は人を助けたいという衝動に駆られるようになります」
彼女は自分のカップに視線を落としながら言った。世の中にはそんな病気があるのかと感心しながら聞いていると、隣で彼が、つまり、と呟いた。いつもの調子とは違う、少し張り詰めた声色だった。
「つまり、俺がそれに感染していると」
「はい」彼女はゆっくりと頷く。「恐らくは」
「それで、人を助けるというのは」
「……ええ、あのように」
二人して意図的に明言を避けている所為で、私には指し示すものがまるでわからない。会話はそのまま、私の手の届かないところで進んでゆく。
「そうか。やっぱりそうなんだな。何だか昨日から、ずっと落ち着かなくてさ」
「やはり、ですか。……すみません。厄介なものを押し付けてしまって」
「謝るのはなし、でしょう。君が自分でそう言ったんじゃないか。そもそもお兄さんに助けてもらえなかったら俺は死んでたんだ」
「ちょ、ちょっと」
事態が飲み込めず、たまらず声を上げる。思ったよりも大きな声が出て、自分でも驚いた。けれど喉まで登ってきた台詞はもう止まらない。
「感染って、え、どういうこと? 何が、何が起こってるの?」
「うーん」彼はいつの間にか、普段の呑気さを取り戻していた。「要するにさ、今俺、人助けがしたくてたまらない感じなんだよね。何というか、受けた恩を返したいというか」
「……あんまりピンとこないんだけど」
「英雄病は明文化された病気ではありません。感染に対する自覚症状もありませんから、今の我々のように、前代の罹患者の関係者が次の罹患者に事情を説明することで何とか知られている状況です」
前代の罹患者の、関係者。そこまで訊いてああ、と遅まきながら気付く。
「じゃあ、助けられた人に、その病気が移るってことで、つまり、ナツは」
「……そうだね。目の前に命の危険がある人がいたら多分、いやきっと、助けちゃうだろうな」
私は声を失った。何か考えようとしても、まとまらない。霧散してゆく。書いた先から消しゴムをかけられるような無力感。指先から、何かが抜け出ていく気がした。
「ほら、すぐに死ぬ訳じゃないんだからさ。あ、でもそういう場面が来たらだから分かんないのか。じゃあもう祈るしかないね」
まるで他人事のようにへらへらとする彼。もはや反駁する気力も失せ、私は背もたれに深く体重をかけた。自分を自分で支える力も、湧かなかった。そんな私を察して、わざとらしくも、彼が話題を転換する。
「そうか。やけに吉崎さん落ち着いてるなぁ、年の割に凄いなぁって思ってたけど、ある程度の心構えはしてたんだね。それで覚悟はしてた、か」
「そうですね。それでも、昨晩連絡を受けた時は大変でしたが」
伝えるべきことを伝え緊張が解けたのか、彼女はここで初めて微笑みをみせた。照れたような、年相応のあどけない表情だった。強いなこの子は、と思ったのも束の間、しかしすぐに口を引き結ぶ。顔が強張る。背筋が折れる。顔を伏せ、あ、あ、と掠れた声が漏れ聞こえる。
「あ、あの、すみっ、すみま、せん」
唐突に。
彼女は声を上擦らせ、必死に謝りはじめた。
「ち、違っ、違うんです。わた、私、思い、思いだし、ちゃって。兄さ、兄さんの、こっ、こと」
痙攣した喉で、ひっ、ひっと短く息を吸う彼女。私は咄嗟に彼と視線を合わせた後、席を反対側に移動した。震える肩を抱き寄せると、彼女は堰を切ったように嗚咽し始める。
*
「すみません、お見苦しいところを」
赤く泣き腫らした目で、彼女は言った。
「いや、そんなことない。この場で一番苦しいのはハルちゃんなんだから」
「そうだよ。ナツキちゃんだって未来の自分に厳しいことできる訳ないよ」
「これから死ぬあんたに言われたくないわ」
重苦しい空気がなくなったことで、ついいつもの軽いノリで話してしまう私たち。流石に緊張感がなさ過ぎたかと隣に座る彼女を窺い見たところ、手で口を覆うようにしてくすくす笑っていた。恥ずかしくはあったが、少しほっとしたのも事実だった。
「……ねぇ、お兄さんのこと、聞かせてくれない?」
私は訊ねる。気を遣って触れないでもよかった。でもそれは真に彼女を想っての行動じゃない、と思った。私が今やるべきなのは、彼女の整理を手伝うことだ。彼女は幸いにも意図を読み取ってくれたのか、無言で頷いた。ゆっくりとしたペースで、過去の思い出を眺めるかのように、彼女は話し始める。
「私たちは、この近くで二人暮らししていました。父は母を助けて亡くなり、母は兄を助けて亡くなりました。みんな英雄病です。二人だけになったとき、兄と私は高校生でした。元々親戚は少ない方でしたが、変な病気を拾ってきたと噂が広まりほとんど縁切り状態になっていたので、助けは求められませんでした。なので兄は私の学費、それから二人の生活費を払う為、高校を中退して働き始めました。私も働くから、と言ったのですが、兄は頑として許してくれませんでした。俺はお前より早く死ぬ。この先俺に頼らなくて済むためにも、今は俺を頼れ。俺への借りは、俺の次の人間へ返せ。俺は絶対にお前を感染させたりしないからって」
そこまで一息に喋って、彼女は口をつぐんだ。目を閉じ、天井を仰いで、大きく息を吸う。
正直言って、ここまで重いとは予想していなかった。
つまりなんだ、彼女、吉崎ハルさんは今、この世界でひとりぼっちだということか?
「素敵なお兄さんだね」
私が言葉に詰まっているのと反対に、彼はさらりとそんなことを言う。こういう時は、こういう時だけは、彼のよく回る口が頼もしい。
「……ええ、自慢の兄でした」
彼女は小さく頷いた。そして自分のコーヒーに口を付け、少し考えた様子のあと、控えめに切り出した。
「……お二人に、こんなことを言うのはどうかと分かっていますが」
「大丈夫だよ。話してごらん」
私は彼女の背中に手を当て、文字通りに背中を押す。彼女は机に視線を落とし、言う。
「今まで兄を死なせないために、これ以上家族を失わないために、できる限りのことをしてきました。職場までは無理でしたが、最寄りの駅までの送り迎えは必ずしましたし、兄が外出しなくて良いよう、外の用事は私が全てしていました。リスクを限りなく減らして、でもやっぱりゼロにはならなくて、そんな時、私はずっと祈っていました。どうか、どうか何も起きませんように。兄が無事に戻ってきますように。優しい兄は先のことまで考えていましたが、私は、その日を生きるので精一杯だったんです。でも、だめだった。兄は死んでしまった。私の努力は本当に無駄だった。意味のないものだった」
そうして彼女は顔を上げ。
薄く、微笑んだ。
それはこれまでのものとは違う、どこか恐怖すら感じさせるような、そんな。
「私はこの先、どう生きていけばいいのでしょうか」
*
宇宙速度、というものがある。
地球や太陽の重力を振り切るために必要な速度のことだ。地球から逃げ出す速度を第二宇宙速度、太陽から逃げ出す速度を第三宇宙速度という。第二第三とあって第一はないのかという話だが、もちろんある。第一宇宙速度は地球の周りを衛星のように円を描いて飛ぶために必要な速度を指す。地球の重力と拮抗する速度だ。
私がこの速度の存在を知ったのは高校二年生のときだった。物理の先生が授業を始める前に、生徒の意識を集めるため雑学の体で話してくれた。
「それでこういった公式を解いていくとだな。第一宇宙速度が毎秒七・九キロメートル。第二宇宙速度が毎秒十一・二キロメートル。第三宇宙速度が毎秒十六・七キロメートルになる」
かつかつかつと黒板にチョークが打ち付けられ、怪しげな文字の羅列が見知った数字に変わってゆく。五時間目。昼休みを挟んで、午後最初の授業。この日のことは良く覚えている。二年生に進級したてで、クラス替えで一年の時と全く違う顔ぶれになって、まだみんなどこで手を抜けばいいか分からなくて、そんな感じでなんとなく空気が張り詰めていた、あの日。そう、良く覚えている。何故なら。
「つまりだ、この第一宇宙速度、毎秒七・九キロメートル未満の速さじゃ、どんな物体でも地球に戻ってきてしまう訳だな」
何故なら、これは私のことだと思ったから。
今の私は、地表に立ち尽くすその他大勢の中の一人に過ぎない。
私はいつか、この速度を越えて、彼方の世界でさんさんと輝く星々の一員になるのだ。
高校二年生、十七歳。
私がまだ、夜空を見上げて、素直に羨むことができていた頃の話だ。
漫画家になりたいという夢は昔から持っていたけれど、私がその夢を抱えていることは、高校の時に一度クラスメイトになった彼女以外、誰にも言ったことはなかった。その事実にしたって、たまたま放課後に彼女と二人になるタイミングがあった際『私もなりたいんだ』と突発的にこぼしただけで、それ以上の踏み込んだ会話をすることはなかった。可愛くて明るくてクラスで絶対的な存在感を持つ彼女の視界に、私のような陰気な存在は映らない。
『私、将来ジャンプに載るから。絶対。楽しみにしてて』
彼女は私とは対照的に、夢を口にするタイプだった。彼女の家族も、クラスメイトも、先生も、彼氏も、みんな知っていた。周囲の理解を得た彼女は、高校卒業後、地方の美大へと進学することになる。一方の私は、なんてことはない、地元の大学の経済学部に進学した。
筆は決して速いほうではなかった。しかしそれを自覚して、講義の空き時間や休日はほとんど全て創作に費やした。描いている途中に面白くないと感じても何とか結末まで持ってゆく。アイデアがなければひたすらインプットを増やす。基本的だが、大事なメソッド。そうして高校生の時は年に二本、大学生になってからは年に三本から四本のペースで読み切りを描き、その中でマシだと感じるものを選んで新人賞に応募した。一度だけミステリ風味の恋愛モノで佳作を頂いた事があったけれど、それ以外は箸にも棒にもかからなかった。高校大学の七年間を燃料にした私は、結局、何度飛んでも地表に戻ってきてしまう、第一宇宙速度にすら満たないちっぽけな存在だった。
私は大学を卒業して、メーカーの一般職に就職した。二十二年住んだ実家を離れ、会社の近くにアパートを借り、一人暮らしを始めた。もちろん漫画のためだった。社会人となった私は、学生の時より更に速度が落ちたけれど、依然として漫画を描いていた。
この頃から、触れた作品が面白ければ面白いほど、苦しく感じるようになった。作者が若ければ若いほど、自分が惨めに感じるようになった。それでも私はその感情に気付かないフリをしていて、だからこれは勉強のためだからと、自分自身を騙しながら馴染みの本屋に入ったある日のこと。新刊や売れ筋商品が平積みされている光景を前にして、ふと、思った。思ってしまった。
漫画でも小説でもエッセイでも、世の中には才能を、作品を認められて飛び立った人たちが星の数ほどたくさん、いる。何々を受賞とか遂に映画化とか華々しくデビューとか綺麗な言葉で化粧をした本たちの中、なんの帯も巻かれていないのは、私だけ。
目眩がした。
吐きそうになった。
逃げるように家に帰った。そこで彼女の名前をインターネットで検索した。地方の美大に進学した、彼女。出会ってから今までずっと頭の片隅にいた彼女。何故そうしたのだろう。もしかしたら既に、彼女は何らかの形で脚光を浴びているかもしれないのに。とっくの昔に第二宇宙速度に到達して、この価値のない地平から飛び立っているかもしれないのに。そうであったらきっと、間違いなく私は気が狂うのに。いやいっそ狂ってしまった方が楽なのかもしれない。二度と立ち上がれないくらいまで心を折ってしまった方が良いのかもしれない。ぐるぐると渦巻く感情をねじ伏せるように強く、エンターキーを叩く。とある記事が一番最初に現れた。学生の卒業制作に関する、大学側のインタビューをまとめたものだった。私はすぐにそのページを開き、内容に目を通した。数枚の写真とともに、彼女は、最後に、笑顔で、こう、述べて、いた。
『在学中、多くの出会いを経て気付きました。私は助けられてばっかだなって』
『私、卒業後はこの土地に恩返しできるような仕事がしたいです』
嘘だろ、と思った。
おいおい、と思った。
お前、諦めるのかよ。何だよ、美大まで進学しておいて。そこで終わりか。立ち止まるのか。散々周りにデカい口叩いてきたくせに。今まで語ってきたコトは全部嘘だったっていうのか。お前にとってジャンプは、そんな簡単に捨てられるもんだったのかよ。なあ、おい。
私を置いて、大人になるのかよ。
「……はは」
気付けば、渇いた笑いが漏れていた。
みんな、現実と向き合っていた。
いまだに夢を見ているのは、私だけだった。
彼と出会ったのは、その後だ。
本を手に取ることが、いや娯楽を消費することが苦痛になってしまった私は、それでも脚を止める事ができず、夜な夜な見知らぬ人のしょうもない過去を尋ね歩いた。それが自分の糧になると信じていた。真面目な人間として振る舞うために被っていた社会人のガワも、捨てた。自棄になっていた。あの時の私はほとんど壊れかけだったと思う。最後に設定された命令を繰り返すだけのロボット、あるいは地縛霊に近い何か。そんな私の目の前に、ふらっと、彼が現れた。
「ナツキちゃんは、なんというか足の遅いチーターって感じだよね」
「馬鹿にしてるの?」
彼との会話には常に生産性がなかった。
「じゃあナツはお喋りなナマケモノね」
「なんだよ、それ」
彼との会話から産まれるものは何もなかった。
「つまんないな。ナツキちゃん、センスないよ。足が遅くてセンスのないチーターだ」
「チーターにセンスがあったらあんな豹柄してないわ」
彼から得られるものは何もなかった。
けれど、それでも。
彼は私の隣にいてくれた。恐ろしい満点の星空の下で、ずっと、手を握っていてくれた。どこにも行かないように、繋ぎ止めてくれた。何もないからこそ、私は彼のそばにいられた。
私はようやく、空を見上げることをやめられた。
そして私は、気付いてしまった。
夢を見ていない方が、幸せだったことに。
夢を叶えなくても、幸せになれることに。
ああ、もしも。
もしも彼がいなくなったら、私はまた、あの星の眩しい夜にひとりぼっちだ。
そんなのはもう、耐えられない。
停滞する喜びを知ってしまった私には、もう、走り出すことはできない。
私には、もう何も、燃やせるものがないのだ。
ああ、本当に。
本当に、反吐が出る。
私は私自身のために、彼を失いたくないと思っている。
それはあまりにも、醜い感情だ。
*
帰り道は、既に夕陽で照らされていた。アスファルトに伸びた二人分の影が、睦まじそうに手を繋いでいる。遠くでサイレンが聞こえる。
「ねぇ、ナツキちゃん」
「ん」
「あれで良かったのかな」
「あれって?」
「最後の」
「わかんないわよ、んなもん」
わざときつい口調で言い返す。同時に、どう生きればいいか、と零した彼女の表情が蘇る。
「何が正解かなんてわかるわけないでしょ。みんなまだ途中なんだから。あたしは思ったことを言っただけ。ウジウジしてる可愛い子にちょっとムカついただけよ」
彼女の気持ちは、よく分かる。それまで積み上げてきたものに意味がなくなった瞬間のあの無力感は、今でも私の深い部分にしがみついて一向に離れてくれない。背後を振り返ると、いつだって暗いまなこでじっとこちらを見つめてくるものがいる。もっとできただろ、もっとやり方があっただろ。どうしようもない後悔が私の足を掴んで、引き摺り込もうとする。
「……失敗すらしてない、勝手に諦めた私が、言えるような立場じゃないんだけどさ」
「俺にはそーゆーのよく分かんないけど。優しいねえ、ナツキちゃんは」
そう言って馬鹿にしたように笑う彼も、きっと優しい。これはこれで彼なりの励ましなのだろう。腹は立つけれども。
結局のところ、私たち二人は揃いも揃って彼女の魅力にやられてしまっている。だから真摯に向き合いたくなる。だからきちんと前を向かせてやりたくなる。彼女が今後どのような選択をしたとしても、私たちはそれを応援するだろう。貸しも借りも抜きにして。
「ねぇ、ナツキちゃん」
「ん」
「別れようか」
「……やだ」
「言うと思った。頑固なんだから、ナツキちゃん」
「言うと思ったんなら言わないでよ」
「言わないといけないと思ったんだ」
彼は一つため息をついて、続ける。
「分かってるの? 俺は死ぬんだよ? いつかは分かんない、いつかは分かんないけど、必ず死ぬ。致死性の病気なんだ。俺はナツキちゃんを悲しませたくない。一人にさせたくない」
「いつ死ぬか分かんないのはあたしも同じでしょ。あたしだっていつかは必ず死ぬ。この世に産まれた時点でみんな末期なの。それとあんたと別れてもあたしは悲しいし、あたしは一人よ」
「もう、屁理屈ばっかり」
「好きになる相手を間違えたわね」
「そうだね。でも、またこの話はするから。ちゃんと腰を据えて、ね」
「じゃあ一生腰なんて据えてやらない。あんたの隣で地上を歩き続けてやる。こうして」私は右手を持ち上げる。繋がった彼の左手も持ち上がる。「無理矢理、引っ張ってってやる」
「ナツキちゃんには敵わないなぁ」彼は笑う。心底楽しそうに笑う。「本当に、自分のノロマさが嫌になるね」
*
マンションの前へ着くと、彼はコンビニに寄るからと言うので先に部屋へ戻った。鍵を開け、電気を点け、夜ご飯の献立を考えながらテレビを点けた。中年のコメンテーターが、訳知り顔で偉そうにしていた。
そうだ、今日はオムライスにしよう。オムライスは彼の好物だ。こんな日に好きな物を作ってやるなんて彼に笑われそうだが、仕方ない。軽口を叩きつつも喜ぶ彼の顔が目に浮かび、自然、私の顔も綻ぶ。炊飯器から今朝炊いた米を皿によそい、レンジに入れた。玉葱を微塵切りにしソーセージを輪切りにし、フライパンで炒めて温めた米とケチャップを加えたところで、キッチンの置き時計に目が行く。ふと、彼はまだ帰ってこないのかとよぎる。
ばくん、と大きく心臓が鳴った。首筋に嫌な感覚を覚える。汗が服の下を伝う。フライパンを持つ手が震える。いや、まさか。まさかそんな昨日の今日で。だってさっきまで一緒にいたじゃないか。私は笑い飛ばしながら、必死にお玉で米をかき混ぜる。カチ、カチ、と秒針の音が、やけに大きく聞こえる。私は米を炒める。ケチャップの赤色が、次第に行き渡ってゆく。コンビニはすぐそこだ。彼はきっと、今にも帰ってくる。テレビでは大勢が笑っている。鼓動が早くなる。換気扇が回る。コンロの火が揺れる。いつの間にか窓の外が暗くなっている。フライパンを振る。喉が渇く。私は無意識に唾を飲み込んでいる。
ナツユキ(英雄病より) 遠藤歌う @utau_
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