けやきの夜明け
森谷はなね
1
中2の秋、わたしの世界から声が消えていった。
「難聴、ですか」
真っ白で無機質な診察室に、呆然としたお母さんの声が溶けて消えた。
『
著しく低音が聞こえにくくなる難聴で、発症の原理は判明しているのに原因は不明だという――わたしの耳につけられた病名。
「難聴といっても正しい治療を行えば治る類のものですから、補聴器等の準備は現段階では不要かと思います」
淡々と病状を説明していく女医と、呆然と目を見開いたままの姿の母が対照的だ。当事者であるわたしは大袈裟に悲観せず、静かに医師の言葉に耳を傾けていた。
「完治までどの程度かかるか明示はできませんが、やれる治療はしっかりやりましょう。
「……はい。治るのなら、やります」
おおよそ必要としていないであろう形だけの答えに、女医は頼もしいと言わんばかりの笑顔を浮かべてパソコンのモニターに向き直った。
すぐに難しい名称の薬がいくつか読み上げられ、処方される薬の説明を受ける。続いて生活の注意事項も淡々と説明されていき、気づいたら『
「これで診察は終わりです。お疲れ様でした」
いまだ心ここに在らずなお母さんを完全において、診察は終わった。行くよ、とお母さんの背中を叩いて先に歩き出すと、背後からとぼとぼという擬音がとても似合う歩き方でついてきた。普通逆だよね、と思いつつも口には出さないのは子どもなりの気遣いだと思ってほしい。
「お母さんがそんな弱りきっててどうするの。わたしは平気だよ」
やっぱり我慢できずおちょくりを交えて励まそうと声をかけるも、力なく待合室のソファにもたれるだけでわたしと目も合わせようとしなかった。
……そんなにショックなのかな、子どもが病気になることって。
免疫ゴリラなんてダサいあだ名までつけられたほど誰がどう見ても健康に育ったからこそ、難聴なんて病気になったショックは大きいのかもしれない。
これ以上お母さんを励ます気にもなれず、かといって深く考え込みたいわけでもないわたしは思考を放棄するようにスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。
下へスクロールして、ピン留めされた送信先の中からひとつの相手を見つけて開く。粋がったフォークギターのアイコンに『
中学に上がってからもクラスはずっと同じくせに、学校では全く話さなくなった。その代わり、毎日のようにメッセージアプリでやり取りをするようになった……知り合いと呼ぶにも、友達と呼ぶにもなんだかしっくりこない人間だ。
『聞いて和馬』
『難聴になった』
重く受け取られないように、あえていつもの雑談をするテンションでメッセージを送る。それと同時に診療受付の医療事務に名前を呼ばれ、お母さんの手を引いて席を立った。
和馬はすぐに既読はつけない人間なので、そのまま放置してもいいだろう。そもそもこれも冗談と受け取るかもしれないから、返信は期待しないでおこう。
そう思っていたこの時のわたしは、その後すぐ既読がつくことも、和馬が鬼のようにメッセージをよこしてくることもまだ知らない。
--
……難聴かぁ……
帰宅し自分の部屋へ戻ってから、漠然とした不安が津波のように襲ってきた。完全に時差でのショックだった。
病院ではわたしよりも病人のような様子のお母さんが側にいたから「ホラーコンテンツで自分より怖がっている人がいると冷静になる」あの現象が起きていただけで、実際ちゃんとわたしも不安になっているのだと今更気づいた。
……これからどうしようかな。どうすればいいんだろうな。
胸の中をぐるぐる、不安定に動き回る黒い生き物が棲みついた。
--
わたしは自分の聴力の変化に気づいていた。
授業中や会話中に聞き返すことが増えたり、聞き返しても全く聞き取れない時は愛想笑いで頷くだけだったり……今までこういうことが数えきれないくらいあった。
そのたびに友達からは不思議そうな顔をされたし、先生の中には不機嫌になる人もいた。耳のことは、勘のいい人には気づかれているかもしれない。
それでも、言ってしまったら終わりだと思っていた。
耳が聞こえないことは、普通じゃない。普通じゃなくなったら、みんなと同じように生きれなくなる――そう思っていたから、声がほとんど聞き取れなくなるまで何も言い出せなかった。
今日の病院だって、わたしの変化に気づいていた担任から受診をすすめられて行ったのだ。結局、気のせいであれ、杞憂であれと願い続けていた日々虚しく、わたしの耳には立派なラベリングがされてしまった。
頑なに我慢しているわたしのことを、周囲からはどう思われていたんだろう。
「明るく自分らしく」をモットーに生きてきたわたしだけど、結局のところわたしは「周りにどう思われるか」しか考えていなかったのかも……?
その事実に気づいてしまったことも、みんなと同じ人間ではなくなってしまったことも全部、
難聴になったわたしは、どう扱われていくんだろう。なんて言われるんだろう。
今まで親しくしてくれていた友達から突き放されたら?
クラスに味方が誰もいなくなったら――
わたしの友達はみんな、わたしが病気になっただけでそんなことをする子たちじゃないって分かっているのに、ふと浮かんできた仮定の話も想像するだけでこわくてたまらなかった。
「学校、行きたくないなぁ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます