幸せは蝶々になって

くらげれん

第1話

 蝶は静かに舞って、何かに惹きつけられるように優しくとまる。淡黄色の羽で白くほのかな光を放ちながらゆらゆらと宙を舞う姿に心を奪われる。

「あの人、蝶々たくさん…」

 その羽から落ちる鱗粉は幸せの粉。

 蝶が吸う蜜は幸せのオーラ。

 蝶は別名「夢見鳥ゆめみどり

 まるで夢のような幸せにとまり、飛び立ってしまえば夢は儚く散ってしまう。しかし長い間とまられた人間は、幸せに魅入られ現実との区別を失ってしまう。






「何読んでるんだろう…」

 大学の中庭のベンチで読書をしていた男は、声に気付き目線を送った。

「これ、気になる?」

 そう言って静かに立ち上がると、顔の辺りを舞っていた数頭の蝶々が少し離れ男の顔が現れた。その顔は噂話によく上がる美形で、木漏れ日に優しく照らされ優しく影を落とした。

 男の名は、東雲凪しののめなぎ

 東雲はゆっくりと歩を進め、柔らかい声で言った。

「君の名前は?」

 優しく、柔らかく、温かい、不思議な感覚を感じながら、少々伸びてきていたショートヘアーの隙間から答えた。

高瀬たかせみずき…」

 東雲は高瀬に本について話し、スマホの着信と共に去っていった。高瀬は終始東雲に見とれていた。正確には東雲の周りの多くの蝶々に見とれていた。幸せを可視化したその蝶の美しさは言うまでもないが、他にこの蝶を見る者はいない。

 蝶々をまとい去る背中は、高瀬の瞳に寂しさを滲ませた。






 それから二週間ほどは二人が顔を合わせることはなかった。

 それもそのはず、高瀬は普段から蝶々が多く漂う人を避けるようにしていた。

「蝶々、綺麗だったな…」

「へぇ、見てみたいな。」

 高瀬がつぶやくと後ろから東雲が近づいてきた。

「そんなに驚かないでよ。表情筋疲れない?」

「あ、すみません…」

 東雲の蝶々の数は多いままで、図書室の狭い本棚の間で男二人という状況でさらに高瀬の視界を狭めていた。

 蝶々の鱗粉が降りかかり高瀬は立ちくらみを起こしよろける。すると高瀬の頭に、口々に『美味ダ』という声が響く。東雲がよろける高瀬に手を伸ばし、高瀬が東雲にもたれると、高瀬の頭に響く声が止んだ。そして今度は、『不味イ』と口々に言いながら、東雲の周りの蝶々が全てどこかへ去っていった。

「え、なんで…?」

 と、高瀬がつぶやくのと同時に東雲も、

「蝶々…」

 と、つぶやいた。東雲の口からこぼれ落ちたその単語はしっかりと高瀬の耳に届いた。

「君がさっき言ってた蝶々って、あれのことなんだね。こんなに早く見れちゃった。」

 東雲の微笑みと共に放たれたのは、高瀬の経験上ありえない言葉だった。

「あれ?向こうの人の周りにもいる。気付いてないのかな。」

 東雲がそうつぶやくように言い、声を掛けてくるからと歩きだした。高瀬は思わず東雲の手を取り、中庭まで連れ出した。もちろん、東雲の後を追う蝶々は一頭もいない。

「蝶々さん!戻ってきて!」

 高瀬は、葉っぱと校舎で縁取られた晴天の空に向かって声を張り上げた。

「ちょ、君たち、待ちぃ。そないなことしても蝶々さんは来てくれへんよ。」

 突然話しかけてきた関西弁のチャラ男はペラペラと喋り続けた。

「蝶々さんは幸せを感じとる人の所に集まんねん。呼んだところで来てくれへんよ。そもそも、いっぺん見えるようになった人のところにはもう二度と来うへんのやで。」

 高瀬が不審がる横で東雲は感心していた。東雲が、

「どうしてそんなに詳しく知っているんですか?」

 と聞くと、男はまたペラペラと喋り始めた。

「なんや、君たちまだ登録してへんの?しゃーないな。俺が教えたるっ!の前に、挨拶してへんかったな。俺は砥上一真とがみいっしん。いっくんとか、いちとか、しんとか、なんでも好きに呼んだってな。」

「僕は東雲凪です。よろしくお願いします。砥上さん。」

 東雲は笑顔で答えた。

「おい!なんか距離感じるわー。もっと親しくしてくれてええねんで、多分同い年やろ?んで、そっちの君は?」

「ぼくは高瀬みずきです。」

 高瀬が答えると、なぜか三人の間に沈黙が流れた。

「あぁ、すまん、まだあると思うてたわ。みずきって女の子みたいな名前やな。かわいうてええな!」

 砥上の少々失礼な発言に高瀬が眉をひそめていると東雲が話を切り出した。

「砥上さん、それで登録というのは?」

「あだ名で呼んでくれへんと教えへん。」

「じゃあ、いちで。」

 砥上はニマッとして話だした。

魂蝶こんちょう特別支援協会ってのがあってな、見える人は皆そこに登録すんねん。」

 東雲と高瀬は胡散臭さが満点の協会名に顔を少々しかめた。東雲は笑顔で言った。

「微妙にありそうでなさそうな名前ですね。詐欺ですか?」

「そんな訳あらへんやろ!」

 砥上の食い気味のツッコミが放たれると、三人の周りを流れていた春の優しい風が止んだ。

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