黄金の恋が実るまで

塩庭 匿

王の物語

在りし日の夢



 その日、エルは急いでいた。

 なんたってこの後は、秘密のマナーレッスンがある。ロス先生を待たせるわけにはいかないと、速足で小道を歩いていた。


「いけないわ、ロスさんに怒られちゃう!」


 慌てて飛び込んだ先は、カフェ『ムネモシュネ』。ロスとの待ち合わせ場所は、いつだってムネモシュネだ。蓄音器が鳴らす協奏曲コンチェルト、かぐわしいコーヒー豆の匂い。どれをとっても、ここはパーフェクトな場所だ。

 店内には店主のゲルハルト、それから淑女ライラがくつろいでいる。彼女の元には美味しそうなレモントルテ。もしかしたら、今日のレッスンに使われるのはアレかもしれない。と頬を緩ませる。

 緩ませた頬で視線を動かすと、悪い笑みでギヴという名の青年をねじ伏せるロスが目に入った。

「え、何を?」と疑問が口から漏れるエルに、ロスは「エルさん、おはようございます」と紳士的に挨拶をしてくる。


「いたたッ! やぁ陛下、おはよう!」

「お、おはようございます、ギヴさん」


 警戒心を込めながら言うと、ロスは満足げに頷く。


「何をしているんですか?」

「ちょっとした賭けさ。まぁおれは負けたけどな!」


 エルは、ロスが賭けに乗るなんて珍しいと眉を寄せた。それが正しいかというように、彼は「ふむ」と息を漏らした。


「エルさん、二分十五秒の遅れですが」

「あっ、ごめんなさい」

「完璧な生徒であるエルさんにしては珍しいですね?」


 エルはその言葉に、言いたくて仕方がなかったかと言うかのように口を開いた。


「実は、セントバーナードのアン・マリーに追い駈けられたんです」

「ああ、ミズ・ドロテアの」

「はい。飛びつかれたらどうしようもなくって……」


 なんとも陳腐な言い訳、だがロスなら信じてくれると思っていた。

 彼は頬を薄っすらと緩めた。それは犬が好きだからか、エルが好きだからか、残念ながら彼女には想像がつかない。

 一方、捻り上げられていた手を緩んだ隙に引っこ抜いたギヴは、大人しく店主に「ロス・キースリングにコーヒーを」と頼んだ。

 賭けなどしなくても、無償でもらえるんじゃないかと思いつつ「……そういえば、何を賭けていたのですか?」と聞く。


「ああ、エルさんがおれに気があるかですよ」

「へっ!?」


 突然の言葉に耳まで真っ赤にさせるエル。いやいやいや、あの! あのロスさんがそんなくだらないこと賭けるなんて!?

 槍でも降るんじゃないかと天井を見上げる。それから、「う、どっちがどちらで……」と小さなごにょごにょ声で聞いてみる。


「おれが惚れていない方へ。ギヴさんが惚れている方へ」

「結果は陛下が最初にどこを見るかで、さ!」


 案の定、トルテに吸われていましたけどね、なんて笑顔で言うロス。それはまるでエルの食い意地が張っていると言っているようじゃないか。エルはほんの少しの反抗心を抱いたけれど、首を振ってかき消す。


「そんなんで分かるんですか?」

「おや、そう言うってことはおれに惚れているとでも?」


「そこまで自惚れちゃあいない」なんて言う彼。裏を返せば、自惚れているって思うぐらいエルの事を思ってるんじゃないかと顔を真っ赤にする。

 さすがはクイーン、頭の回転だけは速い。真っ赤な顔はリンゴのようだ、とカフェ・ムネモシュネの客たちは思う。


「じゃ、じゃあロスさんはあたしのことが好きだって言うんですか?」

「もちろん」


 藪から蛇が飛び出してきたようだ。

 ロスは、水を得たサーモンのように饒舌に語る。


「エルさんは可愛く、聡明で、さらに敏いときた。その小さな体からは想像もつかないほどの勇敢さ、そして無謀さ。おれはそんなところに惚れてしまったんです」

「ろ、ロスさん!?」

「銀河一キュートなあなたを口説くことができれば、それはなんと光栄なことだろうか。その栄誉を受けることが出来る人は限りなく少ない方がいい」


 なぜならあなたは初心だから。

 そういう彼は、自分が今行っていることを分かっているのだろうか。否、分かっていないだろう。

 エルの顔はもうリンゴを通り越してぐつぐつの太陽みたいに赤い。赤というより白というか、とにかく恥ずかしくて仕方がなかった。


「エルさん、あなたはあまり分かっていないでしょうが、とても魅力的な女性なのですよ。その愛らしい顔だけでなく、強く美しい性格を含め、パーフェクトレディなんですから」

「うぇっ!?」

「ああ、マナーがまだなっていないのは減点ですが、それすらも愛おしい。それに、あなたは学習がお速い。あなたなら古めかしいマナーもあっという間に覚えちゃうでしょう」


 褒め殺しである。

 唇をキュッと結んだエルは、次にこう口にした。


「なな、なんで皆さんは止めないんですか!?」


 にやにやと笑う客たち対してだ。だが、彼らは揃って「無理だからさ!」と答える。無理って、確かに、この中にロスさんを止めれる人はいなさそうだけど!

 ふらふらと吸い込まれるようにカフェ・ムネモシュネの扉にへばりついたエルは、聞きたくないと言わんばかりに耳を塞いだ。


「エルさん? 聞いてください、おれの気持ちを──」

「あ、ああああああっ!?」


 ついに声を上げたエルは、バッと飛び上がった。


   1


「え……夢?」


 口をぱくぱくさせたエルの視界を埋め尽くすのは、見慣れた寄宿学校の部屋だった。窓の外を見れば、外はじんわりと白んでいる。もう朝!? ま、待って、さっきの夢は何!?

 現実の自分の顔が、真っ赤になっていくのを感じる。

 自分がこんな、は、破廉恥な夢を見るとは思ってもみなかったエルは、小さく息を漏らした。


「あれが現実だったら……」


 いや、ないない。あのロスさんに限ってはないわ。

 自分で考えておきながら、少しへこんだ。けれどクイーンはさっさと頭を切り替えて、朝の支度を始めるのだった。


(完)


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