バス

山丹凉帆

或るバスの記憶

ゴトン。

歩いていたら気づかないような段差で、バスが揺れる。

乗客全員の体が軽く宙に浮く。

そして元の通りの場所に体がスポッと収まった。

当然、誰もそんなことなど気にかけていない。

ただの1人を除いて。

「……寝過ごした」

妙に冷静に、しかし眠そうに、ある男は零した。

黒のスーツに黒ネクタイ。上等な革靴からは、無地の黒い靴下がのぞいている。

一つ大きな溜息をついて、少し高くなっているタイヤ上の席から小首を回してバス内を見渡した。

学校が密集している地帯を過ぎたからか、乗客は少ない。

優先席に座った老婆と、後ろの方に立っている学生らしき人影がいくつか。そして、一般席に座った女性が1人。

「次は、沙汰夏橋前です。御降りの方は、ベルを鳴らしてお知らせください」

録音された声が車内の静寂を破る。

再びの沈黙の後、パポーンとベルの効果音が鳴った。

乗り過ごしたからには、早めに降りるべきである。

「次、止まります。谷川アレルギー内科は、南消防署バス停前すぐにあります。咳・鼻水――」

いつも聞くノイズの混じった声が、いつもとは違う宣伝を垂れ流す。

バスが減速を始めると同時に、男は席を立つ。

減速が急だったのか、幾人かがよろめいた。

「ありがとうございました」

いつも通り、ICカードをかざしながらバスを出ようとする。

ブザー音が鳴った。

「残高が 不足しています」

普段は耳にすることもない音声が耳に触れ、

「へ?」

間抜けな声が男の口をついた。

混乱する男に、運転手がややげんなりとした口調で言う。

「お客さん、定期区間外ですよ」

寝過ごしたのだから当然である。

料金箱の液晶には、残高10円の文字が燦然と映っている。

慌てて男がブレザーのポケットをまさぐり出した。

後ろに並んでいた女が、早口の、しかし不思議とはっきり聞き取れる声で言った。

「貸します、早くして下さい」

「は、はぁ」

男は迷った。見知らぬ人から金を受け取っていいものなのかと。

ハイヒールの踵を地面に打ち付けながら、静かに、しかし芯のある声で女性が重ねて言う。

「受け取れと言っているんです」

その彼女は何故か知り合いと重なって見えた。

少しその目を呆然と見つめた後、

男は金を受け取ってしまった。

静かに、男の手が硬貨投入口へと動く。

自然と勢いのついた硬貨が、音を立てて吸い込まれていった。

「……ご利用ありがとうございましたー」

まるで何も見なかったかのように、運転手が言った。

バスを降りる時の段差で少しよろめく。

ノンステップのバスでないことを忘れていた。

少しため息をつき、後ろを振り返りながら男は礼を言おうとして、

「あの、ありが――」

やめた。

振り返ったところには、誰もいなかったのだから。


男は学校に向かって歩きながら呟く。

「暖かいな」

冬の風が彼のマフラーをさらう中、呟く。

「とても暖かい」

男はマフラーを直しながら、携帯を取り出し耳に当てる。しかし番号を押した様子はない。

「ありがとうな、……」

畦道には心底愉快そうな、男の笑い声が響くばかりであった。





あとがき

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バス 山丹凉帆 @hokkyokugo

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