凍てつく夢
蒼琉璃
第1話
この山は、日本百名山にも選ばれるような、素晴らしい山だ。
春や夏には、自然豊かな風景を堪能できるし、厳冬期ともなると、初心者から上級者まで美しい冬の景色を楽しむ事ができる。
一般的に冬山登山を始めるなら、ここが登竜門だろうと言われている場所だ。
「はぁ、素敵。一面の銀世界を見ちゃうと、人生観変わっちゃうなぁ!」
「夏山登山より、難易度が高いからなぁ。冬山は成し遂げた時の達成感が凄いんだ。だから、俺と
いい大人になっても、こうして子供の頃から変わらず、友人として付き合いがあるのは、ありがたい事だな。
三人で同じ高校を受験し、大学は別々になったが、翔太と僕は山岳サークルへと入部して、山の素晴らしさに目覚めた。
それから、僕と翔太は共にいろんな山にチャレンジするようになっていた。日本の山だけじゃない、最近は海外にも行くようになっている。
「もちろんよ! 二人共、雪山はベテランでしょ? 安心して登頂できたもの。本当に最高の景色を見せてくれてありがとう」
弓香はそう言うと眩しい笑顔を浮かべて、雪山を見渡した。
「いやいや、それでも雪山に関して、僕達はまだ経験が浅いから、修行が必要だよ」
大学、社会人となり離れ離れになった僕達だったが、冒険心は子供の時から変わらないな。
実を言うと、僕は子供の頃から弓香が好きだった。けれど、彼女のお目当ての相手は、翔太で……彼も弓香に好意を抱いていた。
両想いの二人の間に、僕の出る幕はなく、男らしく身を引くと、二人の幸せを祝福した。
そんな二人も十年前に結婚し、子供が授からなかった事を除いて、結婚生活は、順風満帆のようだった。
こうして、共通の趣味を謳歌しているのだから、二人はおしどり夫婦だろう。
と言っても、弓香が登山を始めたのは五年前で、雪山登頂は今回が初だ。ちなみに僕はというと、登山やらシュノーケリングやら、趣味を謳歌する独身貴族を楽しんでいる。
「本当に綺麗だね。視界も良好だし。さっきは雪崩があったから本当に焦ったけど。間一髪だったよね」
弓香の言葉に、僕は先程の雪崩を思い出した。
厳寒期の表面雪崩って、かなりの速度だし、崩れる範囲も広いんだな。話には聞いていたが、実際にこの目で見ると、あまりの迫力に生きた心地がしなかった。なんとか巻き込まれずに済んだのが、本当に奇蹟だよな。
そんな危険な中だったが、僕達ならば無事に登頂できるという確信があり、先を進んだ。
僕と翔太は慎重にラッセルしながら、弓香が進みやすいよう、地面を交代で踏み慣らし、トレースした。こうして、三人で初登頂する事ができて、本当に嬉しい。
ラッセルはかなり体力がいるし、正直二人だけで交代しながらやるのも厳しいが、僕達くらいの登山経験があると、事前に他の山に登ったりして充分な体力作りをしているので、問題はなかった。
弓香へのサポートも、完璧だったんじゃないかな?
「達也、そろそろ下山しよう。空の様子も気になる」
え、こんなに晴天なのに?
それに、雪が降りそうな気温じゃない。むしろ暑いくらいだ。
「どちらにせよ、登頂も計画時間ギリギリだったもんな。弓香を無事に下山させるのが僕らの務めだ。帰りは僕が先頭になるよ」
雪が降る、という予報はなかったはずだけど、まるで早送りされるように、驚くべきスピードで雲は流れ、みるみるうちに分厚くなってきたなぁ。
チラチラ雪が降り始めてきたし、急いで下山しよう。
吹雪になってしまっては、このまま本当に遭難してしまう。
✤✤✤✤
視界は吹雪で遮られ、もはや僕は完全に、方向感覚を失っていた。
雪原を踏む、アイゼンの音だけが虚しく響いて、僕をより一層孤独にさせる。
どうやらコンパスもピッケルも、あの雪崩に巻き込まれそうになって、どこかに落としてしまったらしい。
「弓香、翔太……!」
うしろを振り返って、彼らの名前を叫んでみても返事は返って来なかった。真っ白な視界の中に、彼らの気配は全く感じられない。
僕は下山を焦るばかりに、遅れていた二人を、置き去りにしてしまったんだろうか?
分からない、記憶がぐちゃぐちゃになっている。
「違う……」
そう呟いたつもりが、言葉にならなかった。
「違うだろ、思い出せ」
ピッケル無しで、どうやって山頂まで行ったんだ?
僕は手袋を外して、感覚のない自分の両手を見る。僕の手の先は凍傷で黒ずんでいた。とうとう寒さで体が動かなくなって、僕はその場に座り込んでしまう。
雪洞を手で掘ろうとしたが、そんな体力はもう残っていない。
僕は低体温症になっている。
だから、弓香と翔太、僕の三人で美しい雪山を登頂したっていう、ありえない幻覚が見えていたのか。
「すまない……すまない」
僕は号泣しながら再び謝罪する。
弓香は、最初から雪山登山には乗り気ではなかった。
午後には雪が降るらしい、最悪吹雪になるかもしれないから、今日の登山は危険じゃないか、と言う翔太の言葉に、僕は耳を傾けるべきだった。
僕は、翔太と二人のスキルがあれば問題ないと思っていたんだ。
あの時、雪崩が起きて。
僕はなんとか、怪我もなく自力で脱出した。だけど、ザックもピッケルも流されてしまって……。
最悪なのは、雪崩に巻き込まれた人を探すビーコンを、家に忘れてきてしまった事だ。まさか、僕達が雪崩に合うなんて、思わなかったから。
雪に埋もれた二人の位置が分からず、闇雲に掘っても見つからなかった。かなり深くまで埋もれているのかもしれない。
僕は、自力で二人を救出する事を諦めた。
かろうじて身に付けていた携帯で救助要請しようとしたが、雪崩の衝撃で壊れていて役に立たず、僕は救助を求め下山を開始したんだっけ。
それで、猛吹雪に見舞われたんだ。
「………暑い、体が暑い」
全身が燃えるように暑く、衣服が邪魔だ。
僕は、吹雪の中だというのに服を脱ぎ捨てる。
子供の頃の二人が、雪の中で楽しそうに笑いながら戯れているのが見えた。
「僕も、入れてくれよ」
手を伸ばした瞬間、ゆっくりと雪の上に倒れ込み、僕の意識は暗転した。
凍てつく夢/了
凍てつく夢 蒼琉璃 @aoiruri7
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