第2話

 ぼくは中学生になっていた。といっても、一年生の時は休み休みしながらもなんとか通ったが二年に進級してまもなく家に籠ったままになった。理由は一つだ。サチコの事件があってから自分が突き落としたという疑念に囚われていたからだ。あの後ぼくは学校を休みがちになり、中学に上がってからもそれは変わらず、そこに体育教師の橋元の件が加わった。

 あの日、サチコが崖下へ落ちてすぐに警察や救急車が呼ばれ、付近の人たちも大勢集まった。みんな口々に「やっぱりこの土地はねぇ」と言いながら様子を見守った。やがて落ちたサチコが救助され、病院へ運ばれたが亡くなったと知らされた。警察は落ちた時の状況を現場にいた人たちに聞いたが、誰の目にも原っぱの石か何かに足をとられ、後ろへつんのめって運悪く落ちたのだと見えた。他ならぬ父親もそう証言して泣き崩れた。警察もそう判断しない訳にはいかず事故として処理された。警察はぼくには何も聞かず、そのことに安堵しながらもぼくが押したと言うべきじゃないかと苦しんでいた。たとえ誰も信じなくてもぼくの右手に残る感触がそう言っていた。苦しみは消えることなく続いていたのだ。

 あの日からぼくの周辺は変わった。ユキの母親が無理をして身体をこわし、県外の親戚を頼って引っ越すことになった。当日、小さな貸家だったからか荷物は少なくて軽トラ一台が家の前に停まった。手伝うつもりでいたヒロちゃんとや健一も拍子抜けしたように黙って見守るばかりだった。迎えに来た伯父さんと母親は見送りに来たご近所さんたちに挨拶をし、タクシーに乗った。ユキは「さようなら」と泣きそうな声で言い、車に乗った。ぼくたちは「頑張れよぉ」とか「返事だすから手紙書けよう」と叫びながらタクシーを見送った。ユキが後部座席からときおり振り返るのが見えた。

 事件の後、サチコの家族は引越し、家は売りに出された。原っぱのアパートの建設は中止になり、崖際には防護柵が設けられて売りに出された。それでも『あの土地は呪われている』という噂が広がり、売れないまま残された。原っぱで遊ぶ子供を見ることはなくなった。

 そしてヒデオちゃんの態度が変わった。その前から避けられるようになっていたが、完全に無視されるようになった。集団登校はヒデオちゃんと二人になったが、一人でさっさと登校するようになった。

 ある朝早めに起きてヒデオちゃんの家の前で待った。

 出てきたヒデオちゃんはぼくを見て驚いたがそのまま行こうとした。ぼくはその背中にことばを投げた。「なんで、無視すると」

 ヒデオちゃんは立ち止まり、迷ったように振り返った。その時ぼくはその目に驚いて足がすくんだ。真っ直ぐな視線には怖れに似た色が混じっていた。心がざわついた。「おまえ」とヒデオちゃんは言った。「おまえ二度目だろ」

 ドキリとした。二度目、と小さく呟いた。「なんのこと」

 「おまえがあの日サチコに何かしたんだろ」

 驚いて胸が激しく高鳴った。「な、なにもしない、離れていたし、サチコは自分で落ちたんだ」

 「おれ、前見たことがあるんだ」

 「ま、前って」ぼくには思い当たることはなかった。

 「忘れたのか、自転車の中学生のこと」

 自転車の中学生、と言われて胸の中で何かが疼いた。そして、あっ、と胸の中で叫び、目に鮮明に甦る記憶を呆然と受け入れた。

 あれは小学校の一年の時のことではなかったか。ユキちゃんとヒデオちゃんの三人で公園へ遊びに行ったことがあった。わりと大きな公園で近隣の小学校や、中学生も遊びに来ていた。そんな中、自転車を乗り回す中学生の一団があって、危ないうえにブランコやすべり台に割り込んではやりたい放題だった。「いやな奴らだね」とこぼしながら見ているほかなかったが、その時際どい一瞬が目に飛び込んできた。一人の女の子が自転車の一団とぶつかりそうになったのだ。ユキちゃんが「キャア」と叫び、ヒデオちゃんも「ああ」と声を上げた。その場にいたみんなが緊張したその時、女の子はまるで誰かに押されたように横へ転がった。三台が横へ避け、二台の自転車がブレーキをかけるキィーという音が鳴ったが二メートルほど過ぎてから止まった。それでもぶつからずにすんだ。友達らしい女の子数人が駆け寄って転がった子を起こした。女の子はなにが起こったのかわからない表情でただ呆然としていた。

 ユキちゃんが「よかったねぇ」と言った。ヒデオちゃんは「誰かに押されたみたいだった」と言った。

 ぼくは自分の手を見ていた。手に感触が残っていたのだ。でもまさかという思いが強かった。ヒデオちゃんがぼくをジッと見ていたのに気づいていたが、そんなことがあるはずがないと思っていた。だってぼくはユキちゃんやヒデオちゃんと離れた場所にいたのだから。

 だが確かにあの日からヒデオちゃんの様子が変わり始めたことに気がついた。

 「おまえ」とヒデオちゃんはもう一度言った。「おまえがサチコをやったんだろ、おれ、そう思っている、だからもうおまえとはいっしょに遊びたくない、学校へもいっしょには行かない」

 ぼくはその日学校を休み、その後親や先生に促されて登校することもあったが、たびたび休んだ。自分がサチコをを押したと、そのことばが心に重く存在していた。

 ヒデオちゃんが死んだのはそれから数日後のことだった。教室の窓から落ちたのだ。二階の窓の下はセメントのブロックで作られた花壇だったが、頭から落ちそのブロックの角に当たった。すぐの誰かが先生を呼び、病院へ運ばれたが頭の裂傷がひどく助からなかった。その時ぼくはヒデオちゃんと話がしたくて昼休みに六年生の教室まで来ていた。ヒデオちゃんが友達とふざけて教室を駆け回っていた。入り口に立つぼくと目が合った。ヒデオちゃんはぼくを見ながら真っ直ぐに窓の方へ走った。友達が「ヒデオ危ない」と叫んだ。だが間に合わずにそのまま窓から落ちた。

 呆然と佇みながら、押してない、ぼくは押してないと何度も呟いた。

 それから数カ月学校へ行けなかった。五年生になり、親や先生、友達から励まされて登校する日もあった。でも日によって胸の底からこみ上げてくるサチコを押した感触や落ちる前にぼくを見たヒデオちゃん怖れの目がぼくの心を蝕んだ。

 胸の中のいろんな思いを打ちあける相手は誰もいなかった。いるはずもなかった。ヒデオちゃんの時は完全に事故だった。手に感触はなかった。でもぼくを避けようとして、ぼくから逃げようとしてヒデオちゃんは落ちたのだ。そのことが心の底に重たく沈み大きな塊となって居座り続けた。


 中学二年の夏、事件が起こった。いや、ぼくが起こした。

 部屋に籠るぼくのところへ橋元がやって来た。体育教師の橋元だ。部屋に入ってくるなり「なにしてる」と怒鳴った。ぼくは驚いて立ち上がり一気に緊張して何も言えなかった。それからぼくを立たせたまま橋元の罵倒が始まった。「なにを甘えている、努力も何もしていで生きていくつもりか、おとうさんやおかあさんにどれだけ迷惑かければ気が済む、迷惑かけているのはクラスの仲間や石田先生も同じだ、おまえのくだらない甘えのせいでみんなが迷惑している、本当はおまえみたいなクズは殴り倒してやりたいぐらいだ、いい加減にしろよ、我慢にも限界がある、明日は必ず出てこい、もし来なかったらわたしが力ずくで引きずってでも連れていく、殴ってでも連れていく、覚悟していろ」

 それから一階で母と話をして家を出た。ぼくは立ったまましばらく動けないでいたが、自分の中の変化に気がついていた。憎しみだった。胸の中で渦巻き、噴出して指先や足の先、頭のてっぺんまでを満たしていた。

 あいつ、殺してやる、ぼくの中で誰かがそう言った。

 次の日ぼくは夜が明ける前に起きた。気持ちは決まっていた。早朝から勉強している健一とバッタリ会ったが、「逃げるのか」と問われて「うん」と返した。健一は何も言わなかったが、ぼくの中に一抹の不安がよぎった。兄は全部知っているような気がしたのだ。気になりながらも家を出た。裏山に隠れているつもりだった。部屋の目覚まし時計を持って出ていた。八時過ぎに家が見える場所まで下りてきた。林の陰からずっと見張っていて、見るからに怒りの形相で橋元が来たのは九時を過ぎていた。一度家へ入りすぐに出てきた時の様子はただならぬ雰囲気が伝わってきた。橋元はあたりをうかがいながら、どうするか迷っているようだった。だがすぐに元来た道を歩き始め、学校へ戻るのだと察しがついた。ぼくはそこそこの距離を保ちながら橋元の後を追った。林が途切れ、住宅やブロック塀、自販機の陰を利用しながら視界からはずれないようにした。そして橋元が県道にたどり着き横断歩道の際に立った時、ぼくはぼくの意思でその男の背中を押した。だが橋元の身体は大きくて一歩前へ動いただけだった。なんだ、と振り返って誰もいないので不思議そうに見回す橋元を今度は思いっきり両手で押した。男は驚きと恐怖の表情を浮かべ背後へ倒れ、走ってきたトラックと衝突した。ぼくは手の感触を確認し、「やれた」と思った。興奮して大きく息をしながら「やっぱり間違いないんだ」とその事実を受け入れた。


 

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