屋根

壱原 一

 

住んでいるコーポの屋根は平ら。お向かいの荘の屋根は三角。


お向かいの三角の屋根は、オレンジブラウンの瓦屋根で、この間ペンキが塗り直されつやつやてかてか光っている。


屋根の斜面の天辺の継ぎ目、いわゆるむねのところには、かぎ爪で掴みやすいのか時々カラスが止まっている。


特に燃えるごみの日には、寝静まる早朝の戸外に、舞い降りて体勢を整える羽ばたきやかぎ爪の音が聞こえる。


カーテンと窓を隔てて、ばさばさかつかつと身じろいで、それから幾らか間を置いて、かあとのんびりした鳴き声が続く。


風が凪いでいる日和には、お向かいの鳴き声に応えて、どこか近場の別のカラスがかあと答えるのも聞き取れる。


かあ。


ああ。


かあ。


かあーあ。


ああ。ああ。


来る起床時間に向けて、徐々に浮上する意識の中、外で調子よく交わされる気まぐれで伸びやかな鳴き声は、何とも平和で、穏やかで、人の好き好きによるだろうが、自分としては気に入っている。


雲一つなく晴れた週末の日。湿度は低く、爽やかな風があり、ぼちぼちカーテンの洗濯にうってつけの好機である。


お向かいに面した窓へ進むと、オレンジブラウンの屋根の棟に、黒いカラスが止まっているのがレースのカーテン越しに窺える。


眩しい陽射しに目を細め、しゃらしゃらレースの布地を引いて、ぱっと視界が白んだ後にお向かいの屋根が露になる。


棟の中央の辺りに、ちまちま動いて周りを眺める真っ黒なカラスが一羽。


かあ。


ああーあ。


かあ。


ああ。かあ。


どこぞのカラスと鳴き交わし、かぎ爪がこつこつと棟を掻く。


のどかな心地で窓を開け、換気しつつフックからカーテンを外しだす。不意に「ああ!」と濁った大声が響き、ざばざば激しい羽音が立った。


があ!


ばああ!


ああ!ああああ!ああ!


あっ…


ぎょっと目をやったお向かいの屋根で、止まっていたカラスが羽を広げ、ばたばた暴れ、藻掻いている。


思わず眉を寄せて注視すると、暴れるカラスの全体に、綱状の物が絡み付いているのが見えた。


綱はお向かいの屋根の向こう側から伸び来ている。太く、うねうねと揺れていて、さながら植物の蔓のよう。


表面はごつごつと樹皮に似た有機的な凹凸を備え、光沢のないゴムやタールめいたねっとりした黒色をしている。


そうと見る間に、カラスの首はぽっきり倒れ、もはや身動きも声もなく、絶命してしまったようである。


突然の出来事に、混乱というか、当惑というか、そんな中にも危機感を覚えて、窓を閉め室内へ下がろうと片手を上げた。


同時にカラスがお向かいの屋根の向こう側へ引き込まれてゆき、代わりに小山の黒影が棟からぬうっと顔を出す。


そう顔。


まるで顔。


植物の蔦のような黒いごつごつの綱状の物が、まるで顔、それから胴、そこへ腕と足のごとき4本の綱を分岐させ、歪な人体の形をして、オレンジブラウンの屋根の上にゆらゆらと這い出して来る。


実際、それが這っているとして、また人体と同様の表裏があるとしたら、綱状の不審物の顔は、こちらを向き興味を示しているように見えた。


鳴いてもぞもぞしていたカラスが襲われたことを踏まえると、もう呼吸さえ躊躇われて、網戸があるきり、がら空きの窓の前で、閉めようと伸ばしかけた片手を止め、少しも動けなくなってしまう。


顔様の部位はくねくね踊り、こちらが動いて音を出すか否か、襲うに値するものかどうかをしげしげ探っている風情。


どうかどうか見切りを付けて去ってくれと祈り、半端に上げたままの手の震えを抑え付ける最中、唐突にお向かいの部屋の窓が開き、てめえ何見てんだこの野郎と、怒り心頭の怒鳴り声がご近所の静寂をつんざいた。


きっしょいんだよくそが!ひとの部屋じろじろ覗いてんじゃねえさっさと引っ込めあんだその面やんのかこのくそなめやがってぶっころすぞ!


生活時間が違うのか、お向かいの人とは初対面で、あれほど苛烈な人だとはよもや思いもしなかった。


あんなに口があわあわして、目頭から目尻までがん開き、手に汗握って慌てる事態はきっと後にも先にもない。


お向かいの人は窓枠に足を掛け、身を乗り出し、中指を立てて怒り狂う。


その頭上で、黒い綱状の不審物がびくびくするする接近し、勢いよく啜られる麺のごとく、ちゅるんと室内へ吸い込まれていった。


絡み付く不審物によって室内へ押し戻されたお向かいの人は、驚いたカラスに似た「ばっ!」という奇声と共に見えなくなり、何の物音もしない。


ぎくしゃくと窓を閉め、時間の感覚すら失くして放心していると、やがてけたたましいサイレンが集い、更に経ってから自室のインターフォンが鳴った。


お向かいで事件があったという。


直前に被害者と思われる人物が誰かと言い争う声が聞かれた。近所の人が通報して、室内に血痕が認められたそうだ。


目撃した不審物を伝えなければと口を開けたが、なんと説明すればよいか、まったく見当がつかない。


問題の時間帯に、大きな怒鳴り声を聞いたとしか言えなかった。


以来、カラスの声が裏返ったり、唐突に途絶えたりすると、にわかに落ち着かず、心配になる。


あれは今どこに居るのだろう。


平らな屋根の上かもしれない。



終.

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屋根 壱原 一 @Hajime1HARA

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