歯ブラシ咥えて
長井景維子
ふたり
そんなに見つめないでよ。私の顔に穴が開いちゃいそう。紅茶にレモン、入れる?
私は貴方のマグカップにレモンスライスを一枚滑り込ませた。貴方は返事をしなかったけど、紅茶はレモンティーが好きだってことを、長い付き合いで知っているから。私は、貴方の顔を見ないように、わざと視線を避けて、私のミルクティーを一口啜った。それが、今日の貴方には気に食わなかったみたいだね。
質問に答えろよ。俺の目を見て答えろ。
私は、また無視したので、貴方はますます不愉快そうに、私の方を睨みつけている。そんなに睨まないで。怖いよ。
どうしてこんなに貴方が怒ってるかっていうと、昨日、私が買って来たベッドカバーが気に入らないこともあるけれど、それより何より、私が貴方に黙って仔犬を貰って来たから。もう一週間になるけど、この子が貴方の大切にしているソファーにおしっこしちゃったんだよね。
いつになったら、あの犬を返してくるんだよ。俺は認めないから。俺が猫派だっていうことは、君、知ってただろう?犬は耐えられないんだよ。それに、あんな雑種。
貴方は唇を尖らせて、文句を言いたいだけ言うと、レモンティーには手をつけず、黙ってパソコンを打ち始めた。私は、ドギーベッドに近づき、眠っている仔犬の頭を優しく撫でて、こう言った。
雑種だからって、何よ。それに、貴方は猫派かも知れないけど、猫だって、このソファーに爪を立てて傷つけるに決まってる。私は猫の、あの、感情を表に表さないところが怖いのよ。喜んでるなら尻尾を振る、撫でてやると喜ぶ、犬ってなんて平和な生き物なんだろう。これがわからないって、貴方、不幸だよ。
貴方は聞こえないふりをしている。もうこの話題はやめよう。お互いのテレワークが今日も始まるので、貴方も私もその準備を始める。
仕事の仲間だった貴方とは、考え方も価値観も合うし、それだから結婚という形はとらないで一緒に住んでいるんだけど、ここのところ喧嘩が絶えない。私がすることが気に入らないのね。私にストレス溜めてるみたい。
今夜は貴方の好きなタンシチューを作る。スクラッチから。コストコに行って、牛タンをまるまる一本買ってくるわ。赤ワインも惜しげもなく使って、美味しいデミグラスにするね。お願いだから、ご機嫌直して。
午前中に買い物に行こう。タンは少なくとも八時間は煮込まなきゃ。
貴方のどこが好きか、言おうか。私は車をスタートさせる。髭をシェイビングフォームと剃刀で、毎朝、綺麗に剃るところ。貴方の鏡に向かって髭を剃る仕草が好き。それから、私のことはあんまり褒めないけど、その代わり、よそのどんな綺麗な女の人にも興味がないところ。私が綺麗な女の人を見ていると、
君の方が足が綺麗だよ。
とボソッと言ってくれたりするの。そして、新聞をめくりながら、知らんぷりして、コーヒーを飲んでいる時、私が、
明日、ピクニックに行こうか?
なんて誘うと、
お、いいね!
と、ニコッと笑って、どこ行くどこ行く?
と、私の提案に素直に乗ってくれるの。ピクニックに行くのは、いつも喧嘩の後、仲直りしたい時。
私は今夜はタンシチューを作って、テーブルにキャンドルでも灯して、少しロマンチックな夜を演出するつもり。ピクニックは、貴方に気を遣わせるものね。今回は私が悪いわ。私、わかっているんだよ。でも、仔犬は諦められそうもない。私が折れるべきだけど、今回はわかって欲しいな。仔犬の名前は、貴方につけてもらおうと思って、まだ保留にしてある。貴方も飼いたければ、猫を飼おうよ。犬と猫、一匹ずつ。
コストコで、牛タンを一本とワインを何本か買った。ハインツのデミグラス缶をふた缶買う。冷凍アップルパイも買った。クロワッサンは袋入りを買う。ブーケガルニも見つけた。それから、普通のスーパーに行き、サラダの材料になる野菜を見繕う。キャンドルは家にあったから、急いで車に乗ると、家に帰る。
テレワークの時間帯に間に合うように帰って来た私は、急いで鍋にタンと玉ねぎ、ニンジンの端っこ、ブーケガルニを入れて、弱火にかける。貴方は、珍しく、コーヒーを淹れてくれた。
どこ行ってたの?コストコ?こんな時間に。
私は、淀みなく答えることにした。
そうよ、牛タン買って来た。今夜、タンを煮込んだシチュー食べようよ。
貴方の瞳が少し輝いて、貴方が喜んでいるのがわかった。嬉しい。猫を飼う提案は、ディナーの時にしようかな。子供がいないから、犬でも猫でも大歓迎なのよね。
彼女は、僕が入社した時、社長秘書としてキャリア二年目だった。僕はエレベーターの中で初めて出会った彼女に一眼で恋をした。ビジネススーツを颯爽と着こなす彼女は、柔らかそうなふんわりと波打ったセミロングの髪を揺らしながら、エレベーターで最上階に上がっていく。僕は彼女が乗ったエレベーターが何階で止まるか確認して、社長秘書であることを突き止めた。
彼女に近づくチャンスが僕にはなかなか訪れなかった。フロアーが違うし、部署も違う。エレベーターでの行き来と、ランチタイムに行くカフェテリアが唯一のチャンスだった。そのうち、カフェテリアで取締役秘書の女性と顔馴染みになり、何人かで飲みに行った時に、僕は社長秘書の彼女のことを色々尋ねた。すると、勘のいいその女性は、
「それなら、飲み会、私がセットしてあげる。彼女も来るように誘っておくわよ。」
僕は感謝とあまりの嬉しさに、思わず赤面して言葉少なに礼を言った。
お目当ての社長秘書の彼女と飲み会で一緒になり、僕は隣の席に座った。すぐに意気投合し、連絡先を交換した。驚いたことに、彼女もエレベーターの中で、自分をじっと見ている僕に対して、好感を持っていたらしい。そんなわけで、彼女と僕は、頻繁にデートしたり、ラインで連絡をとるようになり、急速に近づいていった。
そして、彼女のマンションに僕は転がり込んだんだ。小綺麗な2LDKで、僕は自分のアパートは引き払って、彼女のマンションに正式に越した。そして、彼女は会社を転職して、前から興味のあった出版の仕事を友達と一緒に始めるようになった。僕と同棲していることが、万が一、会社にバレたらまずいから、というのも理由の一つだった。
僕は、今までの会社で、システムエンジニアとして働き続けている。今の暮らしは心地よくて、経済的にも安定しているし、なんの不足もない。彼女が料理を作ってくれることも多いし、僕も時々はキッチンで腕を振るう。たまには一緒に外食する経済的な余裕もあるし、ウーバーイーツで出前を取ることも多い。洗濯も掃除も、交代でやる。
ただ、僕はいつかは彼女と所帯を持ちたいという目標がある。彼女はどう思っているのかわからない。大切なこと過ぎて、なかなか言い出せない。お互いになんとなく、このことについて話すのを避けている。子供が出来たら考えればいいのかも知れないが、その子供にできちゃった婚だったのだといつか打ち明ける日が来ると思うと、やっぱり順番をきちんと守りたいと思う。
そんなある日、彼女がミックスの仔犬を貰って来た。保護施設で里親を探していたので、登録していたらしい。僕に内緒で、だ。彼女が連れて来たその仔犬は、チワワとマルチーズのミックスの雄で、可愛いのだが、僕に何の相談もなく、内緒で手続きしたことがひっかかった。その犬が、僕が気に入っている買ったばかりのソファーにおしっこの染みをつけてしまった。それを見て、僕は彼女に酷いことを言ってしまったのだ。
「犬を返して来てくれ。僕は猫派だ。」
これは、僕の言いがかりだった。僕は猫派だったわけではないのだ。この犬を飼ってもいいけど、僕に一言、相談してくれるべきだと思った。それに、彼女はなんでも気に入ると、僕になんの相談もなしに買って来てしまう。ある日は彼女が買ってきたベッドカバーの色で喧嘩した。つまらないことだ。
彼女は悲しそうな目をした。そして、不穏な空気が二人の間に流れ、僕は黙ってパソコンに向かった。僕も彼女も、喧嘩には慣れている。仲がいいからするんだろうし、喧嘩をしても、いつも彼女が、
「ピクニックに行こう。」
と切り出してくれて、二人でバスケットにサンドイッチとビールを詰めて、近くの公園まで歩いて行って、ランチを食べる。それが、仲直りの儀式だった。
でも、その日は違った。彼女は何も言わずに車で出かけて行った。気晴らしに一人でドライブだろう。僕は放っておいたが、内心、彼女のすることが気になって仕方がなかった。そして、彼女は程なくしてコストコの紙袋を抱えて帰って来た。
「タンシチュー食べよう。」
彼女は淡々と言った。僕はこういう彼女のさりげないサプライズが好きだ。二人とも、お互いの仕事でテレワークしながら、キッチンでは大鍋で牛タンが柔らかく煮えていた。
貴方が喜んだのは、嬉しい。よかった。後で、クローゼットの奥から、キャンドルを探して来なきゃ。確か、大きな円柱形の白い蝋燭があった。私は決して料理は上手ではないけれど、良い材料が揃えば、シチューのような煮込み料理は簡単なのよ。今日は一生懸命、美味しく作るね。
貴方と知り合う前、私はひどい失恋をしたの。貴方にはあまり詳しく話してはいないけど、もうそろそろわかって欲しいから、話そうかな。貴方の方が彼よりずっといい人だし、ずっとずっと好きだから、もう、全然気にしていないよ。貴方も過去を私に話してくれないけど、誰か忘れられない人がいるなら、どうしようかな。私は知りたくないかな。私が知ったところで、その人と会えるわけでもないし、どんな人かわからないんだから、知らないままでいいわ。
貴方に話すまでもなく、私が気にしなくなっているんだから、失恋した元彼のことは、もう言わなくてもいいかも知れない。私の過去を洗いざらい、根掘り葉掘り聞き出すような趣味は、貴方にはないことは分かりきってる。お互いに相手をリスペクトする関係でいたいのは、貴方も私も同じだから。
お、いい匂いがしてきたな。
彼女に今夜、プロポーズしようか。言い争いをしたせいか、彼女が普段にも増して愛おしい。仔犬のことを気にしているんだろうな。僕に気を遣って、名前をまだ決めずにいる。
二人は、仕事を終えて、彼はテーブルの上を片付け、淡いグリーンのテーブルクロスを敷いた。シチューは出来上がった。サラダを取り分ける皿を並べ、大きなサラダボウルにグリーンサラダを盛り付ける。彼女は、シチューをスープ皿に盛り付ける。クロワッサンもバスケットに入れる。
キャンドルを見つけ出した彼女は、テーブルクロスを敷いたテーブルの真ん中にキャンドルを据える。シルバーをセットする。そして、キャンドルに火を灯す。ワイングラスを置き、ワインボトルとコルク抜きを彼の席の横に置く。
「さ、食べようか。」
彼女は、彼の方を見て、声をかける。彼は黙って頷き、席に着く。彼がワインのコルクを抜く。ワインをグラスに注ぎ、彼女も席に着いた。
「食べる前に、謝る。犬のことは私が悪かったわ。ごめんなさい。でも、もう、引き返せない。この子に情が湧いてしまったの。だから、理解して欲しい。私が散歩も世話もするから、飼わせて欲しいの。」
彼女は、彼の目を見つめながらこう言うと、ひとつ息をして、
「猫が好きなら、貴方も猫を飼おうよ。私は猫も好きだから。それから、犬の名前、まだ付けてないから、貴方に命名して欲しい。」
淀みなくこう付け加えた。それを聞いた彼は、
「俺は猫派だって言ったのは、嘘だよ。犬、好きなんだ、実は。俺に黙って貰って来たのが嫌だっただけ。でも、もういいよ。名前、何にしようか。君が付けたら?それより、食べよう、冷めるよ。」
「うん。」
二人はワインで乾杯した。
「犬嫌いじゃないんだね。名前、私がつけていいの?」
「メリーにしようか、俺がつけてよければ。ウィル・ユー・メリー・ミー?のメリー。」
彼女は聞き逃して、シチューのスープをスプーンで口に運びながら、もう一度聞き返した。
「結婚してくれますか?って言ったんだよ。」
僕は彼女の目をまっすぐに見て言った。彼女は驚いて、
「どうしたの?今日なんて、私、謝ろうと思っていた矢先に急にプロポーズ?」
「そろそろこういう話する時だろ。仔犬の名前、メリーじゃダメか。雄だもんな。笑。」
彼女はにこりともしないで、右手に持っていたスプーンをテーブルクロスの上に落としてしまった。
「嫌なのか?」
僕は不安になって、彼女の答えを待ちきれなくて、こう言った。彼女は唐突にこう言い出した。
「今、貯金いくらある?」
僕は不安になり、
「なんでそんなこと聞く?」
と、聞き返す。
「あ、ダイヤをまだ買ってないからか?」
すると、彼女は、
「ダイヤは省略しよう。いつも思ってたの。結婚指輪は必要だけど、婚約指輪って、ただのファッションリングだなあって。一度嵌めたら、箱にしまってタンスの肥やしだよね。要らないよ。それより、その分、他のことに使おうよ。」
僕は彼女の言うことはもっともだと思った。
「そんなことより、マンションの頭金が貯まってから、結婚の話にしようと私は思ってた。タワーマンション、買いたいじゃない?」
僕はタワーマンションと聞いて、驚いた。
「ちょっといきなり最初からタワマンは、無理じゃないか?」
彼女は続ける。
「場所にもよるよ。都心である必要は全然ないもん。横浜とか、埼玉とか、千葉とか。」
僕は頭の中で、計算していたが、
「犬を飼い始めたんだから、地方に土地付きの一軒家、中古でもいいから買うのはどうかな。別荘に住んでもいいよね。東京に近い必要はもうこれからはないでしょ。」
僕はこう言うと、彼女の反応を待った。彼女はしばらく考えていたが、
「そうね。伊豆とかに別荘買ってもいいね。二人ともテレワークなんだし。新幹線で東京に出られるなら、たまに本社に出社するにも便利だね。犬も喜びそうだね。」
「だろ。いろいろ選択肢はあるよ。」
「うん。結婚しよう。私、賛成。」
彼女は照れ隠しに、わざとそっけなく言うと、僕たちはワインで乾杯した。
「さ、冷めるよ。食べよ。」
彼女の作ったタンシチューはとびきり美味しかった。キャンドルの炎が彼女の卵型の輪郭を美しく照らし出し、その顔の周りに柔らかく纏っている茶色っぽい髪を優しく映し出していた。僕はちょっと気取って、
「君の瞳に乾杯。」
と言った。多分、このセリフを言うのは一生のうちあったとしてもプロポーズの時の一度だけだと昔から思っていたのだ。
昨夜はびっくりしたわ。急にプロポーズされて、貴方にタワマンの話をふっかけてみたけれど、暖簾に腕押しだった。貴方はもっと考えがしっかりしていたから、私はやっぱりこの人しかいないって確信した。幸せになりたい。私、幸せになる自信ある。
私の故郷は、滋賀県の大津だけど、貴方にまだみてもらってないな。私が育った街、通った小学校、近所のおじちゃんおばちゃん、そして私を生み育ててくれた大切な両親。
うちの親が貴方を気に入るかどうかは愚問だわ。東京で働いていて、いい大学出てるし、いい仕事してるし、私が愛している人だったら、両親が気に入らないわけはないの。父も母もいつも言ってた。芳佳、結婚するときは、親なんて無視していいんだよって。自分本位になりなさい。自分が一緒に暮らす人だから、自分の好きな人を選べばいいんだって言ってた。なんだか、父の背中が小さく思えてきた。涙が出ちゃう。寂しい。父から卒業する時が来るんだね。
母は、いつもニコニコしていなさいって言う人だった。笑っていれば、幸せは向こうからやって来る。どうやれば笑えるかを一生懸命考えてごらん、って教えてくれた。これって究極の教えだった。
弟の大也はきっと一番貴方にとって手厳しいかもしれない。あの子はお姉ちゃん子だったからね。きっと競争心丸出しになるかもしれない。負けたくないのよ、貴方に。私を連れ去ってしまう男が現れたら、戦いたくなるんだろうと思うよ。
さて、実家に電話でもしてみようかな。弟にラインを入れとくのが一番手っ取り早いかも。自動的に両親に連絡が行くからね。大也はいい子だから、私が困らないように、上手く同棲のことなんかも話してくれるから、そこら辺は信用して間違いないんだ。
メリーに餌をやる時間だ。もう、メリーでいいや。雄だけど。ウィル・ユー・メリー・ミー?のメリー。
私は立ち上がって、仔犬を迎えに行き、抱き抱えると、キッチンへ連れて行く。そして、綺麗なミネラルウォーターをボウルに注ぎ、餌入れに昨日仔犬用に煮ておいた野菜と、缶詰のドッグフードを混ぜて与える。メリーはまだおすわりもお手もできない。
どうしつけたらいいんだろう?私は途方に暮れるが、まだ小さいんだから、もう少し好き勝手にさせておこうと思う。噛み付く癖が付いたらどうしようか、と思いながら、平気でトイレットトレーニングもサボって、貴方のソファーについたおしっこの染みを思い出して、ちょっと反省した。
貴方が寝室のドアを開けて出て来た。寝癖だらけの頭を掻きながら、
「今、何時?」
ときくので、
「九時を回ったところだよ。」
と言うと、
「なんで起こしてくれないんだよ。リモート会議が九時半なんだよ。」
「大変。あと二十分だよ。」
貴方は、急いで歯ブラシを咥えて、パジャマのままで走り回っている。私は関係ないから鼻歌まじりで、メリーのしっぽを触っていたが、朝ご飯でも作ってあげなきゃと思い立ち、昨日の残りのクロワッサンをオーブントースターで温めて、カフェオレを作り、オレンジを切る。
「食べる時間あるなら、どうぞ。」
キッチンで立ったまま食べ始める貴方を尻目に、私は洗濯機を回す。
「しかし、いきなり寝坊か。幸先悪いわ。昨夜飲み過ぎたな。」
身なりを整えた貴方は、口の周りのパン粉を払って、パソコンの前に座る。ズームの会議が間も無く始まる。私はメリーを連れて寝室に籠る。静かにしていてあげなくちゃ。
今朝はびっくりした。九時まで熟睡。夢も見ないで安心して眠りこけた。隣に自分のプロポーズを受けてくれた芳佳がいると思うと、なんだかお袋のお腹の中に戻ったような安心感だった。
芳佳の心臓の鼓動がドックドックと聞こえて来るくらい、僕たちは近くにいた。芳佳は眠れなかったのかな。目が覚めたら隣にいなかった。
芳佳をお袋に重ねるようになったのは、もう一年位前からだ。芳佳の顔は卵型で、お袋のような下膨れには程遠い。でも、女手一つで育ててくれたお袋は、なんと言っても僕にとっては女の中の女なんだ。そのお袋に迫る存在感、いや、存在感の大きさではいまや芳佳が凌いでいる。はるかに。
いつの間にか芳佳がナンバーワンの女性だった。それが一年つづいた。気持ちが変わらないか確かめるため、一年待った。大丈夫だった。
お袋に電話しよう。ラインで言うことじゃないから。同棲していることは耳に入れてある、もちろん。でも、そっとしておいて欲しい僕と芳佳の気持ちをわかってくれて、口出しは一切しない。僕が伝えることだけを黙って受け入れてくれる。芳佳には出来ない芸当だろうな。まだね。
リモート会議が終わって、書類をふたつ仕上げたら、ランチだな。
彼女とメリーが寝室から出て来た。
「終わった?」
「ああ。なんとか誤魔化した。あー、びっくりした、九時過ぎまで熟睡だよ。」
「私は眠れなかった。興奮し過ぎた。お酒もさめちゃった。ただ、幸せで、嬉しくて、貴方の寝顔ジロジロ見ながら、なかなかハンサムだよな、と思ったよ。嘘じゃない。」
「別に顔なんてついてりゃいいんだよ。」
俺はカッコイイと言われたことがほぼほぼゼロだ。でも、自分の顔を嫌いになったことはない。なかなかいい顔してると思う。自分の顔に責任持ててるかどうか、時々、鏡に向かって歯ブラシしながら睨みつけている。この習慣は確か中一の頃からだ。でも、ハンサムって芳佳に言われて、悪い気はしない。
「メリーの散歩に行って来るわ。スーパー寄るけど、欲しいものある?」
「ビール買って来てくれると嬉しい。確か冷蔵庫にもう一缶しかない。」
「わかった。おつまみも適当に買ってくるね。」
私は今日、仕事が休み。有給を前々から取っていた。バスク風チーズケーキを焼こう。クックパッドでレシピを調べて、買い物に出かける。
新婚旅行には行きたいな。どこに行こうかな。バスク風チーズケーキで思い出したけど、スペインは前から興味があるんだ、私。
メリーを連れて、トコトコと歩く。二人で住む事になる別荘は、どんな家になるだろう。広い庭が欲しい。家庭菜園もしたいし、草花や美味しい実のなる果物の木も植えたい。昔、実家の庭に柚子の木があって、毎年その実を収穫して、母が美味しい無農薬柚子ジャムを作ってくれていた。あれを私もやりたい。
メリーがおしっこした。まだ生まれて二ヶ月経たないから、雄だけどおしっこも雌みたいにしゃがむようにしてする。道端におしっこが流れていく。私は持ってきた空のペットボトルに水道水を入れたものをカバンから出して、おしっこを流す。メリーはクンクンと鼻で自分のおしっこの臭いを確かめている。
スーパーは空いていた。メリーを駐輪場に括って、水を与えて、カートを押しながら、チーズケーキの材料と彼に頼まれた缶ビールの6缶パックを入れて行く。おつまみはポテトチップとサラミとカマンベールにした。ワインも飲みたくなる。帰ったらすぐに白を一本冷蔵庫で冷やそう。
今日はお魚にしよう。アクアパッツアを作ろうと思い、金目鯛、中位の一尾とアサリを買った。海老は確かブラックタイガーが冷凍庫にある。
買った物をエコバッグに詰めて、メリーのところに行くと、もう尻尾を振りながら待ちきれなさそうにしている。かわいい。
子供ができたら、どんなにかわいいだろうと思う。一生懸命に育てよう。ワンオペでいいんだ、私は。昔からそう思って生きて来た。男と女はやっぱり向き不向きがあるように私は思う。子供の世話は、やっぱり女性の方が向いてる。母性本能っていうのは、太古の昔から女性に与えられた才能だと思う。
なんか、昨日婚約したと言えばしたんだけど、ふわふわとして、雲の上を歩いているような気分だ。寝不足だからかも知れない。帰ったらちょっと昼寝しよう。
メリーのリードを片手で持って、反対の肩にエコバッグを掛けて、かなりしんどい。
メリーは一心不乱に前を見て、小走りに進む。リードを引っ張る力はまだ弱いけど、なかなかこの犬は優秀な鼻を持ってるようだ。電柱ごとに臭いを嗅いで、他の犬の臭いを探っている。
マンションの玄関に着いた。エレベーターに乗り、五階を押す。オートロックなんて高級なマンションじゃない。家賃の安い築三十年のマンションだけど、五階なので安全だろうと思い、契約した。2LDKで、この辺で8万はいいと思う。学生時代からもう七年住んでいる。学生の頃は、同窓生の女子大生に一部屋貸してあげてた。ルームシェアリングも、最初は女同士で始めた。かなり揉め事も多かった。彼女が私の留守に男の子あげて、風呂も使わせたので、怒ったら、どうして怒るのかわからないと言われ、彼女は出て行った。そして、しばらく一人でこの部屋に住んでいたけれど、勤めて二年で彼と知り合い、半年後には彼と住むようになった。男と女のルームシェアリングは女同士より好都合だ。喧嘩しても、すぐ解決する。私と彼はいつもピクニックで仲直りだった。
芳佳が帰って来た。僕はインターネットで中古の別荘を探し始めた。
「おーい、ランチにしようよ。お腹減ったよ。」
僕はいくつか目星い物件をプリントアウトしていた。彼女は残りご飯を温めて、海苔の佃煮を入れたおにぎりを作って、熱いほうじ茶と共に持って来た。
「これ、どう思う?」
二人でおにぎりを頬張りながら、売り別荘の写真を次々に見比べる。
「うーん。土地が広い方がお買い得だね。建物は古くていいじゃん。あとから建て直せばいい。」
「ああ、別荘地は田舎だから、基本土地は安いよな。」
「犬が思いっきり遊べることと、家庭菜園ができること。将来子供ができたら、滑り台とかブランコとか置けること。柚子とかみかんとかの木を植えたいんだ。オリーブもいいな。」
「それいいな。俺は、プール作りたい。庭は五百坪は欲しいね。」
どんな未来が待っているにせよ、二人で力を合わせて切り開いて行く。東京のオフィスに月一ぐらいで行く用がある。新幹線の三島駅から車で二十分ぐらいのところに、敷地が八百二十坪の古民家を見つけた。二階の窓から富士山もよく見える。この物件を次の週末、二人で見学に行くことにした。メリーはそろそろトイレットトレーニングを始める。
ウィル・ユー・メリー・ミー?
今朝も陽気に歯ブラシ咥えて鼻歌まじりにメリーの姿を目で追いながら、洗濯機を回す。彼女はまだベッドの中だ。白んだ太陽が東の空に登り始めた。
歯ブラシ咥えて 長井景維子 @sikibu60
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