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ミリセントは世間の流行りにそっぽを向くほど強い意志や思想などを持っているわけではない。
巷で流行っている女性を主人公としたロマンス小説の熱心な読者ではないのは、なんのことはない、単に興味が湧かなかっただけだからだ。
以前、学友から借りて読んだロマンス小説の楽しみ方をイマイチわからないまま読み終えてしまった経験も影響している。
恋愛に揺れ動く繊細な心情描写を自分ごととして捉えられず、かといって共感もできず。惚れた腫れたの行く末に野次馬根性が湧くこともなく、身の置き場がわからず、宙ぶらりんのまま読み終えて、それきり興味が続かなかったのだ。
けれども「君はロマンス小説というものに対し全力で取り組んだのか」と問われてしまうと、ミリセントは「そうです」とは言えない。特に唯一読破したロマンス小説の終盤は流し読みしてしまった自覚がある。これでははいけないと思った。
なにごとも、全力で向かわなければ見えてこないものもあるとミリセントは思う。
それにこのロマンス小説というジャンルが巷で流行っているということは、そこには読者の欲望を満たす「恋愛」の描写だとか展開だとかが詰まっているだろうとミリセントは考えた。
流行りのロマンス小説を読破することで、ダニエルの「恋愛がしたい」という願いに対し、なんらかのインスピレーションやアンサーを得られるのではないか。
そういうわけで、ミリセントは早速流行りに敏感な同級生たちにリサーチし、一冊のロマンス小説を選定した。
『ラヴ・ファンタジー』なる流麗なフォントで綴られた、直球の題名が目立つロマンス小説は、「時代を超えた一大スペクタクル・ファンタジー・ラヴロマンス」と銘打たれていた。
同級生たちの多くが薦めてきた通りに、『ラヴ・ファンタジー』は注目作かつ売れ行きがよいのか、書店の一番目立つところにたくさん平積みされているどころか、棚の一面を使って表紙が良く見えるよう陳列されていた。
『ラヴ・ファンタジー』を選んだのは、古代から中世を舞台にしつつ「生まれ変わり」や「魔法」といったファンタジー要素が含まれているからだ。ミリセントが以前読んだ、現代を舞台にした直球のロマンス小説がイマイチぴんとこなかったので、今度は違う趣向のものを選んだわけである。
もちろんダニエルのことも考えている。女性主人公ということで、男性であるダニエルには共感しづらい箇所もあるかもしれないと考えた結果、ファンタジー要素があればそれが彼の興味を牽引してくれるかもしれないとミリセントは考えたわけである。
ダニエルは、ロマンス小説は読んだことがないと言う。流行りのロマンス小説のメインの読者層は若い女性だ。男性であるダニエルには、仮に興味があったとしても手には取りづらいところがあるかもしれない。
実際に『ラヴ・ファンタジー』を求めて書店を訪れた際にも、『ラヴ・ファンタジー』の書籍は飛ぶように売れていたが、それらを手にしていたのはミリセントが見た範囲では女性だけだった。
そうして『ラヴ・ファンタジー』を二冊購入したミリセントは、一冊をダニエルに渡し、一週間後までに読み終えて感想を言い合おうと約束した。
今回は『ラヴ・ファンタジー』に「恋愛」とはいかなるものか教えてもらおう、という気概で読んだからだろうか。はたまた飛ぶように売れているヒット作だからだろうか。ミリセントは以前、貸してもらったロマンス小説よりは『ラヴ・ファンタジー』を楽しむことができた。
いや、正直に白状すればスリリングかつ二転三転する先の見えない展開にかなり心を揺れ動かされた。
『ラヴ・ファンタジー』を読み終えた今なら、もしかしたら、以前読んだがぴんとこなかったロマンス小説も楽しめるかと思うくらいには、『ラヴ・ファンタジー』は面白かったのだ。
なるほど、これは売れるわけだ。とミリセントは読破してからひとりごつほどだった。
そして、ミリセントは『ラヴ・ファンタジー』から「恋愛」の知見をいくつか得た。
「……あのね、この、わたしたちの『恋愛』には身体的接触が足りないのかもしれない」
幸いなことにダニエルにも『ラヴ・ファンタジー』は楽しめたらしい。お気に入りは、ヒロインを節々で助けるしゃべる薔薇だというところが、園芸を趣味とするダニエルらしいとミリセントは思った。
ひとしきり大真面目に、しかし和気藹々と感想を言い合ったあと、ミリセントはもうひとつの本題に入ることにした。
「『ラヴ・ファンタジー』ではもっと、運命で結ばれたふたりは身体的接触をしていたから」
「つまり、手を触れ合ったり、手を繋いだりって場面のこと?」
「うーん、それから口づけとかもね……」
ミリセントとダニエル、「恋愛」経験値の低いふたりが思い描いた「恋愛」に足りていなかったのは、身体的接触という発想だった。
しかし――
「でも、ちょっと実現できないよね!」
ミリセントはわざと明るく、軽い調子でそう言い切った。
ミリセントとダニエルは幼馴染で、許婚という間柄だ。いとけない子供のころは、手を繋いだことくらいある。だが成長した今となっては、そういった機会はほとんどなく、ダニエルにエスコートされるとき、布越しに彼の腕にそっと触れるくらいであった。
それは未婚の若い淑女と紳士としては、正しい姿なのだろう。
だが正式に婚姻を結び、夫婦となれば、ふたりは「それ」をしなければならないことになる。いや、「それ」は法で決まっているわけではないが、特にわだかまりなく夫婦となったのであれば、「それ」は不可避のイベントであろう。
もちろん、『ラヴ・ファンタジー』も愛の帰結としてそういった行為がやんわりとほのめかされていた。けれども感想を言い合っていた段階では、ふたりともあえてその展開には触れなかったように思う。
単純に、気恥ずかしかったからでもあるが、いずれこうして朗らかに感想を言い合っている相手と、「それ」をするという空想は、ミリセントとダニエルにはいささか生々しすぎた。
いずれふたりは「それ」をすることになるだろうが、しかし今ではない。「婚前交渉なんて言語道断だ」というような思想はふたりとも持ち合わせていなかったが、しかし婚約の段階でわざわざ「それ」をしようという気にもなれなかった。
それにふたりの婚約は、親同士が決めたものだ。ミリセントは誓って、それを嫌だと思ったことはない。ダニエルは伴侶とするには不足がないどころか、ともすれば己には過分な相手だと思っていたからだ。
だけど、情熱的な感情で結び付けられた関係ではないのもまた、事実で。
「……そうだね」
ダニエルがミリセントの言葉を肯定する。どこか力ない感じなのは、気恥ずかしく気まずい感情を押し殺しているからだろう。
「たとえダニエルが相手でも、婚約者の間柄では身体的接触はちょっと実現できない」――。それは、ミリセントから言い出したことだ。だというのに、ミリセントの心にその言葉が引っかかった。さながら指にできたささくれが布地の表面に引っかかったかのような、わずかな不快感を伴って。
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