初仕事1

 時はさかのぼり――


「帰れ!」

 バケツに入った水が宙を舞い、射線上にいた男性にぶつかる、鉄砲水のような勢いと春先の冷たさに、三歩下がっていたところにいた少女にもその飛沫が降りかかり、顔を顰めていた。

 日は四月一日。それは少女のような女性、夜巡 舞の初出社の日のことだった。




 桜の蕾が初々しい、まだ冬の香りをかすかに匂わせる季節、これから暑くなるだろうけれどしばし命の萌芽ほうがを楽しむ。若草が次第に色を濃く、野鳥が餌を求めて北上を始め、しかし人の悲しきは年度終わりという大仕事をこなしてもまた日が昇るように変わらぬ今日が待っている。明日も明後日も、変わらぬことの喜びよりも色褪いろあせた毎日が心を殺し、社会という機械の、小さな歯車の一つになることを強要しているようで、中世の奴隷船のごとく人を詰め込んだ電車はガタガタと揺れながら平常運転を続けていた。

 その孤独に今日一人の女性が加わろうとしていた。人より幾分か、いや大層小柄なその子は真新しいスーツに身を包み、新緑のように若々しさ――にしてはいささか煙臭い――を振りまいて、向かう先は極楽浄土か伏魔殿ふくまでんか、開けてみるまで分からない宝箱のような、採用された会社へと向かう。少なくともネットのレビューでは散々にこき下ろされていることだけは真実であった。



 ……何故なのか。

 揺れる車内で独りごちるように舞は考える。

 事の始まりはどこからなのか、どうしてこうなったのか、入り組んだ紐は酷く絡まって見えても、その実両端から引っ張ればするりと解けていき、しかし二度とない姿になった経緯は永遠に解き明かされることは無くなってしまう。

 関越自動車道を法定速度で走る車、その助手席から隣を見れば中年男性の姿がある。痩せ気味と言えば聞こえがいいが痩せすぎて骨と皮、なんとも食いごたえのない長身の男である。白髪混じりの黒髪にこけた頬、窪んだ目とどこの刑務所から出てきたのかと疑問を抱く風貌だが、誠に残念ながら彼が舞の上司であり指導係だった。

 そんな二人のランデヴーは、ある男の一言から始まっていた。大きくない会社なので入社式はなく、辞令の交付の後、舞が所属することになった部署、人事部へ赴き挨拶。その直後、

「今日いさおっちは法務部のヘルプね」

 言ったのは人事部部長、狂島くるしま そうという男、飄々ひょうひょうとした笑みがなんとも胡散臭い。

「いや、今日は新人の教育何ですけど――」

「だね。実地からスタート出来るなんてそうそうないよ」

 有無は言わせないらしく、いさおっちと愛称で呼ばれた――本人はそれを快く思っていないような表情を浮かべているが――本名、新堂しんどう いさおは渋々ながら了承していた。

 話の流れから巻き込まれていることは明白で、初日現場仕事とはバイトじゃないんだぞと憤慨するのも当然、しかし退屈に殺されそうな紙とパソコンを使っての作業よりかは幾分も気楽かと歓迎する気持ちもあり、決定権はないため物言わぬ置物が最適解かと納得する。

 仮にも上司命令とあっては新堂も強く出られず、なし崩し的に車のキーを預かったのはそれから数分も経たないうちのことだった。



 そして冒頭、農作業中に話しかけたことが運の尽き、哀れずぶ濡れになった新堂は、激昂することなく愛想のいい笑みを浮かべ、

蓬田はすださん、お願いしますよ。その歳じゃ間引きも出来ないでしょう? 保険だってないんだし周りに被害が出てからじゃ遅いですよ」

 懇切丁寧に、悪く言えば当たり障りのないマニュアル通りの台詞で人の心が動くのならばそもそもこんなことにはなっておらず、効果は薄いどころか逆に神経を逆撫でるだけに過ぎない。

 新堂の前にいるのは老人と言っていいほど歳を取った御方で、厳しい表情のままバケツを置き蛇口を捻る。まさかの二投目の準備にしもの上司も躊躇いの表情が隠せない。

「い、一応の確認でしたのでそんな怒らないでくださいよ。今日のところは調査だけさせて頂ければ結構ですから」

「……ふん、勝手にしろ。そしてさっさと出ていけ」

 取り付く島もないとはこのことだろう、老人は水の入ったバケツを持ち、確かな足取りで背を向ける。

 ……はぁ。

 思わずため息が漏れるのも仕方がないこと、ここまで一切の説明もなく資料も渡されずただ着いてきただけの舞に判断できることは何もない。唯一分かったことは濡れたワイシャツが張り付いて上司の姿がより一層みすぼらしく見えているということだけである。

 研修の身とはいえ社員であり仕事を振られればちゃんとこなそうという意識はあるがこうも蚊帳の外では一挙手一投足にすら悩む始末、端的に言えばもどかしく腹立たしく、二人だけになったことをしっかりと確認してから、

「……で、どうするんですか?」

 若干の侮蔑を込めて尋ねる。交渉は決裂、成果は芳しくないのにこのままおめおめと帰るのか、それで会社は納得するのかと。気風を知らない舞だからこそ思い浮かぶことであり、新堂は顔についた水を手で払うように拭いながら、

「聞いてただろ。調査の許可は出たんだ、それで終いさ」

 やる気のない顔に覇気のない言葉、それはノルマだけこなせば後はどうなろうと関係ないと言っているようで、

 ……うーん。

 舞の心の根に例えようのない感情という名の棘が刺さり、思いの外深く残り続ける。昔に置いてきたはずの本性とでも言うのだろうか、とにかく手が出せないもどかしさを払う方法を探していた。

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