第31話 見えない敵
「飯上げーッ」
マムシ高地包囲から三日目、第五中隊に昼食の号令が掛かる。
昨晩の間に後方から野戦炊具が到着して中隊の兵隊たちを喜ばせていた。
野戦炊具というのは戦場で炊き出しを行うための調理機材で、駄馬などで運搬する大きな釜と竈で構成されている。そして全力で稼働させれば約一時間で中隊全員分の食事を作れるという。まさに夢のような代物である。
さっそく温食が支給され、第五中隊の面々は狂喜乱舞した。ホントに躍り出したいくらいの気分である。
献立は米に副食の煮豆という簡素な物であるが、今まで湿った僅かな乾パンが主食だった兵士たちにはご馳走である。
夢にまで見た炊き立てご飯を前にして、ミキは感激のあまり身震いした。さっそく飯盒の中蓋に盛られた米を箸で摘まもうとしたが、あまりの感動に手が震えて上手く摘まめない。
やっとの事で白米を口に運ぶと、まずその温かさに感動した。炊き立ての米の香りが咥内に広がり、舌を優しく刺激する。
今日には高地攻撃の命令が下る筈だから食欲などない……と思っていたのだが、一度口にしたらもう箸が止まらなかった。煮豆はおかずにするには薄味であったが関係なく口の中に放り込む。
知らず知らずのうちに涙がボロボロと零れてきたが、気にも留めずに箸を動かす。
「ちくしょう、うめぇなァ。生きてる味ってやつだ」
ズビズビと鼻をすすりながらアサキは言う。アカツキなどはもう何も言わずにご飯にがっついている。キクリですら無言だ。
ミキも煮豆を食べ、次に白米を頬張り、しっかりと米と豆の味を確かめてから再び煮豆と白米を口に運ぶという作業を繰り返す。
夢のような食事の時間は至極短かったが、それでも一生分のご馳走を食べたかのような気分であった。
さりとてその幸せ気分夢気分も長くは続かない。何しろ今日には攻撃命令が出る筈なのである。
しかし昼食を終えても攻撃命令は出なかった。
昨晩は「朝に攻撃」と言っていたのにもう昼過ぎである。延期に延期を重ねているので兵隊たちも少し気が抜けていた。
「ホントに攻撃するんッスかね?」
アカツキの質問に誰も答えられる者はいなかった。兵隊だけでばくシラセたち下士官も同じ疑問を抱いていたからである。
「もしかして高地に敵はもういないとか?」
「それならさっさと頂上に旗立てるだろ」
「なら砲兵の準備待ちとかッスかね?」
「流石に数日明かすって事はないと思うけれど」
みんな口々に自分の予想を言うが、正解だと言ってくれる人はいない。ただ不安と疑問だけが飛び交う。
そんな状況を流石に見かねたのだろう。マイハマより各下士官を通じて、なぜいま待機をしているのかという答えが返されてきた。
「降伏勧告?」
「ああ。向こうさんの食糧も尽きかけているかもしれないからな。武器弾薬も有り余るほどってわけではないだろうし、あまり長くも籠城はできないだろう」
確かに敵は最初からマムシ高地に陣を整えていたわけではない。ただ敗走して逃げ込んだ先がマムシ高地だっただけだ。つまり籠城の備えなどは不充分だった筈であり、包囲して時間を稼げば必然的に食糧などが不足、飢餓などによって自滅する運命を辿る事になる。
当然ながら敵側もそれは理解している筈だ。だから包囲だけして降伏勧告を行い、自滅か降伏をするのを待っているわけである。
「向こうさんもいい加減に疲れ切っている頃だろう。くわえて腹も減れば抵抗する気力も無くなる筈だ」
少なくとも包囲して待っているだけで敵側の士気や戦闘力を削っている事に間違いはない。
「このまま降伏してくれれば良いのに」
「だなァ。戦闘は御免だ」
みんなわいわいと「戦わないで済むかもしれない」という期待を口にしていたが、アカツキだけは特に何も言わなかった。
まだ敵への復讐心が少しばかり残っているのだろう。当然といえば当然だ。いきなりスッパリ復讐心を棄てて切り替えろという方が無茶である。むしろ正しい感情であると言えるだろう。
もっとも積極的に戦いたいという意欲はもうないらしい。
それよりも腹いっぱい美味しい物を食べたいという気持ちの方が強いようで、炊事班の所に行って炊事兵たちと何やら交渉をしている。
「なんか美味しい物持ってこれるかな?」
「期待したいところだな」
そんな事を話していると、不意にヒューンッという落下音が耳に届いた。
「伏せろッ!」
全員即座にその場に伏せる。続けて繰り返される爆音。
僅かな時間で終わったが砲撃だったのは間違いない。幸いにして着弾したのは隣に展開している例の第六中隊の方角だったので、ミキたちのところには砂ひとつ落ちてこなかった。
元より包囲している各部隊がいるのは森の中である。頂上からは見えない筈だから当てずっぽうだろう。
「どうやら降伏する気はないみたいね」
溜息を吐きながらキクリが言う。
「それにしても随分少なかったね」
やはり弾薬不足なのだろうか。
それでも降伏する意思がないのだとすると大したものだ。
「決死の覚悟ってやつだな。激戦になりそうだ」
「イヤだねェ」
そんな事を口にした時、ふと鼻を異様な臭いが突いた。
なんだこれ、と思うよりも先に強烈な悪寒と吐き気が襲い掛かる。
「状況ガスッ!」
間違いない。毒ガスだ。
急いで
著しく気分が悪くなり、さっき食べた物どころか胃の中にあった物を全て吐き出した。とても呼吸などしていられない。立ってもいられなくなり、ミキは自分の吐いた嘔吐物の中に倒れ込んだ。
周囲でも何とか空気を得ようと穴を掘って顔を突っ込む者や、木に登ってガスから逃れようとする者など、みんな「見えない敵」の威力に苦しみ、のたうち回る。
苦しみは三十分あまり続いた。これまでの人生で最も長い三十分だった。
その間に胃の中の物を全て吐き出し、目、鼻、口から吹き出したあらゆる液体で顔中がベタベタで人相すら解らない状態になる。呼吸をしようと陸に揚がった魚のように必死に口を開閉させたが、その度にガスが入り込んで来て余計に苦しくなった。
それでも反吐が咽喉に詰まらなかっただけ幸いだったかもしれない。
しばらくすると風が毒ガスを流してくれたおかげで、徐々に悪寒も吐き気も収まっていった。異様な臭いも消えていく。
しかしミキはしばらく動くことができなかった。
嘔吐物の中に顔を突っ込んでいるようなものだからさっさと動きたいという気持ちはある。だがもがき苦しむので全ての体力を使い切ってしまい、立ち上がる事すらできなかった。
「衛生兵ーッ!」
各所で救けを求める声が上がり、防毒面を付けた衛生兵が一生懸命に走り回る。ミキも防毒面を付けた担架兵に起こされ、頭から思いきり水をぶっ掛けられた。
そのまま各隊は森のさらに奥まで後退し、防毒面は肌身離さず持つようにと命令が下る。もっともそんな命令が下るよりも先にみんな防毒面嚢を首から下げていた。いつもう一度ガス攻撃があるか何て解ったものではない。
そして第五中隊の後退が終わり、ミキがようやく人心地を持ち直した頃には周囲は既に真っ暗闇になっていた。
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