🔮パープル式部一代記・第七十〇話

 いままで苦労してきてようやく自分も独り立ち(実は、五位・上の身分の兼任公務員)したので少しは楽にと思っていた母が、安倍晴明あべのはるあきへの支払いのために、また徹夜地獄でなにかしらの物語を必死で書いているらしいと聞いた賢子かたこは呆然とする。


「取りあえず帰らなきゃだから! 取り急ぎ報告!」


 なんて言い残してまた必死で走ってゆく小式部内侍こしきぶのないしの小さくなってゆく背中をただじっと見ていた。


 なんとなくではあるが、とてもいま出せる支払いではなさそうである。


「と、とにかく落ち着いて考えなきゃ……一体どのくらいの……」


 賢子かたこはその日は休みであり、中宮さまに、「休みの日であれば、ぜひ、うちの屋敷で開かれている弟たちがやっている蹴鞠けまりの会でも見に行っていらっしゃい。内々のものだけれどおもしろいそうよ」そう言われていて、蹴鞠の会とやらが開かれているらしき広大な庭の一画へとゆく途中であったのだが、先程の小式部内侍こしきぶのないしの話でそれどころでは……と思い、くるりと体を返して自分のつぼねに帰ろうとしたときである。


「あ、賢子かたこちゃんちょうどよかった!」


 そんな風に大納言の君に呼び止められていたのは。


「えっ、あっ、これは失礼いたしました。なにかご用にございますか?」


 賢子かたこは瞬時に表情を変え、数年前に裳着を済ませた途端に某公卿の子息に請われて正妻、北の方となり、急遽きゅうきょ、内裏への出仕を取りやめて引退した女童めわらの世界に君臨していた、あの伝説の女童めわら山吹子やまぶきこ直伝の上品かつ愛らしく華やかでありながら、鼻につかぬ控えめな雰囲気をかねそなえたスペシャルな笑顔、『山吹子やまぶきこスマイル』を顔に浮かべていた。


「おおっ! ちょうどよかった! いま集まったところでな……汝梛子ななし、いや、賢子かたこであったな。この時世で裳着が遅れるそうだが、先に名が決まったと聞いて祝いを持って参ったぞ」

「まあまあ、このように大勢の前で、こっそりなどと……」


 そんな風に、おもしろそうに大納言の君に言われて余裕のある笑い声を立てているのは、あの『さねすけVSさんれんせい ふじつぼのたたかい!』の堅物の『さねすけ』で、堅苦しいほど真面目で地位も名誉もある藤原実資ふじわらのさねすけであった。


 藤壺の悪目立ち三連星さんれんせいとの確執が最近すっかりなくなったのは、このいつ見ても愛らしく、それでいて品のある女童めわら賢子かたこが紫式部の娘だと知って、「あの母、さぞ苦労があるだろうに健気な……うちに産まれてくれればと呼んで、なんの苦労もさせなかったであろうに……この美貌、気品、性格の素晴らしさ! 妃へと我が家から出すにふさわしい自慢の娘になったはず……産まれたときに我が妻の子として引き取れていれば……なんという悲劇! 不憫!」などと、この時点では実子のいない(庶子はまあ何人かいるが頭数には入っていない)実資さねすけがそう思い、三連星さんれんせいは無視することにしていたからである。


 忙しい政務の合間を縫ってわざわざいつもは顔を出さない子供相手の「蹴鞠の会」へ顔を出したのも、そもそも「蹴鞠会の帝王」そんな字名がつくほど彼が大の蹴鞠好きというのもあったが、「汝梛子ななしがいよいよ裳着をするらしい……」そんなうわさを火災の前に内裏で耳にしていたので、さすがに後見人となる腰結役こしゆいやくは身分や出自が違いすぎる上に汝梛子ななしは左大臣家の女童めわら、えこひいき……などと、かえって汝梛子ななしのためにならぬと思い、それでも祝いは渡そうと自分の娘のために用意するがごとく、あちらこちらの受領や貴族たちに最近の裳着の祝いに喜ばれる品は? などと、さりげなく聞いてみたり聞き耳を立て、本日、これはよい機会と思い祝いの品を持参していた。


 連れてきた従者に目をやって早速渡そうとしている実資さねすけに慌てたのは、大納言の君たちを連れて見物をしようと、おっとり御簾内にいた道長の妻、倫子みちこである。


「まあまあ、そんな! 我が家の女童めわらにまでそのようなお気遣い頂いた実資さねすけさまから祝いを頂くというのに、このようにもてなしもなくとは……我が家の面目が立ちませぬ!」

「そんな気を遣わずとも……」


 いつもは儀礼にうるさい実資さねすけがそんな風に軽く言えば言うほど、倫子みちこは、「蹴鞠ののちに、はずかしくも略儀ながら改めて……」そんな風になってしまい、まあ、そう言えばそうか? なんて、実資さねすけは笑って蹴鞠を楽しんだあと、「汝梛子ななし改め賢子かたこへの贈呈の儀」そんな場が用意され、いつもと変わらぬ様子ではあるが、どこかうつろな賢子かたこに気づいた実資さねすけは、皇后か中宮が持っていてもおかしくはない、そんな裏面にめでたき四君子の花や鶴を彫刻した「和鏡」を、賢子かたこへ手渡してから倫子みちこに向かって牛車の車止めまでの帰り道を、賢子かたこに案内してもらってもよいかと聞いてから、長い渡殿わたどの(廊下)をゆっくりふたりで歩きつつ「賢子かたこ、なにか悩みごとがあるのならこの年寄りに聞いてみよ?」などと、車止めにつくと目の前にいる賢子かたこに視線があうようにと少しかがんで、コッソリ悩みの理由をたずねていた。

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