ぼくは人の顔を覚えることができない

赤ぺこ

1-1 ぼくは人の顔を覚えることができない

 ぼくは、人の顔を覚えることができない。

 女の人も男の人も。赤ちゃんもおばあさんも。クラスメイトも先生も。ぼくにはわからない。たとえそれが、どんなに個性的な顔の人でもダメだ。

「このくちびるはずいぶんタラコだな」

「目は少したれてるかも」

「とがった鼻は絵本の魔女みたい」

  といったぐあいに、顔の一部分だけなら覚えることができる。でも顔全体を見ようとすると、今までちゃんと見えていた目や口や鼻が、とたんにぼやけてしまう。わかりやすく言うと、『のっぺらぼう』がそこら中にいるって感じかな。目と鼻と口がついているなんて、変なのっぺらぼうだけど。

 もちろん、お父さんやお母さん、お姉ちゃんの顔もわからない。どんなに頑張っても、ぶ厚いくもりガラス越しに浮かぶ“顔みたいな何か”にしか見えない。なんでも、“そーぼーしつにん”とか、“しつがんしょう”とか言われている病気らしい。


 病気といっても、生まれつきそうだったわけじゃない。お父さんのおとぼけフェイスも、お母さんの優しい笑顔も、お姉ちゃんの怒った表情も、昔はすべて見分けることができた。

 この病気になったのは小学一年生の夏休み。原因は横断歩道にとっしんしてきた車にはねられたことだ。ランドセルのおかげで身体はかすり傷だけで済んだけど、ガードレールに頭を思いきりぶつけてしまったらしい。らしいというのは、ぼくは車にはねられた瞬間に気絶しちゃってたから。

 だから何も覚えていなくて、気づいた時には病院のベッドにいた。いや、ぶつかる瞬間に見た運転手さんの引きつった表情だけは目の奥に焼きついている。結局、それがぼくが最後に覚えている顔になった。


 都会の大きな病院に移されて、トンネルみたいな機械を何十回かくぐった後に、この病気のことを知らされた。まだ幼かったぼくはその言葉の意味がよくわからなかったし、目の奥がゴロゴロする感じもすぐ治ると思っていた。

 そんなことよりも、先生が着ている白衣のやけにこんもりしたポケットが気になって仕方がなくて。その視線に気づいた先生は、右ポケットからお菓子の袋をとりだして「食べるかい?」と、手のひらにのせてくれた。

 袋を覗くと、象とかキリンとかライオンとか、いろんな動物の形をしたグミみたいなお菓子が沢山つまっていた。それらはやけにカラフルで、赤とか白とか黄色とか、ピンクや青もあって、宝石みたいにキラキラと輝いていた。


「それよりも先生、ミノルの病気は治るんですか」

 普段は優しいお父さんが、声を荒げて先生につめよっている。

「…………申し訳ないです。正直わかりません」

「わかりませんって、そんな無責任な」

「いいですかお父さん。お母さんも落ち着いて聞いてください」

 キャスターがついた椅子をくるりと回転させて、先生はぼくたちの方をまっすぐに見る。

「この病気はですね。頭の中にある“顔を認識する神経”が、うまく働いてないことが原因なんです」

「ということは?」

「つまり、人の顔を覚えることが難しいんです。お父さんも経験したことありませんか。なんとなく印象が薄い人の顔が、なかなか覚えられないってこと」

 お父さんが黙ってうなずく。お母さんはカバンから真っ白なハンカチを取り出して、目のあたりをおさえていた。

「ミノルくんの場合、その状態が普段からずっと、誰に対しても続いているのです。相手の顔がぼんやりとしか見えていないから、次会ったときに誰だかわからない、というわけです」


 ちんぷんかんぷんだ。お父さんは理解してるかな。そう思って見上げると、買ったばかりのノートに何かを書きこんでいる。先生の言うことを一文字でも逃してはいけない、といった感じで、ものすごい勢いでペンを走らせていた。

「ミノルくんの場合は後天性……つまり交通事故が原因なので、生まれつきのような先天性のモノではありません。だから回復の見込みも充分にあるんです」

 そこまで話すと、先生は「もちろんお約束はできませんが」と小さな息を一つ吐いた。

「とにかく見守りましょう。今はそれだけです」

 大人たちがむずかしい話をしているあいだ、ぼくとお姉ちゃんは、おたがいの口にお菓子をひたすら放りこんであそんでいた。カラフルな都会のお菓子はとても甘くて、歯がとけてしまいそうだ。アメだかガムだかグミだかよくわからなかったけど、もちゃもちゃとかんでいたら、なんだかゆかいな気持ちになってきた。

 漢字で「相貌失認」と書くことを知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。

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