My Soul

まくつ

一年、夏

【八月十八日】


「山本君、そろそろ原稿の提出期限なんだけど」

「分かってます。でももう少しだけ書きたいんです」


 半ば呆れながら詰め寄ってくる先輩をいなすように答える。確かに、先輩の言う事はもっともだ。原稿の提出期限は明日。それにも関わらず、僕はアイデア一つ湧いていないのだから。

 そこそこの県立進学校。僕はそこのしがない一年生文芸部員。文芸部に入った理由は割と単純である。部活で友達を作りたかったのと、本が好きだった。その二つだ。

 結果として悪い選択ではなかったと思う。中学までは読み専だったから、文を書くというのは新鮮で楽しい。一人の作業は根暗な性格にも合っている。しかしながら、アイデアが浮かばないというのも事実だった。

 否。書くことはできるのだ。しかし、自分が完璧だと思える出来の作品は生まれない。自己採点70点くらいの微妙な作品ばかりだ。こんなのを提出するなんてプライドが黙っていない。

 本校の文芸部は伝統として、八月末に開催される創立記念祭で『軌跡』という部誌を発行している。我々文芸部員はそれに向け、日々原稿と格闘しているというわけだ。夏休みも折り返しを過ぎている。締め切りは明日。それまでに、何としてでも書き上げなければならない。


「山本君はさ、そこそこセンスあると思うよ。これまでのだって十分通用する。それなのに、何で出さないの?」


 部長の崎本先輩は心底不思議そうに問いかけてくる。怒りではなく、本当に意味が分からないといった顔だ。


「納得できないんですよ。もっと書けるって気がしちゃって」


 少し迷ってこう答えた。心の奥で胎動する、本当の自分の思いは言語化できないが、これもまた頭の中で渦巻く悩みの一つだ。


「そっか、分かったよ。そう言われると文芸部員としては何も言えないんだよねぇ。ギリギリまで待つ。詰まったら頼りにしてね」


 そう言って崎本先輩は離れていった。良い人だ。僕が他人と作業するタイプではないということをよく分かってくれている。


「あ、そうそう」


 不意に思い出したかのように、崎本先輩は振り返って言った。


「明日は来なよ。藤島が来るから。きっといろいろ参考になる」


 そう言って崎本先輩は部室から出て行った。受験生だから勉強で忙しいのだろう。二年後は自分もああなっていると思うと恐ろしい。今のうちに遊んでおきたいと思うが、原稿を進めなければいけないのだ、と自分を奮い立たせる。

 去り際に「藤島」と言っていた。名前だけは聞いたことがある幻の先輩。部結成の集会にもいなかった、所謂幽霊部員のような存在らしい。部誌発行の前にだけ来るという噂だ。僕たち一年生はその姿を誰も知らない。


「あの、藤島先輩って誰なんですか?」


 思い切って、隣で原稿を睨んでいる先輩に聞いてみる。アイデアに詰まっていたのか、幸いなことに快く教えてくれた。


「藤島先輩はすごいよ。間違いなくウチで一番才能がある。天才って感じ。純粋な文章力だと崎本先輩だけど、藤島先輩のは惹き込まれるんだよね」

「ペンネームって何ですか?」

「そういうのは本人に聞くものだよ? 山本君は人と話す事を覚えるべきだね」


 肝心な所ではぐらかされた。もっとも、一番才能があるという一言で誰の事かは分かり切っているのだが。顔も見たことが無い、天才。なんて浪漫のある響きなのだろう。面倒なはずの登校が少し楽しみになった。


「やけに楽しそうだけど、原稿は進めなよ」

「分かってます」


 適当にそう返事をしたものの、手がつくわけもない。

 焦燥とでも言おうか。いや、そんな言葉では説明できない。ただ、心の奥底では何かが胎動し続けている。しかし、それが何かは分からない。ただそれを知らないのか、気が付けていないだけなのか。いずれにせよ、こんな状態では何も書けない。それだけは確実だった。

 ノートパソコンを開いて、作業をする風を装いながら梶井基次郎を読んだ。




【八月十九日】


「おはようございまーす」


 雑に扉を開き、気の抜けた挨拶で部室に入る。バスの時間の都合上、僕が一番乗りなのはいつものこと。どうせ誰もいないのだ。挨拶なんて適当でいい。


「あっ、おはようございます、、、」


 予想とは裏腹に、ボソっとした挨拶が僕を出迎えた。消え入りそうな女声だ。半開きの扉に体を捻じ込み、部室に入る。長机の角には三年生であることを示す赤リボンを付けた女の人が座っていた。

 初めて見る人だ。だからこそ、誰か分かる。この人こそが「藤島先輩」に違いない。


「もしかして、七星先生ですか?」

「あっ、はい」


 今度の予想は的中だ。藤島先輩が、七星七海先生。去年この学校の文化祭を訪れた僕は、この人の小説と運命的な出会いを果たしたのだ。

 世界が輝いていた。本なんて、所詮文字の羅列でしかないはずなのに。七星七海先生の紡ぐ言葉は生きていて、一言一言に魂が込められているように思えた。高校の文芸部レベルなんて、正直舐めていた。度肝を抜かれた。文芸部に入部してもいいと思ったのは七星先生の影響も大きい。


「あの、ファンです」


 初対面で言うセリフかと自分でも思ったが、自然と声が出ていた。言わずにはいられない。それがファンというものだ。


「えっ? あ、どうもありがとうございます」


 虚を突かれたように、上ずった声で藤島先輩は返してくれた。

 印象が違う。文章から想像していた七星先生はもっとキラキラした人だった。まあ、手前勝手な印象でしかないから実物と違って当然なのだが、それにしてもこんなに陰のオーラを纏っている人だったとは。

 下を向いていた藤島先輩の目がようやく上がる。怯える小動物のような目だ。


「えっと、あなたは?」

「山本翔です。あの、藤島先輩は年上なんで呼び捨てにしてくれて構わないんですよ?」

「あっ、いや、一応他人だし、、、あっ、、、」


 そう言って藤島先輩は口を抑えた。顔が青い。慌てて訂正するように言う。


「ごめんなさい。他人っていうのはそういう意味じゃなくて、知り合って間もない人への礼儀というか、無礼にならないようにって思って、」

「そのくらいは分かりますよ。自分は先輩がいいなら全然問題ないです」

「じゃあ、山本さんと呼んでいいですか?」

「分かりました」


 憧れの人に名前を呼ばれた。少しむず痒くって、嬉しい。


「山本さんのペンネームは?」

「実はまだ決まって無くて、出すときは未定にしています」


 僕の返事を聞いた藤島先輩は、少し悩むような様子を見せた。


「未定さんですか、、、確か、ホラー書いてました?」

「書きましたね」

「あれ、好きです。最後の展開が無常なのが良いと思います」

「最後はこだわってまして、嬉しいです」

「………」


 藤島先輩は黙ってしまった。こっちとしても話す内容が特に無いから、間が持たない。何となく気まずい空気が場を呑み込みつつある。


「あのっ、」


 1オクターブ上がった声で、藤島先輩は声を発する。


「ええっと、私は人見知り極めてるような人間なので、間が持たないんです。だから書いて伝えようと思っていまして、よかったら読んで下さい」


 そう言って小さなメモ用紙をくれた。薄紅色の花が咲いた、可愛らしいデザイン。そこには丸みを帯びた綺麗な字でプロフィールが書かれれいる。


 藤島菜奈 PN七星七海 15歳

 文芸部所属

 趣味 読書、散歩、映画鑑賞

 好きな本 赤い部屋、忘れられた巨人、HUNTER×HUNTER

 好きな作家 星新一、カズオ・イシグロ

 好きな映画 インディペンデンスデイ、のび太の秘密道具博物館、トップガン


「あっ、高1の頃に書いたので年齢は2つ足してください、、、」

「なるほど」

「他に聞きたい事とかあったら聞きますけど、、、」

「散歩と言うのは?」

「あっ、私は運動不足が酷いので、できるだけ歩いてるんです」


 趣味が全然違う。そう思った。この中で分かるのは星新一と秘密道具博物館だけだ。他はぼんやりとは聞いたことがあるだけ。


「ちょっと待ってください、自分も書きます」

「あっ、全然お気になさらずごゆっくり」


 創作用に携帯しているメモ帳のページを取り外して、適当に筆を走らせる。


 山本翔 PN未定

 趣味 読書、アニメ視聴

 好きな本 塩の街、錆喰いビスコ

 好きな作家 有川ひろ、鎌池和馬

 好きなアニメ Angel Beats!、のび太の地球交響曲


「なるほど」


 雑な走り書きを軽く読んだ藤島先輩は、腑に落ちたようにそう言った。


「なんとなく分かりました。錆喰いビスコ、いいですよね。とあるも好きです」

「分かるんですか? 勝手な偏見なんですけどラノベとかは読まないタイプだと思ってました」

「電撃好きなんで。大御所とこのラノ大賞作くらいはチェックしてます。ラノベの中だと錆喰いビスコが一押しなんです。それに――」


 藤島先輩の表情が、真剣な物へと変わる。


「地球交響曲とは、山本さんはこっち側の人ですね」

「……分かります?」

「ええ。名作続きの令和ドラの中でも最高クラスでした。新恐竜と迷いますが、私としてはやはり脚本の妙で地球交響曲の評価が高いです。泣きだと新恐竜ですが、緻密な伏線回収に音楽というテーマ。素晴らしいの一言に尽きますね」

「先輩こそ、秘密道具博物館は傑作ですよね。最後ののび太の台詞は何度聞いても泣けるし、世界観も楽しいです。平成だと一番好きかもしれません」

「分かってますね」


 心で通じ合うのを感じる。高校生になっても子供向けアニメの映画に足を運ぶなんてと言われてきた。しかし、藤島先輩も同士だったのだ。こんなに嬉しい事はない。


「好きな物って、その人を表すと思うんです。私も好きなアニメの主人公の生き様を参考にしてます。このキャラだったらこうするって感じですね。やっぱり、人間は外的要因で形成されるので、何から影響を受けたかが分かれば自ずと人となりも想像できます」

「藤島先輩から見た自分って、どんな感じですか?」

「そうですね……」


 藤島先輩は少し迷うような素振りを見せ、慎重に答えた。


「厨二病から抜け出せない、青春憧れ人間って感じですね。他人に興味が無くって、自分を捻じ曲げて生きてるタイプ。良く言えば孤高。悪く言えばぼっちですね」


 ――完全に、図星だ。

 耳が痛くなるレベルで僕の人物像を正確に捉えている。


「すごいですね」

「あっいえ、そんな大したことじゃなくってですね、未定さんの小説も参考に考えてるのでこのくらいの精度は出せます。こういうのってすごく近いか大外れのどっちかになりやすいんです」


 謙遜はしているが、満更でもなさそうな様子だ。いつの間にか出会った時の凍り付く空気が解れている。喋ってみて分かった。藤島先輩は超がつくレベルの人見知りだが、決してコミュ力が低いわけではない。ただ、人という生き物を恐れているタイプだ。優しい人ゆえの感情だと思う。


「藤島先輩って、喋ってみると印象と違う人ですね。勿体無いって言われません?」

「崎本にはよく言われます」


 若干ばつが悪そうな返事だ。痛いところを突いてしまったか。当人としても気にしてはいるようだ。藤島先輩は少し悲しそうな表情で続ける。


「分かってるんですよ、もっと人と喋らないといけないって。でも、どう思われるかとか怒らせてないかとか考えると余計に詰まっちゃって、だから書いて伝えるようにしてるんです。小説を始めたのも、それが理由です。文字は自分から出した後に推敲できるので」


 やっぱり、優しい人だ。人の事を気にしてしまうっていうのは、周りをよく見てるって事。人間関係を拒絶した優しい人間は何人か見て来た。同じ状況に陥りながらも、書いて伝えるという選択に至っているのはすごい。

 思い切って、聞いてみることにした。


「あの、自分は藤島先輩の作品が好きで、あんな風に書けたらって思ってて。でも思うように書けなくって、自分が分からなくなっちゃって。どうすればいいんですかね」


 ずっと悩んでいた。自分では分かりそうにない。でも、藤島先輩なら答えを持っていそうだと思った。


「分かりません」


 きっぱりと。切り捨てるように藤島先輩は言い切った。一瞬、思考が空白となる。


「あっ、すみません。結構人に同じ質問されるので、答えを自分の中でテンプレ化してるんです。決して見込みが無いとかそういうんじゃなくってですね。私と山本さんは価値観も人生経験も全く違います。技術とか表現なんかは教えられますが、書く物なんて自分で決めるしかないんです。ただ、私の事を言うなら――」


 改まった感じで、藤島先輩の瞳が真剣なそれへと変わる。声のトーンが一段変わった。


「私が小説を書く時のルールというか、心構えのようなものです。自分の魂を肯定する。それだけは守るようにしてます。これは私の矜持ですね」

「魂の肯定、ですか」

「はい。魂とはすなわち、人間が人間たる所以です。そこに嘘をついたら、紡がれる言葉はただの文字の羅列になってしまう。自分の魂そのままに書くってわけじゃなくって、魂に言葉を通すんです。痛みが無く静かに通り抜ければ、それは私の言葉にである。そうして抽出した言葉の糸で物語という布を織る。そんなイメージです」


 そう答える藤島先輩の言葉には一切の淀みが無い。さっきまでの印象が嘘のようだ。間違いなく、この言葉が藤沢先輩の魂を通して錬成された物であるというのが分かる。


「簡単に言うと、自分が納得する物を書くってことですね。要は自己満足です。分かりきった当たり前の事かもしれませんが、それだけ大事な事なんだと思います。小説において自己満足はゴミですが、自分一人も納得できないモノに価値はありません。自分で胸を張れるのを書くっていうのは必要条件だと考えてます」


 そう言い切った藤島先輩の目は澄み切っている。それを見ていると、頭の中で何かが瓦解していくような感覚が生まれた。

 五里霧中だった世界が、晴れ渡るかのような。暗闇の中に一筋の光明が差したかのような。見えていなかった空間が、手にとるように分かる。


「あっ、すみません。すっかり自分語りになっちゃいました」

「いえ、響きました。魂の肯定、肝に銘じておきます。最近なんか悩んでて、何で悩んでるか分からなかったんです。でも、理解できた気がします」

「……それなら良かったです」


 崎本先輩の顔に笑顔の花が咲いた。

 次の瞬間、そんな空気をぶち破るような無遠慮さで、ドアノブがガチャリと音をたてて回った。


「おっはよー! おっ、菜奈に山本君じゃん。捗ってる?」


 扉を勢いよく開け放って入って来たのは崎本先輩だった。


「原稿、出しといた」

「少し書けそうな気がします」


 控えめにそう答えたものの、心の中では感情の激流が渦を巻いている。心の中で蠢くそれの胎動がはっきりと伝わってくる。刻む心臓のリズムから、詳細な形まで。何もかもがくっきりと分かる。


「うむ、結構結構。山本君!」


 僕の気持ちを見透かしたかのように、崎本先輩が片手で何かを放り投げた。ゆるやかな放物線を描いて飛んできたそれを、慌てて掴む。


「これは、鍵ですか?」

「パソコン室、使用許可を取り付けて来た。見せてよ、君の魂のカタチってやつ」


 そう言って崎本先輩は不敵に笑った。


「……はいっ!」


 勢いよく、廊下に飛び出した。すれ違った生徒指導課の教師が何か言った気がするが、知ったことではない。吐き出したい。表現したい。全部曝け出したい。

 どうしようもなく、書きたい。自分のカタチが見えた。この感覚をそのままに、書きたい。今なら全部、魂からの、言葉真実になる。


 書きたい。


 パソコン室に飛び込むと、一つだけパソコンが光を放っている。ご丁寧にwordが起動された状態で。


 極限まで抽出され、錬成された剥き出しの魂を、そのままキーにぶつける。






【八月二十日】


 四時過ぎの文芸部部室。紙を捲る音とホッチキスの音が絶え間なく室内を埋め尽くす。各部員の作品が出揃い、今は製本作業の真っ只中だ。今日の作業は終わったのだが、バスの時間の都合上僕と藤島先輩は帰るのが遅いため適当に作業を進めている。

 部誌の製本は着実に進んでいる。しかし――


「結局、間に合いませんでした」

「分かります。剥き出しの言葉って切れ味が良すぎて、読めたモンじゃないんですよね。私も経験ありますよ」


 僕は、間に合わなかったのだ。正確に言えば、作品自体は書き上げた。しかし、改めて読んでみるとそれは作品としての体を成していなかった。誤字脱字はまだいい。話が飛躍しすぎていたのだ。平たく言えば自分だけしか分からない物語になっていた。

 人にも理解できる仕様に加筆するのは可能だった。本気になれば一日で可能だっただろう。しかし、半端な出来になるくらいなら原稿を落とす方がマシだと思った。

 あんな風に書いたのは初めてだった。ようやく自分が何をしたかったのか分かった。あの作品は、僕の魂そのものだ。だから、妥協は有り得ない。

 でも、不満もある。あの物語は、人に読んでもらうことを想定せずに書いた。だったらわざわざ推敲する必要があるのだろうか。自分が満足すればいいじゃないか、と心の奧で何かが囁く。自己満足できれば、それでいいんだ。だったら、これ以上何かする意味なんてあるのか?

 でも、読んでもらいたい。少なくとも藤島先輩には。

 でも、加工して出来上がった、他人に読んでもらえる作品は僕の魂じゃない。


 結局、矛盾しているのだ。自分が二人いるような感覚に陥る。自分が何をしたいのか分からない。魂が二つあって、どっちも真実なのだから。


 決められない。拮抗している。

 でも、ぼんやりと見えている。


 例えるならばパズルの最後の1ピース。どんな形かは分かるのに、ここにはない。パズルという遊戯は終わったのに、パズルというモノは完成しない。欠けたピースが見つからない。最後の一歩を踏み出せない。


「出来上がったら、読ませてください」

「勿論です。でも、なんというか……」

「あー、悩みは分かりますよ」


 全てを見透かしたように、藤島先輩は優しく微笑んだ。


「最後に一言だけ言うなら、私達がやってるのは文芸です。商業じゃなくって芸術。だから、やりたいようにやればいいんですよ。自己満足、大いに結構じゃないですか。それでいいんです。まあそれでも、私は山本さんのありのままの魂の声を聞きたいんですけどね。あとは山本さん次第じゃないですか? どこまでが自己満足かってことです」


 全身に電撃が奔った。藤島先輩のその言葉は、最後のピースだった。

 自己満足でもいい。でも、待っている人もいる。少なくとも、藤島先輩は。


 だったら、それでいいじゃないか。藤島先輩に読んでもらうのが、僕の自己満足だ。


 自己満足の解釈を広げる。今の自己満足が自分の書きたいモノを書くことなら、藤島先輩に読んでもらう事も自己満足に加える。それだtて紛れもない、自分の願望なのだから。自分の中の藤島先輩の解像度を上げる。崎本先輩も、朝倉先輩も、近藤先輩も、田中も、石原も。読ませたい人間の事を思い浮かべて、作品をブラッシュアップする。魂という竜骨に、自分という肋材を組み合わせて、読み手という板を張る。作品という舟のカタチは見えている。だったら、後は。


「書きます」

「楽しみです」


 それ以上は必要無かった。ただ、自分の満足を追い求めるだけでいい。





【八月三十日】


 部誌が完成してからは、文芸部としては特にやることがない。自分のクラスの出し物の準備に大忙しで、部室には行くことはなかった。本校は三年生受験生に手間と時間のかかる劇をさせるというクレイジーな伝統を持つから、きっと先輩方も部室には来る暇は無かっただろう。

 文化祭準備期間はあっという間に過ぎ去って、いよいよ文化祭が始まった。我々文芸部員は図書委員会と共同で古本市を開催するというのが慣例だ。そこで同時に部誌『軌跡』も頒布する。

 一日目は特に何もせず終わったが、今日は僕がシフトの日だ。二年の朝倉先輩と一緒にのんびりと椅子に腰掛けて買った古本を読みながら、そつなくレジを回す。一応それなりの進学校だから古本市の人気はそこそこあるようで、文庫本のページをなかなか捲れない。


 手にあるのはカズオ・イシグロさんの『忘れられた巨人』だ。藤島先輩の好きな本というのが気になって、偶然見つけたから手に取った。正直なところ難しくてよくわからないというのが本音。こういうのは静かな場所でじっくり読むべきなのだ。


「あの、お願いします」


 聞き慣れない声。だけど、記憶に刻まれている声がした。本から視線を上げる。


「藤島先輩じゃないですか。お疲れ様です」

「いや、それを言うのはこっちです。すみません、調子に乗っちゃって」


 眼の前にはうず高い本の山。五十はあるような気がする。率直に言って、頭がおかしい量だ。この量を読むのかよと思ってしまう。


「多っ」

「すみません、調子に乗りました。あっ、文庫40冊、ハードカバー17冊、新書10冊です」


 文庫と新書は50円、ハードカバーは100円だ。


「分かりました。えっと、4200円になります」

「お願いします」


 四枚の野口英世と五百円玉が、本の山の隙間から差し出された。


「おつりは300円になります。袋はどうします?」

「お願いします、、、」


 できるだけ頑丈そうな紙袋に本を丁寧に入れる。大きめの袋をチョイスしたはずがあっという間にいっぱいになり、結局三袋も使った。


「あの、持てますかね?」

「……無理かもしれません」

「手伝います?」

「あっ、それじゃあお願いします」

「朝倉先輩、店番任せていいですか?」

「構わないよ。ごゆっくりどうぞ」


 朝倉先輩の許可も出たため、立ち上がって重そうな二袋を手に取る。ずっしりとした知識の重みが手のひらに食い込んだ。


「うっ、重いっ、」

「大丈夫ですか? 別に私が2つ持ってもいいんですけど」

「いえ、大丈夫です!」


 重いのは事実だが、耐えられないレベルではない。


「部室までお願いできます?」

「勿論です」


 三階の古本市から二階の部室棟にある文芸部部室まで、なんとか運びきった。手に持ち手の跡が残っていて、じんじんと痛む。


「ここに置けばいいですかね?」

「はい。本当にありがとうございます」

「この量、全部読むんですか?」

「まあ一応」

「ちなみに、どうやって持って帰るんです?」

「あっ……」


 間の抜けた声と共に、沈黙が訪れた。夏休みの最終日に手をつけていない課題を見つけた中学生のような顔。持ち帰りの事を完全に失念していたようだ。


「実は……」


 藤島先輩は視線を逸らす。その先を見ると、これまた五十冊はあろうかという本の山が聳え立っていた。


「昨日も、調子乗っちゃって……」

「あー、これは流石に……」

「まあ、何とかなります」


 苦い顔で藤島先輩はそう答えるが、その顔は青い。華奢な文芸部員にこの量は無理だろう。


「手伝います。バス、確か同じ方面ですよね」

「へ? いや、流石にそれは申し訳ないと言いますか、別に何日かに分ければ持ってかえれますし」

「いえ。こっちからのお願いです。アドバイスのお礼くらいさせてください」


 何をムキになっているんだと思ったが、口は引き下がらない。何でこんな事言ってるんだろう。自分が不思議だ。


「あっ、それじゃあ、お願いします」

「ありがとうございます。五時に来ますね」

「分かりました」

「それでは」


 朝倉先輩にワンオペをさせてしまっているので、足早に古本市へと戻った。



 ◇◆◇



 文化祭の一、ニ日目は滞り無く終了した。僕のクラスもそこそこの賑いを見せ、片付けまで綺麗に済ませる。残すところは三日目、三年生の劇だけだ。初めての文化祭だったがなかなか充実している時間だった。

 五時を告げる下校のチャイムが鳴っても校舎は依然として人の熱気に溢れている。クラスメイトと別れて、部室へ向かった。


「手伝いに来ました」

「ありがとうございます。バス、どうしましょうか」

「十分後のやつは混むんで、荷物多いし六時前のやつでいいんじゃないですか?」

「それもそうですね」


 そんな会話を交わして、椅子に腰掛けた。バスが来るまで暇だ。何か話したいのだが、特に話す内容が思い浮かばない。

 そんな静寂を破ったのは、藤島先輩の方だった。


「あの、さっき読んでましたよね、忘れられた巨人」

「あっ、はい。まだ最初の章も読み終わってないんですけどね……」

「割と難解な雰囲気ですもんね。ああいうのは紅茶を片手にロッキングチェアに腰掛けて読むのが良いと思います。素敵な作品なので是非最後まで読んでほしいです」

「勿論です。先輩、どんな本買ったのか見せてもらっていいですか?」

「いいですよ」


 藤島先輩は紙袋から丁寧に本を取り出していく。


「好きだった人が寄付してくれたのか分からないですけど、コーンウェルの作品がたくさんあったので買いました。あとは何となく良さそうなエッセイとか、定価だと買う気が起きなさそうなよく分からないやつですね。やっぱり古い本を買えるから古本市は楽しいんです。ほら、最近の本屋って話題書や漫画コーナーを拡大してばっかりじゃないですか。だから古本市こういう場は貴重なんです」

「それめっちゃ分かります。でかい書店は有名作家や映像化シリーズに売り場を割きすぎなんですよね。知らない作家の知らない本との運命的な出会いみたいなのが減ってきてて」

「正にそれです。出版業界も大変なんでしょうね」


 会話はそんなに上手く続かなくて、再び静寂が訪れる。今度は、僕から行くのが筋だろう。思い切って、言わなければならない。


「あの、実は自分もこの古本市には世話になったんです」

「そうなんですか?」

「はい。去年の文化祭に友達と学校見学がてら来たんです。そこで古本市に立ち寄って、『軌跡』を手に取りました。そこに七星先生の作品があって、それで文芸部って選択肢が頭の中に生まれたんです。だから、自分が今ここにいるのは藤島先輩のおかげなんです。ありがとうございます」

「………」


 藤島先輩は俯いて黙ってしまった。何か気に障ることを言ったか? いや、そんなことはないはずだ。

 しばしの沈黙の後、藤島先輩は顔を上げて、絞り出すかのように言った。


「その、ありがとうございます。自分の文がそんな風に思われてたなんて想像してなくって、すごく光栄です。その、こんな時どんな顔すればいいのか分かんなくって」

「謙遜しないでください。藤島先輩はすごいんですから」

「それは、少し照れます」


 そう言って藤島先輩ははにかんで笑った。初対面の時に感じた陰気なオーラはもうそこにはない。優し過ぎて人と関わり出すのが苦手なだけで、人柄は決して暗くないようだ。


「そろそろ時間じゃないですか?」

「ですね」

「それじゃあ、よろしくお願いします」


 部室に置きっぱなしにしていた大き目の袋に、紙袋ごと本を詰め込んでいく。50冊くらい入っただろうか。それを右肩に掛けて、左手には30冊くらい入った紙袋を持つ。残りは藤島先輩が持った。


「行きましょう」

「はい」


 流石に重い。バス停までの距離で汗が噴き出す。日頃の運動不足がこんな形で祟るとは思わなかった。藤島先輩のように散歩をするべきかもしれない。

 そんな事を考えていたら、時間少し遅れでバスがやってきた。


「定期、タッチしてもらえます?」

「分かりました」


 無理な体勢でポケットから定期を引っ張り出して、藤島先輩に渡した。両手が塞がった状態では読み取り機に近づけられない。

 重い体をなんとか支えて、バスのテロップを登り切った。下校時刻を過ぎていることもあり、バスはそこそこ空いている。ありがたく席に座らせてもらうことにした。流石にこの荷物を抱えて立つのは耐えられない。


「どこで降ります? 藤島先輩が嫌じゃないなら家まで運びますけど。いや、流石に家バレはまずいですよね。でも自分は全然大丈夫なんで、決してめんどくさいとかいうわけじゃなくって、でもプライバシーとか考えると、」

「それじゃあ、家まで頼めます?」


 藤島先輩は笑いながらそう答えた。


「暁町バス停から五分くらいのとこです」

「あー、あの辺なんですね。結構いいとこじゃないですか」

「まあ、それなりですね。スーパーとゴミ捨て場が近くていいところです」

「それ、最高じゃないですか。一人暮らししたらそういうとこに住みたいです」

「一人暮らし、ですか」

「やっぱり、県外出たいなって」

「いいですね」

「そういえば、藤島先輩は受験生なんですね」

「ええ。私も県外を目指してます。地元は好きなんですけど、やっぱりもっと学びたいですし」

「どこ目指してるんですか?」

「一応、神戸です。C判定ですけどね」

「現役は秋から上がるって言いますし、大丈夫ですよ」

「そうですね。今から本気出します」

「それ、出さない人の台詞ですよ」

「私はやりますよ。部活も引退ですしね」


 ふと、胸が痛んだ。小さな針が刺さったようだった。


「………ですよね」

「別に小説を書かなくなるわけじゃないですよ。ただ、部活って集団から抜けるだけです」

「そう、なんですよね」

「まあ、寂しいですよね。崎本とか、昨日電話してきたんです。私に涙声で。崎本は部長として頑張ってたから、思い入れもあるんでしょうね。もっとも私は幽霊部員だったので、そんなにダメージは無いです。お恥ずかしい話ですね」

「先輩は、悲しくないんですか?」

「悲しいか、と聞かれれば答えは否ですね。私は一歩引いてしまう性格なので、あんまり親しい人もいないんです。結局、山本さん以外の一年生とは話さず終わりました。でも、悲しくなんてないんです。まあ、そんな自分は惨めで悲しいですね」

「……藤島先輩って優しいですね」

「崎本にも言われたんですが、私はその意味がよく分かりません。明らかに社会不適合者じゃないですか」

「藤島先輩は人の事を考えてる人だと思います。傷つけるのが怖いんですよね。そんな風に思えるのは優しい人です。それが藤島先輩を作ってる。でも、もっと入りこんでもいいんじゃないかと思うんです。少なくとも自分は藤島先輩に助けれられたんです。藤島先輩の言葉は人に届く力を持ってるんですから」

「なるほど、私はそういう風に思われてたんですね」

「藤島先輩は藤島先輩が思ってるよりもすごいんです」

「……何だか元気が出ました。荷物も持ってもらった上に慰めてもらうなんて、ホントにありがとうございます」


 その声に重なるように、暁町の接近を告げる車内アナウンスが響いた。


「降りましょう」

「ですね」


 再び重い荷物を抱えて、若干ふらつきながらテロップを降りた。


「ついてきてください」


 重い荷物を抱えた僕に気を遣ってゆっくりと歩いてくれる。小さいけれど優しい背中を見ながら、歩く。汗が全身から吹き出し、会話どころではない。そんな僕の様子を見て、藤島先輩はさらにペースを落としてくれた。

 無言で夕暮れの町を歩き続けること十分。平凡な一軒家についた。表札の文字から、ここが間違いなく藤島先輩の自宅であることが分かる。

 促されるままに玄関に入り、大量の本を置いた。途端に体が軽くなり、空へ飛び上がれるような気さえ湧いてくる。


「本当にありがとうございます。お礼をしたいのであがっていってください」

「いえ、流石に結構です」

「私がお礼したいんです。こっちからのお願いなので、やましい要素は無いかと」


 自分も使った理論なので、こう言われると断れるはずがない。申し訳なさを抱えながらも藤島先輩の自室へと通された。綺麗に整理されていて、白を基調とした至極地味な部屋だ。普通と違う所を挙げるなら、膨大な本が巨大な本棚に詰め込まれている上にそれにも収まらない本がうず高く平積みにされているところ。恐らく千を優に超えるだろう。


「父は単身赴任、母は仕事柄帰りが遅いんです。一人っ子ですしそんなに気にしないでください」

「流石に、気にします。人の家は普通に緊張します」

「まあ、それはそうですね。で、お礼としてこれを渡したくって」


 そう言って藤島先輩は紙束を差し出してきた。原稿用紙だ。厚みは1センチくらいだろうか、ほのかに青い黒インクで文章が書かれている。


「お礼になるかは分かりませんが、一昨年の文化祭号の原稿です」

「生原稿ってことですか」

「そんなに大層な物じゃないです。ただの紙ですよ」

「万札だって科学的に言えば紙切れですよ。大事なのは当人にとってどれだけの価値を持つか。その点では、この原稿の価値は自分にとって無限大です。心から嬉しいです」

「なら、良かったです」


 ◇◆◇


 藤島先輩は玄関を出たところまで見送ってくれた。一通りのお礼を言って出ようとしたら、藤島先輩の声に引き留められた。


「あの原稿なんですが、私の『軌跡』文化祭号の作品は三年間で一つの作品を作ってるんです。是非、続けて読んでみてください」

「分かりました。本当にありがとうございます」

「こちらこそ本当に。作品、楽しみにしておきますね」

「待っててください。必ず書きます。それでは失礼します」

「ええ。お気をつけて」



 ◇◆◇



 家に着いたのは八時過ぎだった。平時よりもかなり遅い帰宅とあって妹からは彼女かと口うるさく聞かれたが、適当にあしらう。女性と一緒にいたという点では妹の勘は鋭いが、藤島先輩と僕の関係はそういうものではない。

 二日分の疲れを回復させるべく、食事と風呂をすませたらすぐにベッドに転がった。そのまま部誌を適当に流し読みする。


 やっぱり崎本先輩は断トツで上手い。この人なら唐揚げは美味いという内容でも人を泣かせられるんじゃないか。二年だと朝倉先輩と近藤先輩だが、時期部長の器は朝倉先輩だと思う。書き手を知っていると小説の読み方も変わってくる。好きな作家の推し球団と政治的主義は知らない方が良いとはよく言ったものだ。

 一年生もみんな素晴らしい作品だ。間に合わせることのできなかった自分がどうしようもなく惨めに思えて来た。今からでも書こうかと思ったが、気が進まないから結局ダラダラと部誌を読み進める。

 トリを飾るのは七星七海先生の作品だった。タイトルは『開拓』。手元にある生原稿のタイトルは『始動』、去年のタイトルは『邁進』だった。

 一つ一つは短編なのだが、三つ繋げてみると確かに一つの物語として成立している。それぞれ高校の一年、二年、三年を描いた短編なのだ。高校生というものに正面から向き合っている素敵な作品。今作では主人公が未来へと羽ばたく決意が鮮やかに表現されている。

 高校まで、我々は『子供』で『生徒』だ。しかし、これから先は『大人』になる。決められた軌跡の上を歩くんじゃない。自分の未来を開拓しないといけない。藤島先輩の作品は、そんな覚悟を象徴しているかのようだった。

 やっぱりすごい人だ。これが藤島先輩の魂。優しさと切なさと希望が溶け合った、透き通る宝石のような煌めき。包み込まれるような温かさを覚える。


 余韻に浸りつつも、最後のページを捲った。藤島先輩の書いたあとがきだ。



 あとがき


 最後まで読んでくれた貴方に感謝を。あとがきから読むという変わり者の貴方には、中身を読んでくれる事を祈って。


 さて。今回の文化祭のスローガンは「魂のままに」であった。日本には古来より「大和魂」という言葉のように「気概」を表す語として「魂」という表現が用いられてきた。


 芸術とは魂の発露に近いと言われる。文芸も例外ではない。魂を込めて書くという表現は多用されている。しかしながら、魂というものは非常にぼんやりとしてはいないだろうか。

 魂というのは見えない。故に、耳障りが良いだけの言葉と化している。余白の続く限りではあるが、そこについて少し考察してみたい。


 まずは私の結論から。

 魂を書くというのは、自分の肯定だ。


 魂というのは人間の原動力だ。そこを否定するというのは、自分の命の否定と同義。故に、魂を込めるならば自分を肯定せねばならない。


 話を戻す。今回のテーマは青春だった。部員それぞれ、魂を込めて書き上げた十人十色の解釈での青春を提供できたのなら幸いである。


 三年生は今回の『軌跡』を以て引退となる。この場を借りて、これまでの御愛顧に感謝したい。そして、これを読んでいる貴方が新たな世代の作品を手にとって頂ける事を願って、筆を置くことにする。


 七星七海

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