厨二病の僕らは世界を滅ぼすのか
水細工
第1話 放課後のすすめ
あの化学教師の解説が魔法の詠唱のように意味不明な語群にしか思えなくなったのはどれぐらい前のことだったろうか。昔から理科は苦手だ。
「……mol、モル、もる」
自分と、周囲のクラスメイトを断絶するその単語を口の中で転がしてみる。だがその異物は溶けて俺の体の一部となることもなく、いつまで経っても不快感の種にしかならなかった。
本日も匙と共に意識を放り投げることを決める。
窓から差し込む初夏の日差しのブランケットに包まれ、背中を丸めれば夢の世界はすぐ隣だった。
「昨日テレビの特集でコアラを見た。非常にモフモフで良かった。君は僕専用モフモフになる気があるみたいだね。非常に喜ばしいことだ」
「……お前の言ってることが理解できないのって俺が寝ぼけてるからか? それとも単にお前がいつも通りなだけか? 」
授業が終わり、騒がしさが再び息し始めた教室で体操着姿の少女が少し思案する様に、机に乗ったままつま先どうしをコツコツと打つ。
「おそらく後者だろう。僕の言葉を君が理解できないのは僕が
「じゃ救えないな。コアラになる気はない」
そう言いながら俺もそそくさと体操着に着替える。教室を出てポケットに両手を突っ込んで廊下を歩く。
「なら化学の授業は聞くべきだ。人でありたいなら」
俺の背中を容赦なく蹴りながらサナが付いてくる。周囲からの奇異の視線には、時折教室の壁に張り付くヤモリくらいの関心しか無さそうだ。
「仰々しく言いすぎだ。それに、科学なんかより大事なものは世の中にいくらでもあるしな」
「それはやらない理由はならない。国語は得意だと記憶していたが、もしかして案外君は辰波翠では無いのか? 」
「そうだな。本物の俺はきっとそこらの沼地で死んでて、俺は喋る泥人形なのかも」
いや、案外本当にそうなのかもしれない。俺はきっとスワンプマンなんだ。普段はその素性を隠してるが、ある日校庭に突然現れた謎の生命体イメドゥリアンによって教室が襲撃にあい、仕方なくクラスメイトを守るためにその真の力を——
「痛っ! 」
「また妄想に逃げたな。人と話す時ぐらいは現実を見ることを強くオススメしよう」
「妄想なんて」
「生憎、君の厨二病妄想悶々アホ面は食傷になるほど見飽きてるんだ」
言い訳の道を残してもらえず、サナの人差し指に殴られた額を誤魔化し半分になでる。
ちょっとぐらい妄想するぐらい良いじゃないかよ。
そう反論するイメージが湧くが、それは喉の奥で熱を失い直ぐにどこかへと消えてしまった。
厨二病を拗らせているのは事実だ。それも学校生活に支障を出すぐらいには。
「君は本当になぜ妄想に逃げるんだ」
階段を降りている途中で、サナが一足先に階段の踊り場に飛び降り、くるりとスカートを円形に広げてターンする。
「君の現実はこんなにも満ち足りていると言うのに」
「足りてねぇよ」
「例えばどこがだい? 」
「こっちのセリフだ」
「僕という」
サナが更に踊り場から一階の階段の終わりまで跳躍する。鈍い音での着地はそれでもやはり可憐だった。
「美少女の」
ダンスの一節のようなフリをしてサナが作り物めいた笑みを浮かべる。
「級友がいる」
「……確かに。それは言えてるかもな」
「だろう? 」
分銅ですら測り取れなそうな程軽々しい俺の言葉に、それでも満足げにサナは頷いた。
コイツが美少女なのは間違いない。
人の背中の蹴り癖に妙な言葉選び。数々の奇行に加えて楽しそうな物言いとは裏腹な無表情のおまけ付きの美少女だが。
「でも俺のはそういうのじゃ解決しないんだよ。きっと病気の一種だ」
「勿論だとも。診断を下してあげよう。君は厨二病だ」
「違う。そういうのじゃ無い」
ため息をつきつき下駄箱から古ぼけた運動靴を解放する。足を通せばいつも通りの圧迫感が足を包み込む。いつも通り。ずっと変わらない日常的圧力。
そのまま外に出ると屋内の涼しさは掻き消え、ジリジリとした日差しが汗を浮き上がらせてきた。
「歩いてたら現実と妄想を勘違いして電柱に正面衝突。走ってたらなぜか自分が飛べると勘違いしてこける。校庭には生徒とイマジナリーフレンドの両方が見える。病名つくだろコレ」
「確かに。僕としたことが診断を誤った様だね。プロの力が必要そうだ」
コレばかりはサナも素直に……いや、コイツと入学してから過ごしたほんの数ヶ月の間に俺が調教されてしまっただけな気もするが……まぁ比較的素直に肯定する。
初めの頃はなんて事なかった。現実ではできもしないことを想像して大きな気になったり、夜に1人で散歩をしてみたりするのが関の山だった。
だがそこから特に妄想癖が突出して大きくなっていった。小学校入学の頃にはじまった俺の厨二病はいつしか本物の病気の様相を呈し始めている。
お陰で高校の友達なんてコイツぐらいの物だ。
紫紺の髪を耳の下を通して上に上げてから一度前に引いて結び目を作って——ともかく形容するのも面倒くさい方法で結んだ変人美少女が唯一の友達なのだ。
この妙な状況も俺の厨二病(仮)の加速に一役買っていそうだな、と今ようやく気づいた。
「全員集合! 準備体操を始める! 」
体育教師に呼ばれたのでサナと別れて集合する。体を捻り、曲げ、伸ばし、身体中に血を巡らす。
その最中に約3回ほど、俺の脳内ではテロリストによる襲撃と俺の無双劇があったが、いつもに比べれば少ない方だ。
「深呼吸やめ! 休め。今日は先週に引き続いて体力テストを行う。先週休んでいた佐藤と、米田、それに深山は…——……それでは、各自種目別に分かれろ。解散! 」
体育教師の少しくどい説明が終わってから計測を開始するべく校庭の端の方に向かう。最初の種目はソフトボール投げだ。
高校生の発達途中の手には少し余るソフトボールを、馴染ます様に2、3度手の上で投げてみる。
「辰波翠、辰波翠。君の役に立つ方の持病の出番がきたじゃ無いか」
気づくと背後にはサナがいた。いつも体育の時間になると、コイツはこうやって俺のところにやってくる。なんでも体が弱いという言い訳を使って授業の大半を欠席しているらしいのだ。
あれだけ華麗な跳躍を決める虚弱体質とはなんなのだろう。こいつの嘘100%の戯言を女子の体育教師がどこまで信じているのかは謎だが、毎回出歩いて何も言われないあたり嘘を承知で面倒だから放っておかれてるんだろう。
「役に立つ持病ってのも凄い言い方だな」
「実際そうだろう?その持病に関して君が害を被った事があれば針の千本だって飲もう」
「中学の時の喧嘩で、一方的にやられたって相手の言い分がコレのせいで通ったことがあったな。クラスメイトの前での謝罪は堪えた」
「胃薬を買ってくるとしよう」
「なぁ、投げないなら俺先にやっていいか? 」
少し苛立ちの混じった声で、後ろにいた男子生徒が言う。その苛立ちの一部は、ガワだけは美少女のサナと話していることに向けられている気がしないでも無かった。
「あ、悪い。直ぐやるからちょっと待っててくれるか? 」
「そうだ辰波翠。せっかくなら」
「ふんっ。ふぅ、なんだ? 」
「覚えておくといい。賭けをしようとすると級友がいたら投球中止するべしと」
不服そうにサナが腕を組んだ。
「お、おい! あれどこまで飛ぶんだ⁉︎ 」
背後からさっきの男子生徒の声、そして後を追う様にざわめきが聞こえた。自分が力加減を失敗したことに気づく。はぁ、焦ってると碌なことがない。
「相変わらず化け物じみた身体能力だな辰波翠」
はるかの上空からゆっくりと視線を地面に下ろしつつサナが呟く。振り返れば、丁度放たれた白球は入道雲の白に吸い込まれて消えるところだった。
あんぐりと開かれた生徒の口々がその飛距離を物語る。
白雲から突き出た白球は再び青空へと身を躍らせ、一筋の生糸となって校庭のその先へと姿を消した。
[
「……200mは飛んだよな、あれ」
診断されたのは5歳の頃。あまりに力が強く手におえなかった俺を養護施設の院長が病院に連れて行ったことで発覚した。
全身の筋肉の連携度の超化。骨格構造の変化。筋収縮能力の異常発達。
要するに身体能力が人間を遥かに超えた身体能力を発揮できるという世界的にも類を見ない症状だ。
高校で大っぴらに全力を出したのは初めてだった。少しだけ期待を込めて見ると、空を眺めている男子生徒の顔は引き攣っていた。
その顔にあるのは僅かな驚嘆と羨望と、本人すら無自覚であろう本能的な恐怖。
あの手で叩かれたら。強い力はあるだけで恐怖を煽る。
「……俺もサボればよかった」
俺はいつも妄想する。
極悪非道のテロリストがやってきて俺の力が皆んなに受け入れられる日を。世界中の人々が超能力に目覚めて平凡が自分に追いつく日を。
「何かまた浸ってそうだね辰波翠。君の妄想を寛大な僕が受け止めてあげよう。面白かったら出版でもしようか」
少し冷たくなっていた指先をサナの暖かな五指が絡めとる。
「美少女に触られて声も出ないかい? 厨二病ってのは初心なものだね」
「……なぁ」
「なんだい? 」
「スタバの新作って今日出るんだっけ」
「君の口からスタバの3文字を聞ける日がくるとは驚きだ。そうだね。今日だよ」
「飲みいかね? 今から」
「7時間目からふける誘いかい? いいね。着替えをとってこよう」
そう言うとサナは俺の手を引いて教室へと歩き始めた。
「えっと……トイレ行ってくる」
そこら辺にいた適当な生徒に一応声をかけておく。丸刈のその生徒はポカンと俺の顔を見ると、消えいるような声で「うん」と返事をした。
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