221B
私がスイッチを入れると、まだ薄暗い空の下……店先の小さなライトが、ネイカー街の街角を照らし出す。
帝都の朝に立ち込める空気は冷たいけれど、こうすると、少しだけそれが温かくなったように錯覚できた。
「うん……今日もがんばろう」
独り言をつぶやいてから、厨房へ。
あらかじめ寝かせておいた生地を、黙々とこね、伸ばしていく。
静かな空間に響くリズミカルな音が、少しだけ楽しい。
私は楽器なんて演奏したことがないけど、きっと、楽団の奏者というのは、こういう気分を味わっているのだろう。
楽しいのは、生地をこねる感触と音だけじゃない。
匂いだって、そうだ。
厨房の中に漂う、生地が発酵する香り……。
香ばしい小麦と酵母の香りは、発酵が進むにつれてどんどんと濃厚なものになっていき、厨房だけでなく、店の中にまで広がっていく。
お母さんから受け継いだ、店の匂いだ。
オーブンを開くと、それに加えて、焼きたてのパンに特有のかぐわしい香りまで漂い始める。
もうこうなると、こんな小さな店の中だけで香りが収まるはずもなく……。
ほんのりと焼き色が付いたバゲットや、黄金色に焼き上がったクロワッサンを並べていると、いつもより早くやって来たコーギーさんが、店先で鼻をひくつかせていた。
ふふっ……早く、お店を開けてあげないと!
「おはようございます!」
私は元気一杯な挨拶と共に、コーギーさんを迎え入れる。
「ああ、おはよう。
マリアとユニ◯ーンガ◯ダムが焼いたパンの匂いを嗅ぐと、眠気も吹っ飛ぶよ」
「お世辞でも嬉しいです」
「ははは、謙虚なのはよいことだ。
さて、今朝はどのパンにしようか……」
コーギーさんが、そう言いながらトレーとトングを手にした。
「おはよう、マリアとユ◯コーン◯ンダム」
「マリアとユニコ◯ンガン◯ム、今日のオススメはなんだい?」
そうしていると、他の常連さんたちが、次々と顔を出してくる。
「皆さん、おはようございます」
私は親愛なる隣人たちに、笑顔で挨拶するのだった。
これが、私の日常……。
――ネイカー街221B。
母から受け継いだベーカリーの朝だ。
--
――いや、どこにあるんだよおおおっ!
――答えろ! マ◯アとユニコーンガンダム!
――いや、俺がふざけた名前を付けて遊んだりしてただけで、デフォルトネームはマリアなんだけど!
ネイカー街221B。
辿り着いたその場所で、俺は混乱しながら心中で毒づいていた。
目の前にある店……。
それは、ゲーム中最初に表示されるスチルのベーカリー――ではなかったのである。
「へー、ゲーム喫茶か。
こういう店も、あるにはあるんだな」
「景観を壊さないためでしょうね。
表からだと中がうかがえないから、品揃えが分かりません」
――ゲーム喫茶。
シンプルにそうとだけ書かれた看板を掲げる店は、窓以外が分厚いレンガの壁に覆われている上、その窓も濃いスモークがかかっていて、内部をうかがう術がない。
よほどしっかりした防音を施しているのか、漏れ出てくる音もないので、一体、どのようなゲームがあるのか……。
そもそも、ここで言うゲームとは電子のそれを指すのかどうかも、判断する余地がなかった。
でも、今はそんな事はどうでもいいんだ。重要な事じゃない。
主人公――デフォルトネームマリアのベーカリー、どこ行ったあああああっ!
携帯端末を取り出せば――間違いなく住所は合っている。
ここが、ネイカー街221Bだ。
どういうことだ……?
なぜ、この場所にマリアのベーカリーが存在しない……?
「お嬢様、ここが気になるのですか?」
そんな俺の困惑など知る由もなく、勘違いしたエリナが訪ねてきた。
「え、ええ……。
最近、ゲームを遊ぶ機会も多いですから」
まさか、存在するはずのベーカリーが、存在しないことへ驚いているとも告げられず……。
とりあえず、そう答えて誤魔化しておく。
いや、本当にどうしたことだ……?
今この時、この場所には、ベーカリーが存在しなければならない。
そして、主人公がまだ健在な母と一緒に、仲良くお店をやっていなければならないのだ。
これは、大前提である。
『パーソナル・ラバーズ』というゲームは、母に残された店を守っていた主人公へ、あなたこそ亡き皇帝の
店がないと物語始まらないじゃん!
ぐわん……と。
ハンマーか何かで頭をぶん殴られたような気分になった。
視界はピントが合っておらず、そればかりか、グラグラと地震でも起こったかのように揺れ動いている。
このあまりに広大な銀河の中で、自分がどこにいるのか、完全に見失った気分だった。
例えるなら、天動説を信じ切っている人間が、実際は地球の方こそ動いているのだと、理解してしまった時のような……。
全ての前提とすべきことが、根底から覆ってしまった状態なのである。
どうしてだ……?
どうしてマリアの店がない?
ちらりと横目で見るのは、入ってみるかみないかを検討しているユーリ君とジョグの姿だ。
――俺の介入により、歴史が変わっている?
真っ先に思い浮かんだ可能性は、それであった。
本来、二人がこんな所にいる歴史はあり得ない。
では、どうして二人がこの場所で、それより先に腹ごしらえしねえかとか、喫茶というからには食べ物もあるんじゃとか言い合っているのかというと、俺の行動が原因である。
いわゆる――バタフライ・エフェクト。
俺の取った様々な行動が影響した結果、二人は本来の歴史とかけ離れた立場に置かれているのだ。
同じように、俺の行動がなんやかんやと影響し、マリアが引っ越しでもしてしまったのではないか?
だが、脳裏に浮かんだその考えは、すぐさま否定する。
そうだとしたら、かなり最近までこの店はベーカリーだったことになるが……それらしき改修の痕跡は見受けられない。
と、いうより、随分と前からこの業態で根付き、営業してきた店という雰囲気が建物から漂っているのだ。
なら、考えられる可能性は二つ。
一つは、マリアが住んでいるのは、この場所じゃないということ。
……正直、その可能性だけでも認め難い。
これまで、俺のせいでねじ曲がったこと以外は、何事もゲーム本編で得られる情報の通りだった。
カトーの乱も、例外ではない。
今は厨房のおじさんとしてこき使っているカトーに聞いたところ、やはり、決起した大きな要因はジョグの捕縛であると裏取りできているのだ。
だが、マリアの居所という銀河を揺るがすほど重要な情報のみが、ゲーム本編と食い違っている。
それは、今いるここが、『パーソナル・ラバーズ』と似て非なる世界であるという可能性までも示していた。
いや、それだけなら、まだいい。
どんな世界であっても、力強くロボットを愛でればそれで済む話だ。
だが、考えられる可能性の二つ目は、より深刻……。
もし……。
もしも……だ。
マリアという少女など存在せず、ひいては、カルス帝に子供がいないのだとしたら?
もしそうなら、正史通りに進むと陥る銀河戦国時代で、落とし所が――なくなる。
それはつまり、全銀河が終わりの見えない内乱状態になるということなのだ。
――まずい。
――まずい、まずい、まずい。
その言葉のみが、脳裏を支配する中……。
「お嬢様、このお店に入られますか?」
エリナに問われ、ハッとなった。
気付けば、ユーリ君とジョグもちょっと期待した様子で俺のことを見ている。
この店に入るか、か……。
正直にいうと――怖い。
入ると、何か決定的なことが起こるように思えた。
だが、マリアに関する手がかりなどがあるとすれば、やはりこの店を置いて他にないのだ。
「そうですね。
少し、遊んでいきましょうか?」
だから、努めてお気楽な声で答える。
「それでは、入りましょう」
ユーリ君が先陣を切って、店のドアノブに手をかけた。
--
近況ノートで本エピソードのイラスト公開してるので、リンク張っておきます。
https://kakuyomu.jp/users/normalfreeter01/news/16818093089427350273
https://kakuyomu.jp/users/normalfreeter01/news/16818093089427397458
そして、お読み頂きありがとうございます。
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